電脳の姫、奴隷の騎士

@ekunari

第1話 八月十日

 今、十六歳の秋を迎えたこの僕は、これから先、何年生きるだろうか。

 たとえ百歳を超えて生き続けたとしても、きっといつまでも、この高校一年生の夏休みを忘れることはないと思う。


 思えば、一学期が終わってからというもの、来る日も来る日も、僕は絵ばかり描いていた。

 この時の僕には一応、彼女などがいた。それでも僕は自分の時間を可能な限り作っては、机の上で筆を躍らせていた。

 マンションの四階、東京を煽るコンクリートの輻射熱を遮断した僕の部屋は、エアコンをフル活用した冷気と、愛用のアクリル絵の具の匂いで常に満たされていた。

 絵と言ってもご立派な絵画などではなく、僕が描いているのは漫画の延長の様な絵柄のイラストだった。

 使う画材こそ、アクリル絵の具にペーパーパレット、絵筆が五本と、それなりではあった。が、その筆で描かれるのは、眼と胸の大きい女の子が、ファンタジックな衣装に身を包んで画面内を跋扈する、クラスの女子などからは冷ややかな視線を浴びること請け合いの絵だった。

 ただ、不特定多数の女子と仲良くなりたいという衝動よりも、自分なりの絵をもっと磨きたい気持ちが強かった僕は、いきおいクラスでも輪から外れた存在になり、幸いなことに女子に興味を持たれることもまれだった。

 この夏休みの少し前から、僕はあるイラストサイトに絵の投稿をしていた。中学の時に美術部でデッサンや色遣いの基礎を学んだこともあって、投稿した僕の絵は、初めからそこそこの評価を得ていた。極端なアニメ調などではなく、ややリアルな陰影の付け方や、写真のような構図の取り方がよく褒められた。他にも色遣いが独特だとか、サイトの中でも年が若かったとかで、ずいぶんかわいがられていたと思う。

 実生活でのような煩わしいやり取りや気遣いもなく、不特定多数の誰かに自分の作品を見てもらえることの刺激に、この夏の僕はすっかり溺れていた。

 この時、きっと僕の十代の時間はこんな風に、自分の描いた絵と向き合うばかりで終わって行くんだろうな、と感じていた。家族とも仲が良すぎず悪すぎず、自分のしたいことに没頭するにはちょうどいい距離感だった。

 僕は、おそらく、人と交流するということにおいてずいぶん劣った人間なのだろうと思う。実際、この夏休みに、くだんの彼女とも別れることになった。

 これは、そんな年に、そんな僕に起こった、ある出会いの記録である。


 八月十日。

 八月に入ってからというもの、この年の太陽はますます精力的に空に輝いていた。

 暴力的な勢いで茂った街路樹の葉が、朝から鏡のように陽光を反射しているのが、部屋の窓から見える。

 この日は、実にうっとうしいことに、学校への登校日になっていた。すっかり夏休み仕様になっていた体に喝を入れ、僕は久々の制服に袖を通した。

 日の出間もなく汗ばむ気温となった中、マンションの階段を降り切った僕を待ち構えていたのは、すぐ近くに住んでいる、同級生のマキだった。

 もともと吊り目がちで気の強そうな印象を与える顔立ちなのだが、この日はそこにふくれっ面を浮かべており、大変な迫力だった。

「お久しぶり」

 怒りを隠そうともしない彼女の口調を受けて、僕の脳はマキの機嫌を治めるためにいかなる対応を取るべきかを自己討議し始めたが、すぐに全ては無駄な努力であるという結論に至り、思考を停止した。

「やあ。じゃ、学校へ行こうか」

 僕がそう言うが早いか、

 ぐつり。

 と音を立てて、何食わぬ顔で歩き出す僕の太ももに、マキのローファーのつま先が鋭くねじ込まれた。

「いって!」

「何平気な顔してんのよ。もう電話もメールもろくにしなくなって二週間でしょ。こんなのって付き合ってるって言える?」

 僕とマキは、一学期の終わりから付き合いだした。

 最初は、マキが僕の絵を褒めてくれたのがきっかけだった。

 授業中にノートに落書きしていたイラストを、横の席のマキに見られてしまったのだ。こともあろうに、それは目と胸の大きな女の子の絵だった。

 僕は、その日のうちには噂が広まって、クラス中の女子から気色の悪いオタクと蔑まれることを覚悟したのだが、マキは僕の落書きを吹聴するようなことはしなかった。それどころか、次の休み時間にマキは僕に「可愛い絵だね」と耳打ちして来た。

 正直、自分の絵が同世代の女子から支持されるなどとは思っていなかったので、この上なく僕は浮かれた。

 そんな風にしてマキに対する好感度が高まっていた頃、マキの方から告白された。

 一学期の終業式の二週間ほど前、帰宅部の僕をマキが呼び止め、相談事があるからと人気のない校舎裏へ連れて行かれた。

 マキのもじもじした様子からどうも恋愛沙汰だなと見当を付ける。おおかた、誰か僕の知り合いに好意を持ったので仲を取り持ってくれという内容だろうな、と勝手に胸算用していた。

 でも、数少ない僕の知己でマキから好かれる様な男がいたかな、と考えると候補者は一向に浮かんでこない。

 マキは、可愛い。

 急ぎがちに歩くと、少し巻いたセミロングの髪が両肩をくすぐる様に揺れ、気の強そうな顔立ちにどこか愛嬌を含ませてい た。やせ気味の足が短いスカートから伸びてリズムよく動く様子も愛くるしい。こんな子に好かれるなんてどこの誰だ羨ましい、と静かに歯軋りした。

 だから、薄暗い校舎裏で真っ赤な顔をしたマキが僕に告白してきた時は、予想外すぎてしばらくあっけに取られてしまった。

「ドッキリとか、罰ゲームではない?」

 と訊いた僕に、今度はマキの方があっけにとられた表情で、

「そんな訳ないじゃない」

「でも、君が僕のどこを気に入ったのか、理解できない」

 マキが言うには、もともと僕の顔が好みで、入学した時から気になっていたらしい。

「正直、ちょっと変な奴だなあって思ってるよ。でもそういうのがなんか、ほっとけないって言うか。しばらく見てる間に、気になって来ちゃっ たのよ」

「でも、僕は趣味が絵だ。それも、見たろう、あんまり女の子に好かれる絵だとは思わないんだけど」

「絵のことはあんまり分かんないよ。あの時は、話しかけるきっかけだったから」

 努めて冷静に話しながら、女子に免疫の無い僕の顔は、恐らく真っ赤に染まっていた。恋人を作ってみたいとは思っていたけど、大学生くらいになったらでいいか、と思っていたので、不意打ちもいいところだった。

 僕は貴重な理性を総動員して、自分が最近は絵を描くことに没頭しているので、二人の時間は思うように取れないかもしれないことを告げ、マキの方がそれでもいいと言うので、交際が始まった。


 夏休みが始まってまもなく、二度目のデートで僕らは初めてのキスをした。

 マキは以前にも彼氏がいたようだけど(塾講師のアルバイトをしていた大学生らしい。これはクラスの公然の秘密だった)、僕は当然、人生で最初のキスだった。

 夕闇の訪れるショッピング・モールの屋上、アミューズメント・スペースの片隅の物陰で、僕らは唇を重ねた。

 二人して顔を真っ赤に染め、お互いに照れくささからその日はそそくさと別れて帰った。家に帰ってもしばらく、足が宙に浮いているような心地だったのを覚えている。

 その先へ進みたいという欲望は当然持っている。マキとは、そのすぐ後日、彼女の部屋で、もっと深いキスもした。マ キのそれは情熱的で、積極的なキスだった。とろけそうになる上半身と裏腹に、体の中心は焼けつくような衝動に猛らされた。

 でも、キスをした相手と、それ以上のことをまだしていないというひどく中途半端な立場が、なんだかむしろかけがえの無いものに思えて、その先へ進むことはその日はやめておいた。

 知ってしまったら、知らなかった頃の自分には戻れない。そう考えると、今の自分の状態は人生の中でもう二度と訪れないわけで、そんな時期を欲望に任せてさっさと失ってしまうのはもったいない気がした。

 大好物を食べるのを後にとっておくような気持ちで、少し自分を落ち着かせると、思ったよりも冷静になった。

 そして、もっと早く考えるべきだった疑問が頭をもたげた。

 そもそも僕は、マキが好きなんだろうか?

 好意を持っていたのは確かだけど、それは恋愛感情と呼べるものだっただろうか。

ちょっと仲良くなった見栄えのいい女子に告白されて、舞い上がっていただけなんじゃないのか?

 マキと同じくらい可愛くて、同じくらい好意を寄せてくれる女の子が現れたら、僕は絶対にぐらつかないだろうか?

 今だって、絵のための時間に比べたら、マキと会う時間は常に最優先じゃない。深いキスをした日の夜すら、あの興奮をすっかり忘れて、無心で絵筆を動かして目前のイラストボードに立ち向かっていた自分を鑑みると、自分の中の優先順位を悟らざるを得ない。

 次々に考え出すと、なんだかマキと付き合ってしまったことが悪いことのように感じられて来た。


 僕は夏休みの間、描きたい絵があるからとマキの誘いを断ってイラストの制作に没頭した。冷たいとは思ったけど、混乱したままマキと会い続けるのはもっといけないことだと思った。この時もう僕は、マキとの別れを考え始めていたのかもしれない。

 悶々とした僕の頭の中を表すように、アクリル絵の具はかつてない複雑な混色を成功させ、自身の逃避願望を栄養にして、僕の画力は日々格段に上がっていた。

 すると今度は、自分の描き上げた作品を見知らぬ他人に見てもらいたくなる。出来るだけ、私生活上は僕と無関係ない人たちがいい。客観的な批評が聞いてみたい。その思いから、くだんのイラストサイトへの僕の投稿ペースは落ちることが無かった。

 僕は毎夜、自分の部屋にあるノ ートパソコンを立ち上げ、ブックマークしてあるそのサイトを訪れた。

 ハンドルネーム『キリコ』と名乗る人物が管理人を務めるイラスト投稿サイト、通称キリコサイトを見付けたのは、夏休みに入る前だった。トップ画像にはファンタジー世界を題材にしたきれいな絵が置かれており、それを一目見て僕はここが気に入り、キリコサイトへの投稿を決めてしまった。

 サイトの正式名称は、トップにやたらと凝った筆記体で記述されていて読みづらかったこともあり、この時の僕はちゃんと覚えようとしなかった。他の利用者達もキリコサイトと呼んでいるようなので別にいいやと、深く気にせずにいた。

 ネットマナーを紹介したサイトで振る舞い方を予習してから、キリコサイトの利用規約を穴の空くほど読んだ。そして僕は自分の絵をスキャナで取り込み、自己紹介も付記して、管理人宛てにメールで投稿したのだった。

 この時、僕にとって『キリコ』はまだ、単にサイトの管理者に過ぎなかった。

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