第2話 八月九日

 時折、初めてネット上に自分の絵を投稿した時のことを思い出すことがある。

 ある深夜に、メールで絵を投稿用アドレスに送り、翌日の朝、キリコサイトを開いてみると、僕の送ったイラストがもうアップされていた。

 メールボックスを開くと、『キリコ』からの返信が来ており、簡単なあいさつの文章が書かれていた。長い文章ではなかったけど、テンプレートのコピーではなく、ちゃんと僕という人間に対して記述してくれたらしい文面が、無性にうれしかった。

 そうなってから見直してみると、自信作のつもりで投稿したはずの絵も、既にサイトにアップされていた他の人達のイラストと比べると粗が目立った。もともとキリコサイトはハイレベルな投稿者も多いと分かっていたけど 、いざ自分の絵がそこに入ると妙に恥ずかしかった。ただ、夏休み中に特に訓練していた僕の色遣いは独特で、そのオリジナリティにだけは自信があった。

 絵の内容は、夕暮れの色に染まった湖で、一人の女性がくるぶしまで水に浸かりながら傍らの馬に水を飲ませているというものだった。

 ”新着作品”のマークとともに画面内に鎮座しているその絵には、管理人『キリコ』のコメントが添えられていた。

「『ダスト』さん、初投稿、ありがとうございます。使用画材はアクリルでしょうか? 良かったら教えてください。アナログならではの良さが光っていますね。見たことの無い塗り方、素敵です」

 そう言えば投稿の規約に、画材についても明記してほしいと書いてあったのに、つい忘れてい た。慌ててメールを再度送り、アクリルとケントボードを使用したと伝える。

 『ダスト』というのが僕のハンドルネームだった。それはもちろん作り物の名前だけれど、知らない人が僕の名前を出し、その絵の話をしてくれているというのは不思議な気分になった。

 自分で自分に着けた名前。自分が描いた絵。それが、見知らぬ人に見られている。

 胸が高まったまま、気分のよさに任せて、僕はスケッチブックを出し、デッサンの練習を始めた。

 着色には自信が付いて来たけど、基本的な画力はまだまだ満足できるレベルではなかったので、最近はデッサンの練習時間を多めに取っていた。

 しかしなぜかこの日は、うまく手に力が入らなかった。

 自分の描いた絵が、褒められた。

 こ れまでクラスメイトや家族にも、顧みられたことなどない僕の絵が。

 しかも、自分が一番見てもらいたいと思った着色の技術に言及してくれて。

 たまらない気分だった。

 昼前になって、スケッチブックを置き、もう一度キリコサイトを開いてみた。

 すると今度は、僕の絵のコメント欄に、管理人以外の人達からの感想や批評がいくつか書かれていた。

「人物がもっとちゃんと描けているとさらにいいね」「好きな方向性の絵です。また描いてください」「描きたい部分とそうでない部分の差が激しい。惜しいっていうか、もったいない。細部を仕上げるまで、力尽きるなよ~!」……

 中には荒い言葉遣いの人もいたけれど、大部分は初めて投稿した僕を励ましたり、評価してくれる内容だった。

 熱に浮かされたようになりながら、僕はコメント欄に返事を書いた。

「『ダスト』です。はじめまして。どんなふうに自己紹介していいのかもわからないんですが、僕は男で、高校生で、絵を描くのが趣味です。一生懸命描いたので、褒めてもらえてうれしいです。アドバイスもありがとうございます。またがんばります。ありがとうございます」

 推敲もそこそこに、僕はコメントの送信ボタンを押した。それから自分の書いた文面を見直して、上がりまくっているのがありありと伝わって来て恥ずかしくなった。”ありがとうございます”が二回もあるし。

 後から解ったことだけど、キリコサイトはあまたのサイトの中でも、かなりネットマナーのしっかりしている人たちが集まっていた。

 僕は新参として可愛がられるような形で、”先輩”達とコメント欄で交流していた。

 互いの絵の批評、技術の公開、取るにも足らないような雑談。褒め言葉だけでなく、時には厳しい意見の応酬もあった。それでも互いに懸命に作ったものを通して話す分、学校で当たり障りの無い話をしているよりもずっと楽しかった。

 彼らに応えようと、僕はさらに集中力を増して絵を練習し、数日のうちに作品を仕上げてはキリコサイトへ送った。それに対して、サイトのユーザーはまた応えてくれた。

 何もかもが好循環していて、楽しくて仕方がなかった。

 僕は キリコサイトの存在に、そしてこのサイトを立ち上げて運営をしてくれる管理人の『キリコ』に、どんなに感謝しても足りない気分だった。

 同時に、『キリコ』ってどんな人なんだろう、という興味が僕の中でどんどん大きくなっていた。『キリコ』は絵を投稿した時には感想を付けてくれるけど、その後はほとんどコメントもせず、サイトの利用者とのやりとりも必要最小限にしていた。馴れ合いが嫌いなのかもしれない。

 その為、僕はサイト内で『キリコ』と会話したことはほとんどない。そのことも、逆に、の『キリコ』への興味を強く煽っていた。


 八月のある日。キリコサイトのチャットルームでおしゃべりしていると、ふと話題が『キリコ』のことになった。

 僕が、

「そう言えば『キリコ』さんて自分では絵は描かないんでしょうか」

 と書いたところ、別のユーザーが

「いや、『キリコ』さんは描いてるよ。トップの絵がそうだよ」

と答えてくれた。

 キリコサイトのトップには、エメラルドグリーンのロングヘアを画面狭しと踊らせている女性の絵が描かれていた。僕が一目で引き込まれた、あの絵だ。

 ファンタジー風の衣装と風景が、濃淡の諧調豊かなアクリル絵の具で彩られている。CGではなく、筆で塗ったものをスキャナで取り込んだ絵だった。厚塗りの箇所と、水彩風の箇所が描き分けられている 。画材をしっかり使いこなしているのが、一目瞭然だった。

 僕はてっきりそれを、サイトの利用者の誰かが『キリコ』に寄贈したものだと思っていた。これだけ描ける人が、わざわざ自分で管理人などやらないだろうと思っていたのだけど、とんだ見当違いだ。

 絵は、かなり上手だった。アニメチックにデフォルメされた画風だったけど、デッサンはきっちりと取れていて、存在感があった。ほっそりした指先に巻きつけるようにした長い髪は、本当にふわりと宙を舞いそうに見える。今にも瞬きをして、更にはしゃべりだすんじゃないかと思えるくらいの表現力。僕はいつもその画力に対して、羨望と嫉妬の混じった目でサイト トップを見ていた。

 チャット画面に目を戻すと、他のユーザーから新たな文章が打ち込まれていた。

「我々はあの女キャラのことも『キリコ』って呼んでるけどね。あれがこのサイトの看板娘みたいなものだから。まあ、管理人の『キリコ』さんはさすがにあそこまで美人ではないと思うけど。おっと、失礼」

 僕は、図らずも『キリコ』の実像に迫るチャンスを得たと思い、キーボードを叩く。

「あれを『キリコ』さんが描いたなんて知りませんでした。あんなに描けるのなら、どうしてもっと描かないんでしょう?」

「さあねえ、それについては聞いたことが無いなあ。以前はそれでも多少自分の絵も掲載してたがね、更新はここのところとんと途切れてるし過去の絵も撤収してるみたいだな」

 不可解だった。それなりに描けるようになれば、自分の絵を人に見てもらいたいと思うのは当然のはずだ。それを、サイトを開いておきながら自分の絵はあまり置かない?

 不思議ではあったけど、『キリコ』に直接メールで「なんでもっと描かないんですか?」などと訊くのははばかられた。

 僕と『キリコ』は単なる利用者と管理人であって、友達でも何でもない。なのにあまり突っ込んだことを聞いて、嫌悪感を持たれるのは怖かった。

 僕はこの時、ずいぶんと『キリコ』に嫌われることを恐れている自分に気付いた。

 ただ単に、ご機嫌を損ねて出入り禁止にでもなり、サイトの利用が出来なくなったら困る、というだけではない。『キリコ』はそのサイトで、僕にとってこの時最高の生きがいを与えてくれた人だった。

 絵の能力についても、あのトップの一枚きりしか見たことがないというのに、僕はほとんど彼女を尊敬していた。色塗りもCGではなく、今どき自分と同じアナログ着色であるということも、仲間意識のような、ライバル感情のような、奇妙な感慨を生じさせていた。

 もし最初に投稿した時、『キリコ』が僕の絵に大して興味も持っていないことがあからさまに伝わるコメントをしていたら、こんなに楽しい思いをすることがあっただろうか。あるいは、僕にとって自分でもどうでもいいと思っている部分をやたらに褒められていたら、こんなにもキリコサイトでの交流に入れ込めていただろうか。

 あの時の彼女の短かくも核心を突く言葉が、今の僕の居場所を作ってくれたのは、間違いない。

 インターネット上で出会い、実際には会ったこともない人間のことをこんなにも自分の中で大きくしてしまうとは、自分でも思わなかった。人が聞いたら、鼻で笑うだろう。

 けれど、本当に愕然としたのは、その日の夜だった。


 十二時を回った頃。

 絵の練習に身が入らないまま、僕はスケッチブックを置いてベッドへ入った。

それなりに疲れているはずなのに、けだるい熱が下半身を侵しており、健康な高校生 としての生理の解消を迫っていた。

 僕はしばらく会っていないマキのことを思い浮かべ、キスの感触を思い出しながら、パジャマをそっと下ろし、指を動かした。

 僕は、堪え性のある方ではない。程なく、終わりが近付く。

 と、ふっとマキの顔が遠ざかり、代わりにキリコサイトのトップ画像の女性が脳裏に浮かんだ。人々が『キリコ』と呼んでいる、あの絵の女の人。

 彼女が柔らかく微笑み、あの細い指で優しく僕に触れて来ることを想像する。背筋が甘くしびれた。

 が、待て、待て、と僕は自制した。

 僕はいわゆるオタクだ。それは認める。でも、性の対象はあくまで生きた人間のはずだった。

 今までにも自慰をして来たけれど、その時に思い浮かべるのは可愛い同級生の誰か――つまり、申し訳ないけど時にはマキ以外――か、 せいぜいグラビアアイドルだった。間違っても、二次元の存在に欲望を感じることなどなかった。

 何かの気の迷いだ、僕はそこまで変態じゃない、と言い聞かせ、再びマキのことを考える。

 中断した体は、しかし、またすぐに高まって行った。そしてそれが頂点に到達する瞬間、思い浮かべていたマキの裸身が、緑の髪の『キリコ』と入れ替わった。

 ふわりといい匂いをさせて彼女は僕に近づき、その髪が風にもてあそばれて、僕の首や頬にくすぐるように触れる――……。

 そんな想像の中、耐えようの無い昂ぶりにさらわれ、そのまま僕は終わった。

 荒い息をつきながら、僕はしばらくの間、目を閉じることもできずに茫然としていた。


 マキに蹴りを入れられた登校日は、この翌日のことだった。

 憤るマキに謝り、放課後、僕らは久しぶりに隣町のショッピングモールでデートをした。

 そして帰り道で、やはりしばらくは絵を描く時間を確保したいとマキに告げた。

 まばらな街灯の下、僕らはキスをせずに分かれて帰った。

 僕は、マキの僕への気持ちを、その理由を、きっと信じ切れていない。少なくとも、『キリコ』が僕の絵を評してくれた時のような、本質的な喜びはない。

 マキが僕の魅力だと思っているものは、僕にとっては、きっとそうではないからだ。自分に、根拠の無い自信など持てはしない。だから、もっと信じられるものの方を大切にしようとしてしまう。

 ネット上での、僕の絵に対して匿 同然の誰かが浴びせる、歯に衣着せぬ叱咤の方が、マキの好意よりも信じられてしまうというのは、絶望的なことなのではないか。

 それは、マキに伝わっているだろうか。

 マキも、いずれこんな僕に耐えられなくなるだろう。破局の瞬間を思い浮かべると、胸の中央がきりきりと痛んだ。マキは、泣くだろうか。

 告白されたあの時、僕はマキにイエスと言うべきではなかった。おそらく、僕らの間にあるのは恋ではない。

 それなのに、こんなに辛い思いをすることになるのなら、あの時うなずくべきではなかったのだ。

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