第3話 八月十五日(1)

 八月も二週目が終わり、マキとはやはり会わないまま、十五日がやって来た。

 この日は、僕のような嗜好の人間にとっては特別な日だった。東京のある大会場で、国内最大規模の同人誌即売会が催されるのだ。

 例年大変な混雑になるのが常で、中学生だった去年までは人波に抗えずにあらぬ方向へ押し流されてしまうことも多かったが、今年もそれはあまり変わらないんだろうな、と思った。

 お台場にある会場へ着くと、真夏の日光とはまた別の熱が周囲一帯を覆っていた。見渡す限り黒山の人だかりで、彼らの放つ輻射熱が地表に溢れている。今日一日で二十万人近い人々がこのイベントに訪れると聞いた。

 国内最大級のサイズを誇るはずのイベント会場は、この人数の前にはまるで小屋に見えた。濁流のような人波は会場の建物の入り口に流れ込んでいく。

 有名なアニメやゲームのパロディの十八禁作品が、この会場で最も求心力のある勢力だった。

 幸い僕は最も目当てにしている場所は、同人誌の書き手たちが自分のオリジナルの作品を発表しているコーナーで、会場内でも混雑の度合いが少ない空間だったので、そこへ到着してしまえばゆっくりと作品を物色することができた。

 会場内は作品を出展したサークルごとに長机が一つか二つ与えられており、その上に各自の制作した作品が乗せられている。

 出展されているのは同人誌だけではなく、立体物やアクセサリも散見されるため、ちょっと方向性の偏ったバザーのようだった。驚くような画力で描かれたイラストや、触れるのもためらわれるような精緻なオブジェなども陳列されている。

 僕には到底及びもつかない、長年の技術の練磨を感じさせる力作がいくつもあったが、僕がもっともこの場で求めているのは、自分と同い年かそれ以下の作者による作品が与えてくれる刺激だった。

 自分と同等かそれ以下の量の人生の時間を過ごしている人が、明らかに僕を上回る熱意や技術をこれでもかと見せ付けてくるような、そういう刺激。

 どうしてそんなことを思いつくのだろうと思えるような、斬新な発想や新しい技術。

 大人びて整えられた作品より、むしろ荒削りなものほど、僕のモチベイションを煽った。

 ゆっくりと展示作品を見ては、じりじりとコーナー内を巡っていく。

 あるサークルが陳列していた、一冊のイラスト集に目が留まった。イラスト集といっても印刷所で製本されたものではなく、原画をカラーコピーしたらしきものをホチキスでとめ、表紙をラミネート加工したものだった。

 コンビニとかで刷ったのかな、だとしたら店員に見られて恥ずかしかったろうな、などと思いながら見本誌を手に取ってめくってみた。

 内容は、オリジナルキャラクターらしい女の子の一枚絵を集めたものだった。

  印刷の感じから、それがカラーコピーではなく、パソコンからプリントアウトしたものらしいことが判った。着色はCGで、アナログ塗りのようなムラや質感の出し方を狙っているようだったけど、まだまだ技術的には拙かった。

 構図が幼く、人物の描き方もバランスが悪い。下絵の時点での難点を、塗りでごまかそうとして失敗している典型だった。しかも、その塗りも拙劣なので、絵としての魅力には乏しい。

 けれど、自分が何を描きたいか、どんな絵を構成したいのかは、ありありと伝わってくる、不思議な魅力がある。経験によって磨かれた技術が時には削ぎ落としてしまう、飾り気のない熱意が感じ取れた。そしてそれは、僕がもっともこの会場で求めていたものだった。

 色も、配色自体は悪くない。むしろ、整い過ぎそうになるバランスを壊すために濃い暖色を差し色にしているのが、挑戦的で良い。

 イラスト集の値段は、手書きのポップで三百円と書いてある。安い買い物だ、と思った。

「あの、すみません」

 ブースの売り子さんに声をかける。

「はい」

 僕は百円玉を三つ取り出し、

「これ、一冊ください」

と言って渡した。

 それを受け取ったのは、僕よりも二つか三つ下と思われる、つまりは中学生になりたてかそこらに見える、女の子だった。

 よほど大きなサークルでなければ、絵の描き手がブースの売り子を務めていることが多いはずなので、この子が描き手本人なのかもしれない。僕もこの会場の中にいる描き手(などと言うと大層だけど)の中では幼い方だと思ったが、それを下回る年齢の作者に出会えたのは、嬉しかった。

 その子は小柄で、ボブに少し癖をつけた髪形が良く似合っていた。くりっとした目の周りを、縁のない眼鏡が彩っている。オフグリーンのワンピースに、カーディガンをもっと薄くしたような、白い一枚を羽織っていた。見るからにインドア派と思しき大人しそうな子で、けっこう可愛かった。大人になったら、美人になりそうだ。

 ただ、僕は描き手本人には、年齢以外の部分にはさほど興味がなかった。可愛らしいからといってオタク男である僕にじろじろ見られるのも気分が悪いだろうと重い、「有難うございます」と恐縮しながらお礼を言ってくるその子に軽く会釈して、僕は他のサークルの物色を始めた。


 会場を出たのは、夕方近くになってからだった。

 こんな規模の同人作品発表のイベントは一年に一、二回の機会なので、せっかくだからあっちこっちを見て回ろうとふらふらしていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。

 サークルの中には、知人同士なのか、長机で仕切られたブースの内外で談笑している人たちも多くいた。中には『イラスト描きの方々、お友達になりましょう!』というのぼり状のポップを立てているサークルもあった。ただ僕は、その手の繋がりにどうしても拒否反応が出てしまうのを自覚していた。

 インターネット上でも、そうした友人関係がまま生じているのは知っている。中には、それを目的にしているユーザーやサイトもある。それが悪いことだとは思わない。自分が何かに打ち込んでいれば、その体験を共有したいと思うのは、自然なことなのだろうから。

 ただ、自分に限って言えば、そうした人付き合いのようなものは、無駄に思えた。

 挨拶し、儀礼を示し、時に褒め合い、評価し合い、お互いにお互いと向き合っていることを伝え続ける関係。楽しいのは分かる。でも、程度を超えれば煩わしいだけだ。

 とにかく絵を見てもらいたいだけの自分にはそうした関係が、大きなストレスになるだろうことは確信できた。ただ、おそらくはそうしたコミュニケイションに長じた人間が、最も多くの人に自分の絵を見てもらえ、評価も受けられるのだろうことも分かっていた。誰のことも見ずに、自分のことは評価して欲しいなどというのは、ひどく傲慢なことなのだから。

 キリコサイトに僕が継続して投稿していたのは、あそこではユーザー同士の距離感がそんな自分にとって非常に望ましいものであることも大きかった。

 もちろん利用者同士、互いに挨拶もすれば世間話もするのだけど、会話の基本的な材料になるのは必ず作品だった。

 優れた絵を描いていれば褒め言葉をかけられ、そうでなければ、良くても励まし程度の言葉を与えられるだけ。せっかく投稿しても、誰からも一言も反応が帰ってこないこともある。コミュニケイション能力よりも、絵の出来の方に重きを置いて言葉をやりとりするという暗黙のルールがあり、それが僕には有難かった。

 だからこうした会場で、あんなにも人間同士、生身で繋がりたがる人たちが多くいるというのは不思議だった。

 そんなことを考えながら、会場から程近い駅へ向かう。イベント自体の終了時刻よりも少し前の時間帯だったが、会場から吐き出された帰宅者の群れで、すでに駅は充分混雑していた。人ごみにもまれながら、人いきれと汗のにおいに閉口しつつ、朝のうちに買っておいた帰り用の切符を取り出し、自動改札を抜ける。

 その場にいるほぼ全員の利用客が、目当てのホームへ向かってよどみなく動いている。

 その中で、明らかに戸惑いながら、右往左往している人影が見えた。

 分の乗るべき電車がどこに着くのかが分からず、困っているのが明らかで、目立っていた。ちらちらと駅員の方を見ているのだが、彼らは乗り越し清算や別の客への対応で手一杯で、当分余裕ができそうもない。

 僕がその人影に目を留めたのは、その困り具合がこっけいなほどに目立っていたのに加えて、彼女に見覚えがあったからだった。

 三百円のイラスト集を売ってもらった、あのサークルの女の子だった。顔立ちも、あの清潔そうな服装から見ても、記憶の通りで間違いない。

 眼鏡の上の少し太めの眉を下がらせて、きょときょとと不安そうに周囲を見回している。その度に肩から提げた大き目のトートバッグが揺れた。あのバッグにイラスト集や、ブースを飾るためのディスプレイ用品なんかを入れて来たのだろう。おそらく今は、彼女が今日買い物したであろう同人誌なども収まっていると思われる。

 普段ならその程度の知り合いが困っているところで、手を貸したりはしない。けれど、キリコサイトで見知らぬ人たちに親切に接してもらってから、自分も少しくらいは人に優しくしてみようと思っていたこともあって、僕は女の子に声をかけた。

 あのイラスト集を気に入っていたせいも、もちろんある。いい物を見せてくれた、恩返しのような気持ちだった。

「あの」

 近寄ってそう言ってみたが、悲しいかな慣れないことをしたせいで、なんと続けていいのか分からない。

 ――やあ、君、どこへ行ったらいいか分からなくて困っているの? よかったらボクが教えてあげようか――

 我ながら、そんな人間、到底信用できるはずがない、と確信できた。

 そのために言葉が止まり、一時体が硬直するのを感じる。突発的な緊張と羞恥で、自分の顔が見る見る赤くなっていくのが手に取るように分かった。

「……えっ?」

 女の子が僕の呼びかけに驚き(当たり前だ)、向こうも硬直した。

 柄にもないことをするもんじゃない、もうこうなったら変質者を見るような目で見られる前に逃げようか、などと考えた時、

「あ、さっきはありがとうございました」

と女の子がぺこりと頭を下げた。驚いた。

「君、僕のことなんて覚えているの」

「あ、はい、覚えてますよ。もともとそんなに部数持って来てないですもん。買ってくれた方の顔くらい、覚えてます」

 自分が感銘を受けた描き手が僕の顔を記憶してくれていたというのは、正直、少し嬉しかった。おかげで緊張がほぐれ、本題を口に出す。

「もしかして、どこに行っていいのか分からなくなってたり、していない? よければホームの案内くらいするけど」

「本当ですか? お願いします、普段電車であんまり遠くに来ませんし、来た時は空いてたので、全然様子が違うから……」

 確かに、周囲には(主に脂肪で)体格のいい男性陣が跋扈しており、小柄な女の子では表示案内を落ち着いて見ることすら難しいだろう。

 彼女が降りる駅を聞くと、それが僕の降りる駅と同じ路線のものだったので、

「それって僕が降りる駅の三つ手前の駅だよ。ホームはこっち」

と彼女を誘導した。

 ちょうど電車がホームへ滑り込んで来たので、そこへ二人で乗り込む。人の濁流に押し流されるようにして、僕らは入って来たのと逆側のドアの方へ押し付けられるようになり、それでもなんとなく一息ついた気分になった。

 ドアが閉まり、電車が動き出す。

 満員電車の中で、小さな彼女は周囲からの圧力を受け、潰れてしまいそうに見えた。

「大丈夫?」

「はい……凄いですね。なんかちょっと、足、浮いてます」

「痛くはない?」

「痛いってほどじゃないです、平気です」

 本当だろうか。もしそうだとして、今はよくても、段々しんどくなるのは明白だ。

 彼女の降りる駅までは、二十分ほどかかるはずだった。

 僕は体を少しずらして、彼女の周りの乗客の圧力を少し減らすように体勢を作った。

「あ、足、つきました。ありがとうございます」

 お礼を言いいながら、おじぎのつもりで彼女が頭をこくんと前へ振ると、正面にいる僕の胸元へおでこが飛び込んで来た。少し伸び気味なボブの髪から、わずかに香りが舞う。

「本当に助かりました。私、もしかしたらあのまま逆方向とか、全然違う方の電車に乗っちゃってたかもしれませんし。でも、何で私が迷ってるって分かったんですか?」

 それは君が、以前テレビのドキュメンタリ番組で見た、迷子のペンギンそっくりな挙動をしていたからだよ、と言うのははばかられた。

「なんとなく。ところで、君って絵を描いて何年くらい経つの」

 せっかくの機会なので、訊きたいことを訊いてみようと思った。おそらくこの子と会うのなんてこれっきりだろうし、もし再会するとしても、それは次回の同人イベントだろう。それまでには互いの顔なんて忘れてる。煩わしい人間関係抜きで、単純に好奇心を満たしてもらうには適当な相手だと思った。

「ちっちゃいころから落書きとかしてましたから、それも入れると……何年でしょう」

 自分が美術に興味を持った時のことを思い出す。幼いころから落書きなどとは縁がなく、小学校の図工の時間もまともに絵など描かなかった。中学に入りたての時、美術部が勧誘のために展示していた油絵を見て、なんとなくかっこいいなと思ったのが入部のきっかけだった。結局、ろくに油絵の具なんて使いこなせずに、卒業してしまったけど。

 自分がそんな経歴だったせいか、もともと絵が好きで、その延長でイラストを描いているらしい目の前の少女に、嫉妬のような感情が生まれた。エリートに対するコンプレックスじみたその感覚を、自分でも馬鹿馬鹿しいと思った。

「あの、絵のことと言えば、なんですけど。実は、顔を覚えてたのは、ただ買ってくれた人が少なかったからっていうだけじゃないんです。その中でも、一番よく絵を見てくれて、一番大切そうに買ってくださったからなんです。お礼を言いたいなって、思ってたんです。今日、ここに参加して良かったなって思いました。嬉しかったです。ありがとうございました」

 またぺこり。

 自分ではそうと意識せずに、そんなに見入っていたのかと、少し恥ずかしくなった。

「……買った時にもお礼は言ってもらった気がするけど」

「足りなかったです。追加分のお礼を、追加してなかったんです。後から気づきました」

 そう言って彼女は、照れたように笑う。

 自分がキリコサイトで与えられた喜びに近いものを、彼女も感じているのかもしれない。そう考えると、誇らしいものがあった。 同時に、屈託のない彼女に対して嫉妬などという暗い感情を生じさせたことを、少し恥じた。

「僕も、ネット上の投稿サイトとかに絵を出してるんだけど、やっぱり人に見てもらえるっていいね」

「私も、投稿してます。上手い人がたくさんいるサイトなんで、私なんかの絵があんまり褒めてもらえることはないんですけど、楽しいです」

「僕も、ちょっと自信のある絵を出しても、スルーされることが結構ある」

 そうして”イラストの投稿あるある”で適当に話を続けていると、気になることが出てきた。

 彼女が投稿しているサイトは、閲覧者が自由に投稿でき、初回投稿の時はサイトの管理人が簡単な感想を付けて紹介するのが特徴だという。その管理人は自分でも絵が描けるのだけど、自分の絵はサイトのトップに飾っているくらいで、あとはもっぱら投稿者の描いた絵を見て楽しんでいるらしい。そのトップの絵は女性のイラストで、緑色の長い髪をしている――……

「あのさ」

「はい?」

「君が投稿してるのって、もしかして、キリコサイト?」

「あ、ご存じなんですね。そうですそうです」

 気分が急に浮つくのを感じた。目の前の描き手が、別にどこへ投稿している誰だろうと関係ないはずだけど、自分が入れ込んでいるサイトで結びついている相手だと思うと、目の前の女の子が少し特別な存在に思えた。

「私はまだまだ注目されるような絵は描けてないんですけど。あそこは好きな絵師さんがたくさんいるんですよ」

 アマチュアの描き手に絵師とは大層だなと思ったけど、これはネットでは巧拙問わず、イラスト描きに対しての一般的な呼称でもあった。

 少女はそのまま満員電車の中で窮屈そうに指を折りながら、お気に入りの絵師の名前を挙げ始めた。

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