第7話 八月十六日(1)

 短い睡眠の後、まだ夜が明け切らないうちに目が覚めた。時計よりも先にカレンダーを見る。

 八月十六日。

 一日全てを自分の好きに費やせる日が連続する、夏休みという奇跡的な期間は、三十一日までしかない。

 枕元の、携帯電話の時刻表示を見る。四時半。『黒蟻』の家に行くのは、十三時の予定だった。十二時頃に家を出れば、余裕を持って到着できる。

 ベッドから降りると、まだ家族は寝ているので、足音を立てないように気をつけながら洗面所で顔を洗い、歯を磨く。ごく弱めにエアコンをつけ、それが済んだら、早速僕は勉強机に画材を並べた。

 画材と言っても、安いクロッキー帳と0.3mmのシャープペンシル、それに消し味が気に入っている大き目の消しゴムくらい。僕はクロッキー帳に次々と、様々な角度の人体デッサンを描きつけていった。

 人に絵の描き方を教えるのだから、まず自分が描けなければ話にならない。デッサンは自分に足りない地力が目に付いてしまうため、あまり好きじゃなかったけど、目的がはっきりしているせいか、むしろ自分の苦手な所が容赦なく判明してしまうことが今はありがたかった。

 あの後『黒蟻』の家で彼女自身のアナログの絵を見せてもらったところ、色遣いにはもともと独創性があって、人目を引く。混色しすぎてメリハリがなくなる傾向があるので、それに気をつければ一定以上の評価を安定して受けられるレベルになるだろう。だから目下の問題は、デッサンだった。

 漫画を描くわけじゃないので、正確すぎるデッサン能力をすぐに身に着ける必要はないだろう。むしろイラストの構図を構成する際に、キャラクターが魅力的に見栄えする描き方をどう工夫するか、という観点で練習した方がいいはずだ。

 ただし、教える方はそれなりにどんな構図でも描けるようになっている必要がある。下からのアオリ、上からの俯瞰、そしてそれらのバリエーション、と一通りの角度から描いていると、それなりにコツがつかめて来た。

 この調子でもう一枚、もう一枚、と躍起になって描いていたら、母の声が聞こえた。

「ごはんよ。起きてる?」

 正直、わずらわしい、と思ったけど、断るわけにもいかないので、僕は作業を中断してリビングへ向かった。

 母が僕と目を合わすなり、

「何それ。消してきなさいよ」

 と僕の腕の辺りを指差すので、見てみると、うっすら汗をかいた腕に黒鉛がまだら模様を作っていた。描くのに夢中で、気付かなかった。

「朝から何描いてるの」

 母の声を背中に受けながら、ひどく恥ずかしい気持ちで洗面所へ向かい、汗とともに黒鉛を洗い落とす。親に自分の趣味のことへ目を向けられると、たまらない気分になるのはなぜなんだろう。

 リビングへ戻ると、父がテーブルについており、母の焼いたトーストとスクランブルエッグがその前に並べられるところだった。

 僕は自分の分の朝食を急いで食べ終え、食器を流しへ片付けると、冷蔵庫からスポーツドリンクの500mlペットボトルを取り出して自分の部屋へ戻った。

 携帯電話を見ると、もう八時。集中して描いていると、時間の経つのが早い。

 勉強机のイスに座ってから、少し落ち着きたくて、クロッキー帳を横へどけてノートパソコンを出し、開いた。

 少し彩色の勉強もしておこうと、補色や反対色を説明しているサイトを探した。知識が感性を阻害する、という可能性もあるので『黒蟻』に色の理屈を一から十まで講釈するような気はない。けれど、教える側の僕は正確に色彩というもののルールを把握しておく必要がある。

 そして、その知識が正しいのかを確認するために、自分の手で描く。

 アクリル絵の具を何色もペーパーパレットに乗せ、様々に混ぜ合わされた色をケントボードに塗りつけていく。まずはお手本どおりに。時には、その逆。

 上手く行きもすれば、失敗もする。教則と反対のことをしていれば当然。そしてその失敗を分析して、何がいけないのかを自分の感覚で理解する。そうすることで、使える知識が増える。応用も利かせられるようになり、技術に厚みが出る。

 これらを必要に応じて、『黒蟻』に教える。それはきっと、難しいことだ。でも、なのにどうして、こんなにも楽しいのだろう。

 またも時間は高速で過ぎ去り、十一時四十五分にセットしておいた携帯電話のアラームが鳴った。

 あわてて着替え、画材を厚手のトートバッグに詰め込む。母に、昼食はコンビニで適当に食べるからいらないと告げると、家を出た。もっと早く言いなさい、という声を背中で聞いた。

 途中のコンビニで買ったサンドイッチをかじっている間に駅に着き、予定通りの電車に乗る。誰かに会うために一人で電車に乗るなんて、僕には珍しいことだった。

 マキとは家が近いので、こんな状況になったことはない。なんとなく浮ついた気持ちになる。目的の駅に着くのが待ち遠しいような、この電車にずっと乗っていたいような、おかしな気分。

 その時、僕はようやく気づいた。

 『黒蟻』とのことを、マキにまだ説明していないじゃないか。

 マキは、恐らく、僕の絵にさしたる興味があるわけではない。絵を褒めてくれたのは僕と話すきっかけ作りのためで(それはそれで光栄なことだけど)、それ以来僕の絵なんて見たがる素振りも見せたことがない。というよりも、そんな”一人用”の趣味はほどほどにして欲しいという気配さえ漂わせている気が、時折していた。

 彼氏がオタクであることに肯定的な一般人の女子なんて、天然記念物みたいなものだろうから、それは理解できる。プロを目指しているわけでもないのに、そんなに一生懸命になって何か意味があるのか、と言われれば返す言葉もない。だからマキに、そんなことで不満はない。

 問題は、マキに、中学生の女の子に二人っきりで絵を教えたいから夏休みの間はろくに会えない、などと告げて、すんなり受け止めてもらえるだろうか、ということだ。彼女がオタクだったとしたって、理解できるものじゃないんじゃないか。

 携帯電話を取り出す。着信履歴はないけど、メールは着いていた。今日はアラームのことしか気にしていなくて、ろくに画面を見てすらいなかった。メールボックスを、あわてて開ける。

『今日は会える? 行っていい時間教えて』

 なんと返すべきかを思案する。

 返信する前に、『黒蟻』の家の最寄り駅に着いてしまった。電車を降りると、僕はホームの壁際に足を止め、メールをぽちぽちと打ち出した。

 嘘はつくまいと決めていた。同時に、全てを話すのも悪い結果を招く気がした。不要なことは言わずにおき、ついでに、ひと夏の間ろくに会えないことへの謝罪を付け足しておくべきだろう。

『今日を含めて、夏休みが終わるまで、ほとんど会えないと思う。急にこんなことを言ってごめん。大事な知り合いが困っているので、その人を助けるためなんだ』

 そんな文面になった。

 ちょっと素っ気なさすぎるだろうか。普段、マキ以外の人間とメールなどやり取りしないので、これでいいのかどうかは少し不安だったけど、これ以上書くこともない。

 送信ボタンを押して、携帯電話をズボンのポケットにしまった。

 改札を出て、歩き出す。うろ覚えで昨日と同じ道をたどったら、すぐに『黒蟻』の家を見つけることができた。

 二階へ上がり、昨日の部屋のドアの前に立つ。昨日は気づかなかったけど、チャイムはボタンが取れて壊れていた。都会の割に物音の乏しい町中で、拳でドアをノックするのが何だかはばかられ、僕は『黒蟻』の携帯電話にかけた。

 ドアの向こうで、メロディが流れる。よくは知らないが、流行の歌のようだった。

「はい」

 『黒蟻』の声が、耳元と、ドアの向こうで聞こえる。

「『ダスト』です。ええと……着いた、んだけど」

 自分がひどく間の抜けたことをしている気がした。しかし『黒蟻』は、部屋の中からぱたぱたと軽い足音を響かせてから、ぱかっと勢いよくドアを開け、屈託のない笑顔で、

「こんにちは、ありがとうございます」

と頭を下げてくれた。

「お邪魔します」

 靴を脱ぎ、上がる。

「今、お茶入れますから、私の部屋で待っててください」

 そう言って『黒蟻』は冷蔵庫をぱかりと開け――この子の周りで立つ音は、どれもこれもが軽快だった――、飲み物の用意を始める。

 僕は言われたとおり彼女の部屋へ行き、その途中で『キリコ』の仏壇の写真と目が合い、少し頭を下げた。

 卓袱台の前に座り、肩にかけていたトートバッグを降ろす。

 ついこの間まで、あの写真の少女はこの家で生きていた。ここの空気を吸い、ここの畳を踏んで、ここの布団で眠っていた。そう思うと、暮らしていたところを見たわけでもないのに、彼女がこの家にいないというのがひどく不自然に思えた。今にもあのドアを開けて、ただいま、という声を響かせるんじゃないか。

 ――声。

 僕は、『キリコ』の声を知らない。知らなくて良かったのかもしれない。写真や家具や服のように、いつまでも形に残るものしか見ていないから、どこか楽な気持ちで彼女の死を受け止めているような気がする。声なんて、口に出た端から消えていくものを一度この耳へ吸い込んでしまったら、何とかしてもう一度それを味わえないだろうかと渇望してしまいそうだ。麻薬のように。

 『黒蟻』が、麦茶の入ったグラスを二つ持ってきて、卓袱台の上に置いた。シンプルな円筒形のグラスは、濃い焦げ茶色の木目の上で、少し儚く見えた。

「ありがとう、……あ」

「はい?」

 卓袱台の前に座った『黒蟻』が首をかしげる。

「普通こういう時って、何か持ってくるのかな。たとえばお菓子とか、ケーキとか」

「え、分からないです。うち、あんまり人って来ないから……」

 僕の方こそ、人の家に上がったことってあまりない。白昼、マキの両親に内緒で彼女の部屋に忍び込んだことはあるけど、あれはまた別だ。

「そんなこと、気にしないでください。私、『ダスト』さんがどんな感じだって、失礼だとか勝手だとか、そんな風に思いませんから」

「……よく気をつけるよ」

 少し口を付けたところで、作業中に飲み物をこぼさないように、二人の麦茶のグラスを卓袱台ではなく『黒蟻』の勉強机の上に置いた。卓袱台に彼女がスケッチブックを広げると、今構想しているらしいイラストのラフ画が描きつけてあった。

「これ、これから描こうとしてるんです。湖の中に下半身だけ浸けてる状態で、女の子が果物籠の中身を洗ってるっていう感じで」

 ラフと言っても、細部まである程度描き込まれていた。少し粗い下描きと言える程度。

 描き方を教えてもらおうとする以上、それなりに構成したものを用意しておかないと、僕にも教えようがないと思ったのかもしれない。それは、正しい。『黒蟻』が、僕なんかよりもずっとしっかりした人間のように思えた。

 『黒蟻』が差し出した絵はまだ着色されていないが、構図からして、籠の中の色とりどりのフルーツが生き生きと跳ねているように見えた。こうした彼女独自のセンスは失わせないように気を付けなければならない。

「似た色の果物同士ばかりが隣り合わないようにするといい。籠の中の、果物の色と大きさのバランスをもう少し、こう……バナナとレモンは両方黄色だから離して、間にアボカドやオレンジを……」

 スケッチブックの余白の部分に、描き方の案を例示した。

「それと、せっかく水の中に入っているなら、カメラアングルもいじってみたくないか。水の中からアオリ気味にして、画面の下三分の一程度を水中にするとか。三分の一じゃ多いか、じゃあ四分の一かそれ以下。どう?」

 彼女の絵は、少し角度を付けた方が魅力的だいうことは、気付いていた。とくにアオリ気味にした時にキャラクタの表情が映える。

「あ、……いいと思います。今ちょっと想像してみたんですけど、水の青に、果物の色が映えてきれいになりそうです」

「じゃ、ラフを描いてみて」

「はい」

 『黒蟻』はスケッチブックを開いたまま傍らにどけ、決定稿用らしいA4サイズのケントボードを取り出した。構図から考えるとB4くらいの用紙に描いてほしいところだけど、彼女のスキャナは僕が持っているものとサイズが同じで、A4サイズまでしか取り込めないことに、勉強机の上を見た時に気付いていた。

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