第4話 八月十五日(2)

「『アーリーハイク』さんでしょ、『七夜』さん、『エノラ』さん……」

 それらは、僕自身、憧れを持って接して来ていた名前だった。中には、商業作品にイラストが使用された人もいる。

「それに『灰鴉』さん、『モドリ』さん……あ、それと最近だと『ダスト』さん好きなんです。知ってます?」

 いきなりそう言われて、呼吸が止まった。

 はずみでしゃっくりのような声を出してしまい、向こうが不審そうな顔を浮かべる。咳払いをしてから、僕は馬鹿みたいにこっくりとうなずいた。

「うん」

「けっこう頻繁にアップしてくださるんですよね。で、その度にどんどん上手くなっていくんですよ。私、若手絵師のお手本みたいに思ってるんです。『ダスト』さん一押しって人割といるんですよ」

「そう」

 相槌をそっけなく打ちながら、僕の心臓はかつてない早鐘を打っていた。

 嬉しい。

 ものすごく嬉しい。

 サイト上のコメントと、実際に目の前で生身の人間に言われるのとでは、ずいぶん印象が違う。しかも相手は僕が『ダスト』本人だと知らない。おべっかでも何でもない、本音のはずだ。

 あまりの感情の奔流に、どうしていいのかわからず、混乱から逃げるように僕は別の話題を振った。

「ところで、君のハンドルネームは何て言うの?」

 そう言ってから気付いたが、僕らは互いに今の今まで、ハンドルもペンネームも、勿論本名すら知らない。自分は本当にこの子の絵にしか興味なかったんだな、と思った。

「『黒蟻』です。知らないでしょう?ランキングにも入ったこと無いですから」

 確かに、聞き覚えがなかった。

 キリコサイトには、高評価な作品が二十位までランキング形式で示される機能があった。僕は最高でも十五位だったが、このランキングに入るのとそうでないのとでは、サイト内での注目のされ方が全然違う。しかしここの上位ランカーの人たちはほとんどプロ級の描き手で、今日見た限りでは『黒蟻』くらいの画力では食い込めないのも当然だった。

 ふと見ると、『黒蟻』がこちらに視線を送っている。

 そう。僕も名乗らなくては。

「僕は、その……。『ダスト』です」――急に敬語が出て来る。

 今度は『黒蟻』の方が呼吸を止めた。目を見開いて少しだけ黙ってから、

「……本当ですか」

「僕の偽物なんていないと思うよ。何の価値も無いもの」

「あ、その言い方、『ダスト』さんぽいです」

 抑えた声で笑い合うと、一気に親しみが沸いてくるのを感じた。

「『ダスト』さんは他のサイトには投稿してないんですか」

「キリコサイトだけだよ。別にこだわりがあるわけじゃないんだけど、サイトに何の不満もないし、投稿してて楽しいし。それに、初めて投稿した時『キリコ』さんが結構嬉しいコメントくれたりして、そのおかげでインターネットが楽しくなったようなものだったから、思い入れもあるし。てことは、やっぱりこだわってるのかな」

「『キリコ』さんのこと、好きなんですね」

 そう言った時、『黒蟻』の表情には今までにない感情が混じったのが見えた。気にはなったけど、追及するわけにも行かず、

「恩はあるよ。すごく」

とだけ答えた。

「『キリコ』さんは、『ダスト』さんにとってかけがえのない人ですか」

 何か思いつめたような顔で、『黒蟻』が聞いてくる。

「まあ、少し大げさだけど、そうだね。会えてよかったって思える人だよ。もちろん実際には会ったことはないけど」

「彼女がこの世にいて、良かったって思ってますか」

 畳み掛けるような『黒蟻』の唐突さに、僕は、彼女がどんな方向に話を持っていこうとしているのかを図ろうとした。が、結局は、正直に答える以外の選択肢が見つからない。

「思ってるよ。少なくとも彼女――かどうかも厳密にはわからないけど――がいなければ、僕は今絵を描くのがこんなに楽しくなってない。恩人だと思ってる。ネットの外の、リアルの友達と比べたって、あの人ほど僕にとって大事な人もいない」

 そう言うと、『黒蟻』はうつむいて何かを考え出してしまった。

 電車は滞りなく進み、まもなく『黒蟻』が降車する予定の駅に差し掛かるところだった。

 降り損ねないように声をかけようとした時、彼女がぱっと顔を上げたので、もう少しで鼻先に頭突きをもらいそうになる。

「あの、一緒に降りてもらえませんか。見てもらいたいものがあるんです」


 降りた駅は、中央線の水道橋だった。学生街のような、サラリーマン街のような、どのどちらでもないような、僕にはいまいちつかみどころのない町並みだった。

 『黒蟻』はメインストリートらしい道から外れ、裏通りのような狭い道をさっさと歩いていく。

 どうせ急ぐ帰り道でもなし、彼女に付き合うことにしたものの、頭の中には疑問符が乱舞していた。

 さっきの様子からすると、『黒蟻』にとってもキリコサイト――というより『キリコ』という存在――は彼女の人生の大切な要素のようだ。話の流れから考えると、今のこの道行きはキリコサイトに関わるものなのだろうか。

 会話の中での、『黒蟻』の『キリコ』への思い入れは僕以上のものに思えた。所詮は他人だというのに、僕やこの子を強く惹きつける『キリコ』に、僕は感銘のようなものを覚えていた。

 ふと、とっぴな思い付きが頭に去来する。

 このこだわりよう、まさか、目の前の中学生が、他ならぬ『キリコ』なのではないだろうか。

 そうだとすると、彼女の強力な執着にも納得がいく。

 が、第六感のようなものが、それは違うと否定していた。目の前の少女からは、『キリコ』特有の、どこか一歩引いた聡明さのようなものが感じられない。ネット上と現実の人格は往々にして別物と化すが、『黒蟻』がいくら装ったところで、『キリコ』の落ち着いた思慮深さを醸し出すことはできないような気がした。キリコが描いたとされているキリコサイトのトップの絵も、『黒蟻』の描くそれとは、レベルがかけ離れている。

 歩いている間一言の会話も交わさなかったせいで、僕の思考は材料不足の堂々巡りを繰り返していた。おかげで、道などさっぱり覚えていない。どうやら目的地に着いたらしいと気づいたのは、前を行く『黒蟻』がぴたりと足を止めたからだった。

「二階なんです」

 と言いながら彼女が入っていったのは、二階建ての木造アパートだった。

 敷地は、あちこちが欠けたブロック塀で申し訳程度に囲まれており、建物には、安物のベニヤ色のドアが並んでいる。

 二階へ上がるための階段は鉄の柱で支えられていたが、その錆と綻びだらけの柱は、僕が思い切り蹴ったらへし折ることができるんじゃないかと思えるくらいに傷んでいた。

 ここが『黒蟻』の自宅なのだろう。清楚そうな服装の少女には似つかわしくない場末感に、正直ちょっと戸惑ったけど、まあ別に住むところなんて気にすべきじゃないしな、と彼女を追う。

 いや、追いはするが。

「ねえ、『黒蟻』……さん」

 なんとなく、敬称をつけてしまったけど、

「呼び捨てでいいですよ」

と返された。

「『黒蟻』、ここって君の自宅じゃないの?」

 既に階段を上りきり、二階の外廊下から僕を見下ろす少女は、きょとんとしながら答える。

「そうですよ」

「そうですよって、まさか僕を君の家に上げようと思ってるのか?」

「人の家とか、嫌いな派ですか」

 わざと言っているのか、単に鈍いのか、彼女の表情は変わらない。

「あのさ、僕たちは他人同士だよ。ちょっと趣味や行きつけのサイトが重なっているだけの、他人だよ。しかも結構微妙な年頃だよ。ちょっとは用心しなよ。大体、僕のことを君は買ってくれてるみたいだけど、そもそも僕が本物の『ダスト』だって証拠もないだろう」

 彼女は斜め上に視線を移して空を眺め、少し何かを考えるしぐさを見せてから、てんてんと音を立てて今にも傾きだしそうな階段を下りてきた。

 それから自分のトートバッグの中を探り、一冊のスケッチブックとサインペンを取り出す。かと思ったら、それを僕に突きつけた。

「描いてください」

「え?」

「『ダスト』さんかどうか、確認します。絵を描いてください」

 人気のない周囲を、僕は思わず見渡した。

「……いいよ。描こうじゃないか」

 とりあえず己の身の証明のために、僕は彼女の差し出したスケッチブックを受け取り、サインペンを走らせた。

 下書きなしでいきなり書くことには、それなりに緊張を伴った。が、描き慣れた構図の人物のアップを手早く描き終えると、彼女にスケッチブックを戻した。

 彼女は絵を確認すると、柔らかい笑顔を作る。

「ほら、ダストさんじゃないですか」

「……うん」

 なんだかひどく間抜けなことをしたような気がして、肩の力が抜けた。

「じゃ、どうぞ」

 『黒蟻』が再度僕を二階へいざなう。

「待ってよ、僕が安全な人間だっていう証明はまだできてないだろう」

「できてますよ。さっきから『ダスト』さん、全然私のこと、女子を見る目で見てないですもん」

 正確に言うと、『黒蟻』が何者なのかと考え事をしていたせいで、それどころではなかったのだが。

 そうでなくても、自分の絵を評価してくれている人をそんな目で見て、軽蔑でもされたらたまらない。

「分かるの、君くらいの年でもそんなこと」

 実年齢はそれほど離れていないけど、中学生と高校生ではほとんど別物のような感覚だ。中学生なんて、ちょっと大きくなった小学生にしか思えなかった。

「結構分かるんですよ、それが」

「君が見せたいものって、家の中でないと……」

「見られません」

 じゃあ見なくて結構だと帰ることもできたのだけど、終始にこやかな少女に根負けしたのと、どちらかと言うとこの場で言い合いをして目立つのがいたたまれなくなったせいで、僕は彼女の後を着いて階段を上がった。 一歩ごとに、錆びて細かくめくれ上がった鉄片が細かく砕けていくような気がした。

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