第5話 八月十五日(3)
「どうぞっ」
一枚のドアの前で彼女が立ち止まり、ノブを引いて開けた。
「……お邪魔します」
小さな土足用スペースに靴を脱ぎ、上がらせてもらう。
部屋の中は、ほぼ外見から想像した通りの様子だった。
全体的に黒ずんだ、薄暗く狭い空間。
ドアを開けてすぐに台所があり、流しのすぐ向かいに食事用と思われるテーブルがある。奥は障子で仕切られており、その先にはおそらく和室があるのだろう。
「奥が、私の部屋なんです」
そう言って自分も靴を脱いだ『黒蟻』が、僕の横をすり抜けて障子を開けた。
促され、僕も続く。やはり障子の向こうは和室で、六畳の中央に卓袱台と、右手に仏壇がある。タンスや扇風機などが部屋の隅に陣取り、狭い部屋の窮屈そうなイメージを強調していた。
窓は一応あるが、なんだか小さめで、台所と変わらない薄暗さだった。
左手にはふすまがあった。もう一室、彼女の部屋がその先にあるらしい。『黒蟻』はそのふすまを開け、また「どうぞ」と僕を招き入れた。
そこは四畳半の、小ぢんまりとした部屋だった。傾いた太陽の光が帯状に差し込んで、どこかうつろな印象を与える空間を照らしている。
勉強机が部屋の手前と奥に一つづつと、タンスが一つ。部屋の中央にはまた卓袱台。ベッドは無い。寝る時には卓袱台を立てて、脇にある押入れから布団を出して敷いているのだろう、と見当をつけた。
押入れには、ハンガーで掛けられた黒いセーラー服がある。ビニールのカバーで覆われており、クリーニングから帰って来たばかりなのかもしれない。彼女の制服だろうか。
勉強机の上には、ノートパソコンが鎮座している。これが彼女がキリコサイトに接続する入り口なのだろう。
建物自体はかなり古そうだが、部屋の中はすっきりと片付いて清潔な感じがした。
ぱちんと音を立てて、『黒蟻』が部屋の明かりのスイッチを入れた。黄ばんだ光が天井から降り、部屋の中にいくらかの生活感が湧いた。
その中で、卓袱台が、乱雑に積まれた紙束を重そうに乗せていた。上質紙かコピー用紙のようで、数センチは積もっており、週刊少年漫画雑誌のような厚みに達していた。
その紙のどれもに、人物や静物のデッサンが描きつけられている。どうやら、これが『黒蟻』の練習用紙らしい。
「すみません、散らかってて」
恥ずかしそうに言う少女にあいまいにうなずいて、僕はその紙束を手に取り、
「見てもいい?」
と口に出した時には、もうぱらぱらと一枚づつめくっていた。
「え、だめですよ、人に見せる用の絵じゃないです、だめですって」
ごめん、と彼女に紙束を返し、そのふくれっ面を見ながら、僕は何か、焦るような感覚を味わっていた。
彼女の絵は、確かにまだまだ拙い。だが、ちらりと見えた紙束の下の方の絵は、ラフスケッチなのだろうことを差し引いても、とりわけひどいものだった。
それに比べると、上の方の紙に描かれた絵は、格段の成長を見せていた。今日のイラスト集の出来に近い。全体のバランスの取り方に甘さはあるものの、基本の練習の成果が直接的に表れていることが分かる。
「落書き時代のも入ってるんで、特にひどいんですよ、下の方は」
「一番下って、いつ頃描いたものなの?」
さりげない振りをして、聞いた。
「脱・落描きを目指した頃だから、半年前くらいです。一番上のは、今朝描いたやつです」
焦燥感が、更に募った。
考えてみれば自分自身は、デッサンやスケッチのような基礎の練習をもう何年もやっていない。
イラストの中で、複雑な形をした手や指の表情を描いたり、変わったアングルからの構図を描いてみようとすることがある。そんな時、昔はまずスケッチブックで練習してから、本番に取り組んでいた。しかし最近は、とにかく早く一枚のイラストを仕上げるのに執着して、描きやすい構成の絵ばかり描いていた。上手く描くのに手間がかかりそうなら、描く内容を当初のイメージより平易な構図に変更したりもした。
そんな自分に、面倒ごとから逃げようとする後ろめたさを感じながら、自分に描ける範囲で仕上げるのも画力の内だ、などと自分に言い訳したことさえあった。
自分に足りないものを真正面から手に入れようとしていることがありありと伝わる『黒蟻』の絵は、そんな僕の情けなさをとがめているように思えた。
僕は、嫉妬していたのだった。『黒蟻』の熱意に。
「『ダスト』さん?」
気がついたら、眼鏡の向こう、彼女のくりっとした目が下から僕を覗き込んでいた。
「ごめん、なんでもない」
「座っててください、飲み物持ってきますから」
紙束をどかした卓袱台の前に僕を座らせ、少女は台所へ小走りで去って行った。
なんとなく居心地の悪さを感じながら待っていると、すぐに彼女が
「あ、なんで正座なんですか」
と麦茶のグラスを持って戻ってきた。
「暑いですよね、ごめんなさい」
そう言って部屋の隅の扇風機のスイッチを入れる。無造作に『黒蟻』がそのまま座ると、スカートが朝顔の花を逆さに伏せたような形で畳に広がった。
「いや、暑いのとか寒いのとかは平気な方だから。ありがとう」
置かれたグラスを手に取り、一口飲んだ。自分で思っていたよりもずいぶんのどが渇いていたらしく、数回続けて嚥下したところで、初めて入る女の子の家でトイレを借りることになるのも恥ずかしいなと思い、グラスを置いた。
その『黒蟻』は勉強机の引き出しの一つを開けて、なにやらごそごそやっている。
そして彼女は、有名な画材屋のロゴの入ったビニール袋に包まれた、A4サイズくらいのごく薄い板のようなものを取り出した。紙のようにぺらぺらとはしておらず、ある程度の硬さのあるものを包んでいるようだった。
中身は分からないが、ケントボードの類かな、と見当をつける。ケント紙でできた、0.5mmくらいの厚さのある、硬いイラストボードだ。彼女の絵が描きつけられているのかもしれない。
見て欲しいものというのは、絵なのか。
「見て欲しいものといのは、絵なんです。これです」
心を読み取ったように言われて、どきりとした。
彼女の手が慈しむようにビニールを外すと、中から出て来たのはやはりA4のケントボードだった。
わざわざ家に招き入れてまで見せようというのだから、よほどの力作なのだろうか。
絵描き仲間として、批評して欲しいのかもしれない。ならば誠心誠意取り組もうと、それなりに覚悟を決めて、そっと僕の方へ差し出されたボードを受け取った。両手で持ち、絵と相対する。
自分が見ているものが何なのか、すぐには分からなかった。既視感のようなものに襲われ、自分を取り巻く現実味がふっと薄れ、少し体が浮いたような気さえした。
手が震える。
そこには、今日まで僕が幾度となく見つめ、感銘を受け続けて来た、キリコサイトのトップページに使われている絵があった。
緑色の豊かな髪の女性が、こちらに柔らかく微笑んでいる。
恐らくこれが、原画なのだろう。これをスキャンして、サイトへアップしているのだ。
密かに、けれど確かに憧れ続けた人の、手ずから描かれた絵がここにある。僕に新しい価値観と喜びを与えてくれた恩人の絵の、実物。
ということは。
ぼくはがばっと顔を上げ、
「君ッ――……」
とだけ声を出した。
『黒蟻』がたじろいだのを見て、自分はどんな表情をしていたのだろうと思ったが、落ち着こうとするより先に、『黒蟻』が言った。
「私じゃないです、これを描いたのは」
かくん、と肩の力が抜けた。
君、『キリコ』さんとどんな関係なの、と聞こうとしたが、またも彼女の方が先に口を開いた。
「『キリコ』は、私のお姉ちゃんなんです。本当の名前は、木へんの桐という字に子供の子で、漢字は桐子なんですけど、トウコと読むんです。それをもじって、『キリコ』」
目の前にいるのがキリコ本人ではなくても、僕には充分に驚きだった。この子が『キリコ』の妹。ここが『キリコ』の家。口が開きっぱなしになっていることに気づいても、構う余裕がなかった。
ということは、しばらくここに座っていれば、本人がこの家に帰ってくるのだろうか。
あのドアを開けて、ただいま、なんて言いながら。
会ってみたい。
強烈に、そう思った。会って、お礼が言いたい。
キリコサイトは参加者無料で運営されている。何の見返りもなしに、あんなにも居心地のいい空間を作ってくれた彼女に、せめて素直な賛辞を送ってあげたい。
ネットを通じての人間関係なんて、ほぼイコール出会い系サイトのようなものを想像していた僕には、『キリコ』の存在は極めて異例だった。
ただ、会ってみたい。声を聞いてみたい。『キリコ』は女性らしいし、憧れのようなものを感じてはいるけど、だからと言って彼女と特別な関係になることを望んでいるわけではない。とにかく、ただ、会ってみたい。
「『キリコ』……さんは、ここへ帰って来る?」
他にどこへ帰ってくるというのだ、と思い至り、僕は自分の混乱ぶりを自覚して赤面した。
しかし、『黒蟻』は僕の言葉に、首を横に振った。その意図が分からず、再度尋ねる。
「違うのか。『キリコ』さんはここに住んでるんじゃない?」
『黒蟻』はすっと立ち上がり、仏壇のあった部屋――というより、仏壇そのものの方を向いた。
そういえばこういう状況なら普通は線香くらいあげるの常識だったか、と思いながら、同じ方向を見る。
仏壇には、カラーの遺影が飾られていた。スナップ写真から使用したのか、明るい背景の中で、不自然なアップに切り取られた故人が微笑んでいる。
仏壇というと何となく老人のためのもの、というイメージがあったのだけど、そこに映っていたのは存外若そうな少女だった。
年の頃なら、高校生くらいだろうか。僕よりも少し年上に見える。その時、写真の少女が押入れの前のハンガーに掛かっていたのと同じ制服を着ている、と気付いた。
「この間までここの四畳半部屋、二人で使ってたんですよ」
『黒蟻』の声が、僕の耳に入りきらずに耳朶をつるりと滑り落ちた。
写真立ての中で動かない、長い黒髪の美しい少女。
「ついこの間、バイク事故で。姉は、本当なら、高二の夏休みを今頃過ごしてたはずなんです」
身動きができなかった。何と言っていいのかまるで分らなかったし、何より、突然殴りつけるようにして去来した喪失感に耐えるので必死だった。
会ったこともない人間。
肉声を聞いたことさえない相手なのに。
中学生の時、同級生が、車に撥ねられて亡くなったことがあった。僕はその子とは友達でも何でもなく、ほとんど口もきいたことがない相手だった。それでも、それなりに悲しかったし、しばらくはショックを引きずった。
けれど今僕を包んでいる絶望感は、その時とは比べ物にならなかった。同じクラスの中で同じ空気を吸っていた同級生の死よりも、今日まで顔も知らなかった他人の死の方が桁外れに悲しいなんて、自分でもおかしいとは思った。
けれど、呼吸はとめどなく乱れ、悲しみと苦しさのせいで、涙がにじんでくる。
膨れ上がる感情をガス抜きするように、口を開いた。何かをしゃべらなければ、そのまま破裂してしまいそうだった。
「最近……」
何とか声を絞り出す。目元をぬぐい、
「最近、キリコサイトで、新規の人たちへの管理者のコメントが少ないなって思ってたんだ。何かで忙しいのかなって、それぐらいに思ってて……。でも、細かい更新やメッセージは最近でも少しくらいあったけど……?」
「あれは、私がやりました。あんまり色々しゃべると、贋物だってばれちゃいそうでしたし、必要最小限に更新してたんです。『キリコ』がいなくなったなんて知ったら、みんな悲しむと思って。……もちろん、いつまでもは内緒にできないでしょうけど。お姉ちゃん、『ダスト』さんが投稿してくれた時、すごく喜んでましたよ。好みの絵を投稿してくれる人が来てくれたって。最初のコメントなんてほんの数行でしたけど、書き込むまでに何十分もかけたんですよ。これでいいかな、偉そうじゃないかな、なんて言って」
そう言われて、僕は複雑な感情がいくつもないまぜになって、シャツの胸の辺りを思わずわしづかみにしていた。
顔も知らない僕のことを、そんな風に気遣ってくれる人がいた。僕の絵を見て、そんな風に思ってくれる人がいた。
でも、その人はもういない。今はもう、いない。
「だから私も、うれしかったです。お姉ちゃん、本当にキリコサイトやってて楽しそうだったから」
ぽつりぽつりと、『黒蟻』が言う。
「『ダスト』さん、よかったらお姉ちゃんの絵、見てあげてください。」
そう言って彼女は、さっき引き出しを開けたのとは別学習机の中から、紙の束を取り出した。
普通の上質紙から、ケントボード、わら半紙、更には千代紙に描かれているものもあったけど、どれも確かに、『キリコ』のトップ画像と同じ画風だった。
楽しそうに笑うキャラクターたち、世界のどこにもないのだろうになぜか懐かしい幻想的な世界観。柔らかく、でも迫力のある色遣い。緻密で、複雑で、丁寧に描きこまれた背景。
どの絵からも、好奇心と挑戦、そして愛着が感じられる。
こんなにも魅力的なのに、もう新しい作品が紡がれることは無いのか。世の中には、こんなに寂しいことがあるのか。
「お姉ちゃんは、人と話すのがどっちかって言うと苦手な方で。でも、絵を見たり見せたりするのは好きだったんです。お姉ちゃんのコミュニケーションは、いつも絵から始まってました。キリコサイトを始めたのも、その延長みたいなもので。上手い人が来てくれた時はキャーキャー言って喜んで、まだ下手な人が来た時はお母さんが子供を見るみたいに気にして、励ましたり、聞かれればどんどんアドバイスしたり。だから私も、キリコサイトに投稿してくれた人たちはみんな好きです。サイトが人気が出始めて、そうしたら変な人たちもたまにはやって来たけど、ほとんどはちゃんとした人たちでしたから」
「それは、『キリコ』さんのおかげだよ」
お愛想ではなく、本当にそう思う。『キリコ』の真摯さや優しさが、ユーザーの自然な自浄をもたらしたのだということは、サイト利用者の誰もが口を揃えるところだった。
「ありがとうございます」
『黒蟻』も涙ぐんでいた。
僕は一枚づつ、手元の絵をめくる。紙だけでなく、画材も色々なものが使われていた。
アクリル絵具、カラーインク、マーカー、パステル、色鉛筆、なんとクレヨンに顔彩。
「お姉ちゃん、CGはまだ研究中で。ていうかうちのパソコンだと容量が少ないせいであんまり上手く塗れなくて。アナログの画材は、ちょこちょこ買い込んで来ては試してました。アルバイトしてたんですけど、家に入れるお金以外はほとんど画材だったんじゃないかなあ。私は、好奇心でCGもやってるんですけど、今日見たとおりなんですよ、出来は」
遺影の少女が、好奇心に突き動かされながら懸命に多様な画材を手にする姿を想像した。どんな顔で挑み、どんな風に喜んだのだろう。
アクリル絵の具で描かれた一枚を手に取った。海の絵だったが、波を塗る際の混色の仕方に目が止まった。青色で塗られた水の中、影になる部分に反対色のオレンジがわずかに塗り込まれている。
――僕が得意にしているのと、同じ技法だ。僕と、同じ――……
この塗り方を小学生の頃に思いつき、学校の図工の授業で試したことがある。その時は、反対色同士を混ぜると色が死ぬから、それは間違った塗り方なんだと先生からとがめられた。
でも、その塗り方が気に入った僕は、趣味で絵を描く時は頻繁に反対色の混色をやっていた。キリコサイトでもその色合いは好評だったので自信を付けさせてもらっており、思い入れのある技法だった。
思いがけない共通点の発見に、胸が熱くなった。写真でしか知らない彼女の姿が、急激にリアルに、頭の中で形作られていく。まるで何年も前からの友人だったように。
僕は自分の知らない間に、人生にかけがえのない人を失っていた。そう思うと、胸の空虚感がいっそう増す。
少しでも、『キリコ』の生命の残り香を確かめたくてたまらなくなった。
「あのさ。筆とか、ある?『キリコ』さんが使ってたやつ」
「ありますよ。お姉ちゃんが小学生の頃から使ってたやつだから、どれももうぼろぼろですけど」
そう言って『黒蟻』は先ほどの『キリコ』のものらしき机の別の引き出しから、本当にぼろぼろの筆を取り出した。
よく見ると、毛先が不自然に短いし、毛自体が少ない気がする。
「それ、毛先が荒れちゃって、はさみで切って整えたり、抜いたりしてたんです」
太筆を手に持ってみた。指の当たる辺りに、わずかな凹凸がある。使い込んだせいで、指の形にへこんだのだろう。
『キリコ』が僕の中で、更に存在感を増していく。筆に触れていると、まるで『キリコ』の指に直接触れているような気がした。ほっそりした、けれど柔らかい、温かくてぬめらかな指先が、筆を握る僕の指をなぞっているような感覚に襲われる。
その、不思議な生々しさ。少し鳥肌が立った。
彼女の絵や画材から生命の残滓が僕の体に流れ込み、その声、その表情、その息遣い、その体温まで想像してしまう。
生身の彼女が、僕のすぐ横に座っているような心地までした。触れたい。声が聞きたい。でも、それはもう永遠にできない――……。
「『ダスト』さん」
名前を呼ばれて、我に返った。
「あ、……うん?」
『黒蟻』がまっすぐに僕の目を見ている。
「今日ここに来ていただいたのは、ただお姉ちゃんの絵を見せたいだけじゃないんです。お願いが、あって」
「え?」
そして彼女は、今度は視線を下に落とした。
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