第6話 八月十五日(4)

「私たち、この頃は……事故の起きた頃はってことなんですけど。あんまり仲良くなかったんです。お姉ちゃんは、絵を描くたびに誰からも褒められてました。キリコサイトでは他の投稿者の人たちが主役だからってあんまり自分の絵をアップしてなかったですけど、他のサイトに匿名で投稿しては、いつも絶賛されてました。中には、今度ホームページを開設するのでイメージイラストを描いてほしい、なんて依頼まで来てて。断っては、いましたけど」

 僕は、『黒蟻』の様子を見て、これから今日の本題が始まるのだと気付いた。意識を彼女へ集中して、その思いを汲み取ろうと見つめる。が、彼女の視線は落とされたまま、その口だけがまくし立てるように動いた。

「うらやましかったんです。お姉ちゃんがちゃんと絵を描き始めたのは、中学生の頃からでした。小学校の頃使ってた水彩絵の具や色鉛筆なんかで。私は、幼稚園の頃から落書きが好きで、ずっと描いてて、でも特別上手くならないまんまで。後から描き始めたお姉ちゃんの方があっという間に上手になって、すごいね、なんて言いながら、本当は面白くなかったんです。お姉ちゃんは顔も髪もきれいで手足もすらっとして女の子らしくて。あの遺影の写真見てもらえたら分かりますよね、美人だったんですよ。この上絵まで私より描けるんだったらもう、私なんてなんなんだろうって」

 色んな感情が、処理されないまま渦巻いているのだろう。『黒蟻』の目から涙がほとほとと落ちた。少し癖のある髪が、しゃくり上げるようにくらくらと揺れる。

「それでふてくされて落描きも描かないでいたら、当然、お姉ちゃんの方がもっとずうっと上手くなって、もう追いつけないくらいになって。私がすねてるものだから、お姉ちゃんとの仲もぎくしゃくして来て。そんな時なんです、『ダスト』さんの絵を見て、お姉ちゃんがはしゃぎながら私に、見て見て、素敵な絵を描く人がサイトに来てくれたよって言いながら、自分のパソコンの画面の前に、引きずるみたいに私を連れて行って。私もその絵を見て、ほんとだ、きれいだねって、姉妹で顔並べて画面に見入って。我に返ってから、二人で顔見合わせて笑っちゃったんです」

 少し、めまいがした。そんなことが……。

「その少し後でした、事故があったのは。『ダスト』さんがいなければ、それにキリコサイトに投稿してくれなかったら、私、気まずいまんまでお姉ちゃんとそれっきりになってたかもしれないんです。だから『ダスト』さんは、私に……私たちにとって特別な人なんです」

 そして『黒蟻』はようやくぱっと顔を上げ、赤い目をしながら、

「ありがとうございました」

 また視線を下げた。今度は、深々としたお辞儀のために。

「お礼なんて、……僕が言わなきゃいけないくらいなんだよ」

 それは本音だった。

 自分が、見知らぬ他人にそんな風に思われているなんてこと、想像したこともなかった。

「お願いって、キリコサイトの運営のこと? 僕はホームページの作り方や管理について、特別詳しいわけじゃない。でも、できる限りのことは協力するよ」

「サイトの方は大丈夫だと思うんです。お姉ちゃんに、管理の仕方も教わってたんで、代わりに更新したりもしてましたし。――……『ダスト』さん」

 『黒蟻』が、身を乗り出した。

「絵を教えてください。私の、先生になってください」

 彼女の言葉を一瞬反芻して、理解しかねて訊く。

「……絵って、僕が?」

「はい」

「……君に?」

「そうです」

「なぜ?」

 頭を回転させながらなので、口が上手く回らない。彼女が僕に絵を習ったところで、何がどうなるというのか。そもそも僕は、多少絵心があるからと言って、人に教えられるほど達者なわけじゃない。光栄だとは思ったが、二つ返事では引き受けられない。

「私、キリコサイトを続けたいんです。お姉ちゃんがやっていたようにはいかないかもしれないですけど、でも、なくしたくないんです。もちろんユーザーの皆さんも大好きですなんけど、キリコサイトには……、あそこには今も、……お姉ちゃんがいるような気がして」

 キリコサイトのトップで微笑む女性のイラストを思い浮かべた。彼女は今こうしている間にも、サイトの来訪者たちを温かく迎え入れ続けている。この世から、キリコ本人が消滅した後でも。

「でも、あのサイトの常連の投稿者の皆さんって、トップの絵も含めてほんの数枚の『キリコ』のイラストの良さを認めてくれている人たちなんですよね。もし『キリコ』の絵がもっと下手だったら、来てくれる人の数も、投稿される作品の質も、今よりずっと低かったと思うんですよ」

 それは、確かに言えた。僕自身、『キリコ』が自分と同等かそれ以上の画力の持ち主だと――もちろん、”それ以上”だったが――思わなければ、今ほど入れ込んでキリコサイトに投稿してはいなかったろうと思う。

 キリコサイトのランキング上位の面々の絵を思い浮かべた。今すぐ、その辺のイラスト系の雑誌の表紙くらいなら飾れるんじゃないかと思える質の作品がいくつも脳裏に去来する。『キリコ』が腕一本で描いた絵が、そのままカリスマとなって名うての描き手たちを惹きつけたのだ。

 確かに、あのレベルの人たちなら、『キリコ』という画力に特別秀でた管理人がいないキリコサイトが形の上でだけ残っても、いずれ興味を失って去っていくだろう。

 それは、僕にとっても寂しいことだった。とても、寂しいことだった。

「だから、私、新しく『キリコ』を描きたいんです。今の訪問者の皆さんが認めてくれるような、これからもキリコサイトに来てくれるような、そんな『キリコ』を描けるようになりたいんです。そのイメージに一番近いのが、『ダスト』さんの絵なんです。だから――だから、私に絵を教えてください」

 ほとんど泣きそうに潤んだ目を丸く開いて、『黒蟻』は僕に視線をぶつけて来た。

 僕はそんな時に、彼女のハンドルネームの由来がやっと分かった、などと考えていた。どこかころりとした、細い小さな体。黒い髪。丸い頭。丸い瞳。何もかもが、黒く、丸く、小さい。

 同時に、彼女の申し出を断る理由など、自分に何一つないということに気づいていた。むしろ、自分にできることであれば、何でもしてあげたい。『黒蟻』と、今は亡き『キリコ』のために。

「僕は、CGは描けないよ」

「アナログで描く予定です。CGは本当に付け焼刃というか、まともに扱えてませんし」

 僕は、一度嘆息した。覚悟を込めて、口を開く。

「分かった。僕に教えられることは、何でも全部教えてあげる。でも、それがお手本だなんて思わないでほしい。僕の見せる何もかもは一つずつの例に過ぎなくて、その中から君の役に立ちそうなものを君が選んで、身に着けるんだ。そしてできれば、本や画集からでもいいから、僕が教える以外のことも同時に吸収して欲しい」

 それは、僕が美術部の活動を通して学んだ教訓だった。常に別の視野を持っていないと、自分が今学んでいるものの良さも悪さも判断できない。結果的には、成長の速度を落としてしまうことになる。

 『黒蟻』は、深刻そうにしていた表情を一転、ひまわりのような笑顔を浮かべて、

「はい、先生!」

と大きくうなずいた。

「……うん。まず、先生はやめよう」

 聞いているのかいないのか、『黒蟻』が携帯電話を取り出し、僕らは電話番号とメールアドレスを交換した。

「私、夏休みの間なら、昼間は毎日だって大丈夫です」

「じゃ、僕が行ける日は前日までにメールとかで連絡するよ」

 幸い、ここの駅までは僕の定期券で無料で来られる。

「さっそく、明日はどうですか?」

「いいよ、何時にする?」

 この時、僕の頭の中には、本来時間を作って会うべきはずのマキのことなどすっぽりと抜け落ちていた。

 ただ、降って湧いた非日常を前にして、気分がひたすらに高揚していたのを覚えている。

 自分ではどんなに打ち込んでいるつもりでも、僕の絵なんて、傍から見ればただの、高校一年生の子供の趣味に過ぎない。それが、思いがけず人から請われ、誰かを助けることになるかもしれないのだ。しかも、自分にとって、まさにその打ち込んでいる趣味の根幹に関わる人たちのために。

 翌日の打ち合わせのような会話をしているうちに、気がつけば僕らは『黒蟻』の家で、夜の七時を迎えようとしていた。

 さすがにこれ以上の長居は気が引けるし、第一お腹も空いた。

「ごめん、遅くまで。僕はもう帰るよ」

「ありがとうございました。すみません、遅くなっちゃって」

 同じように謝り、同じような文言を口にして、僕らは立ち上がった。

 居間を通り抜け、『キリコ』の遺影に目礼する。手を合わせるのは、何か白々しくて嫌だった。

「そういえば、お母さんは仕事? まだ帰らないの?」

 父親はもう少し遅くなるものかもしれないが、母親はパート勤めなどに出ているとしてもこれくらいの時間には帰宅するものではないかと思ったので、訊いてみた。

「うちのお母さん、深夜まで仕事なんです。夜十二時を回ったり、朝に帰って来ることも結構あって」

 そこまで言ってから、僕が気になったことを先回りして、『黒蟻』はさらに続けた。

「お父さんはいません。私が小さいころに離婚してるんです」

 寂しそうに、けれど極力感情を殺してそう言う彼女を見て、僕は一時、たまらない気分になった。今までどれだけ、この無味乾燥な一言を他人に断って来たのだろう。

 何か言ってあげたい。けれど、何と言えば元気づけてあげられるのか、暇さえあれば画材とばかり向き合っている自分には分からない。

 靴を履き、ドアノブに手をかけた。

 何か、何か言えることはないか。

 このドアを出れば、次に『黒蟻』と会うのは明日だ。何か、今日の内に言っておけることは無いだろうか。

 必死で考えた頭の中に浮かんだのは、先ほど姉へのコンプレックスの吐露を聞いた時に、僕の心をよぎったある感想だった。

「あのさ。君は、『キリコ』さんがきれいで、絵も上手だから、羨ましかったわけだよね」

 僕にそう突然言われて、『黒蟻』が疑問符を顔に浮かべながらも「はい」とうなずく。

「これはお世辞じゃないし、本当に本音だから、逆に誤解されないよう伝えるのが難しいんだけど。『黒蟻』、君は可愛いよ。顔の造作……造作って分かる? 分かるか、そう、造作が整っていると思う。絵だって見るからに、この短期間で成長してる」

 面と向かってそんなことを言われ、『黒蟻』の表情がふにゃりとゆるんだ。どんな顔をしていいのか分からないんだろう。困らせているのかもしれなかったけど、構わずに続けた。

「僕は君を手伝うよ。でもそれは、『キリコ』さんのためだけじゃない。今日君と会って、話を聞いて、君を助けたいと思ったからだ。それだけは、言っておく」

 言いながら照れて来て、僕はそれ以上耐え切れずに「おやすみ」と言ってドアを開け、暮れかけた空の下に出て、夏の熱気とは無関係に火照りかけた手でノブを閉めた。

 速足で、適当に見当をつけて駅への道を歩き出しながら、自分の言葉を反芻する。

 何一つ嘘ではないが、変な言い方をした気がする。あれではまるで、『黒蟻』の顔が可愛らしいから助けてやることにした、という風に取られてしまわないだろうか。

 ドアを閉める時、彼女がどんな顔をしていたか、思い出そうとした。が、こっちも気恥ずかしさのせいで向こうの顔を正視できなかったため、思い浮かべられなかった。

 何となくまっすぐ家に帰る気がしなくて、本屋やコンビニをふらふらと冷やかしていたら、帰宅したのは夜の十時近くだった。

 家に帰ったら、この降って湧いた事件の余韻が日常の現実感に打ち消されてしまうようで、もったいないと思ったのかもしれない。

 アパートのドアを開けると、ちょうど玄関前の廊下を歩いていた母親に、

「どこへ行ってたの。心配してメール入れたんだから、返信くらいしなさいよ」

と咎められた。

 何と答えたかは、覚えてない。生返事だったのは、確かだけど。夕飯はいらない、と伝えたのはぼんやりと覚えてる。『黒蟻』の家から出ようとした時は結構空腹を覚えていたのに、いつの間にか食欲が失せていた。

 自分の部屋へ入って、ドアを閉めた。

 さあ、大層なことが始まったぞ、と思った。

 部屋の明かりをつけて、すぐにパソコンを立ち上げ、キリコサイトのトップページを開く。

 緑色の髪の女性が、昨日と変わらない姿で出迎えてくれた。

 僕が、皆が、キリコと呼んで来た女性。僕が今日出会った、現実世界の『キリコ』の残り香が、この女性キャラクタに吸い込まれていく。今にも動き出し、画面から出て来るんじゃないかと思えた。

 今日握った、絵筆の感覚を思い出す。

 僕が見たことも、もちろん触れたこともない、『キリコ』の指の記憶が軸の凹みにに刻まれていた。その指の様子を再び頭に浮かべる。それは容易に、恐ろしく生々しく、リアルに想起できた。そしてまた、鳥肌。

 温度の無さそうな、細い指。その手を想像の中で握る。するとそれは見た目よりもずっと温かく、柔らかく、こちらを握り返して来る。

 指が、僕の手の甲をなぞる。それから少しづつ腕を這い上がり、肘を、二の腕を、肩口を、やがて鎖骨をたどって、首元へ。

 そして、唇をくすぐるように触れてくる――指と、唇とのキス。

 僕の息が荒れていく。

 まだマキのそれすら断片的にしか知らない、女の人の肌の感触。

 『キリコ』に触れたい。あの、ディスプレイの中のキリコにでもいい、キスをしたい。

 こんなことを考えてはいけない。それは分かっている。『キリコ』を、こんな風に利用してはいけない。

 でも、いびつに膨らんだ欲望に、僕はもう抵抗できなかった。

 胸中で舌打ちし、それならさっさと済ませてやろうと、ベッドに飛び乗り、布団を頭からかぶる。下着を下ろし、遮二無二右手を動かした。

 マキと初めてキスした時も、こんな、激しい渦に飲み込まれるような興奮は無かった。

 なんて下衆なんだろうと自分に呆れながら、『キリコ』の遺影の姿と、キリコサイトのトップのキリコの映像、そしてわずかに知った異性の人肌の感覚がぐるぐると頭を巡り、僕はすぐに終わってしまった。

 呼吸が落ち着いてから、いくらかの罪悪感を抱えつつ、ベッドから降りた。頭がようやく冴えてくる。パソコンのディスプレイに目をやった。絵師たちのランキングが表示されている。

 『ダスト』の名前を探す。十五位。自己最高記録に残留中。決して低い順位ではない。でも注目されるほど、高くはない。

 『キリコ』と『黒蟻』は、そんな僕を見てくれていた。僕の絵を見て、僕のことを考え、僕の絵のことを考えてくれていた。

 やってやる。

 僕は、下らない人間だ。ちょっと絵が上手いだけが、まあ取り柄。自分の恩人のような女の人、しかも故人に、汚い欲望を抱いてしまうような、不安定でどうしようもない奴。

 そんな僕が、彼女達の役に立てるなら。

 あの人たちのためにできることがあるのなら、今の自分にやれることの全てを捧げてやる。

 今はもうサーバのデータ上にしか存在しないキリコと、そのキリコだけが僕との間をつなぐ彼女の妹。

 ネットと、そこに掲げられた絵だけが取り持つ縁と運命。

 電脳の姫君と、そこにひざまずく騎士気取りの奴隷。

 今は他の全てを脇に追いやってでも、彼女たちに報いてみせる。

 僕の特別な夏が、始まった瞬間だった。

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