第8話 八月十六日(2)

 予想していたことだが、彼女が絵を描いている間は、僕は暇になる。『黒蟻』の本棚には漫画の類がいくつも入っていたけれど、ものを教えに来た家で、暇になったから漫画を読むというのもどうなのか……と思っていたら、向こうから声がかかった。

「あの、もしかして、私『ダスト』さんのことほったらかしにしちゃいますね」

「そんな風には思わないけど、確かに今、困り始めてる。……どこか机が借りられるなら、僕も何か自分の絵を描くけど」

 着色用の画材はかさばるので置いてきていたが、クロッキー帳とケントボード、シャープペンシルと消しゴムくらいは持ってきている。

「じゃあ、お姉ちゃんの机使ってください。一番片付いてるから」

 お言葉に甘えて、『キリコ』の机に必要最小限のスペースを空け、クロッキー帳とペンケースを置かせてもらった。

「じゃ、めどがついたら声をかけて。僕が何か描いていても、気にしないでいいから」

「はい」

 『黒蟻』はにっこり笑うと、手元の自分の絵に集中し始めた。

 彼女は僕と同じタイプかもしれない。描くことに一度集中すると、他の全てが目に入らなくなる。その時に声をかけられると、とても苛立つ。

 でも、彼女の方から何か用事があるのに、僕が集中していることに気を遣って声をかけずにいられたりするのはもっと嫌だった。遠慮されることに強い嫌悪感があるのだ。性根が、卑屈なのかもしれない。

 そんなことを考えながら、僕は僕で、クロッキー帳の薄い紙に、現在構想中の新しい絵のラフを描きつけ出した。

 『黒蟻』は僕が言ったとおり、何か聞きたいことがあれば遠慮なく僕に質問してきた。その度に僕のラフスケッチは遮られたが、不思議と不快感はなかった。いつ声をかけられて作業を中断させられるか分からない、だからいっそう集中しなければならない。そんな制約が、ちょうどよく僕の作業を規定してくれたのかもしれない。

 『黒蟻』の下描きはみるみるうちに完了し、ペン入れに入った。黒いライナーのキャップが、軽妙な音を立てて外れる。

「では、ペンを入れます。これが、緊張するんですよね」

「同感」

 鉛筆で描かれた線を、彼女は油性インクの0.05mm線のペン先でなぞって行き、一通り済んだところでドライヤーでインクを乾かしてから、消しゴムで鉛筆の線を消していく。

 筆圧が強いのか、黒いインクの線は少しガタついている。けれど、そこに独特の勢いがある。

 少しカールしたセミロングヘアの、元気そうな女性キャラクタと共に描かれているのは、生き物のように跳ねる水、果物、周囲の木々、その葉。躍動するそれらを、やや下からのアングルからカメラが捉えたような構成。

 さっきの僕の助言を最大限に盛り込み、『黒蟻』ならではの快活な魅力も活かされた構図に仕上がっている。

「いいと思う。凄くいいよ」

「ありがとうございます。私も、これ結構、うまくいったと思いますッ」

 彼女はケントボードを脇へどけると、今度はまたラフの方を取り出し、何かを書き付けていった。どうやら、これから塗る色の指定のようだった。

 あまり深く考えずにぶっつけ本番で着色していくと、隣り合う色が似てしまったり、光源がばらばらになったりする。それを防ぐために、あらかじめ着色の予定をラフにメモしておくのだろう。

「いつもそうしているの?」

 彼女は視線をふとそらし、

「いえ、いつもは、その、面倒なので、こんなことはあんまり……。でも、これについては失敗したくないんですよ」

 見ていると、指定のメモはなかなか細かく書き込まれていた。

 首をかしげながらなおも書き入れ、消しゴムで消し、また書く。

 この辺りで、僕は僕のグラスに麦茶が無くなっているのに気付いた。けれど、今の『黒蟻』には非常に声をかけづらいし、かといって勝手に注ぎに行くなどというのもはばかられる。

 蒸し暑い室内ではしんどかったが、『黒蟻』の集中力の方が優先だ。やむなく、我慢することにした。

 三十分ほどしたところで、『黒蟻』がふと僕を振り向き、

「あっ」

 と声を出した。

「『ダスト』さんのお茶、無くなってるじゃないですか」

「あ、うん、今、ちょうどね」

「コップ、乾いてるじゃないですか。絶対今じゃないじゃないですかッ」

 鋭い。

 彼女はぱたぱたと冷蔵庫へ行き、新しい麦茶を注いでくれた。

「こんなことで、遠慮しないでください」

「悪かった。集中しているみたいだったから」

 自分がやられて嫌なことを、自分と似ていると思いながら『黒蟻』にやってしまったことに、情けない思いだった。遠慮される方が不快だというのは、さっき考えていたばかりのことなのに。

 『黒蟻』が上目遣いに僕を見ている。睨んでいるつもりなのだろうか。少し膨れさせた頬の丸みが、彼女の頭のくるりとした円状の曲線と一体化している。

「私だって、絵を描いてる『ダスト』さんに声かけるの、結構勇気いるんですよ」

「僕には遠慮なんかしなくていい」

「そう言ってくれるって分かってます。でも、怖いんですよ」

「僕、怖い?」

 少しショックだったが、まあ当然だと思った。中学生の彼女が、男子高校生に対して取っ付きやすいと思っているはずがない。

「『ダスト』さんは怖くないです。ちょっと、ぶあいそかなとは思いますけど。ただ、せっかく会えた『ダスト』さんに嫌われるのは、正直、怖いです」

 そう言って、彼女はうつむいた。

 自分とはまるで違う生き物だと思っていた女子中学生からそう言われて、僕は妙な共感を覚えていた。

 人から疎んじられたり、嫌われたりすることが、僕は怖い。

 もっと正確に言えば、それによって降りかかってくる孤独が怖い。

 絵を描くことなら、一人でもできる。わざわざそれを誰かに見てもらおうとネットへアップするのは、僕にとって、それが孤独から逃れるための、僕にできるもっとも有効な方法だったからだ。最初は、単純に絵を評価して欲しいだけだった。でも今は、絵を通じて、誰かに僕を見てもらいたい。声をかけてほしい。

 これは、単純に絵を描くことの楽しさ、それと同じくらい本質的な、僕にとっての描く理由だった。他の方法では、誰も僕になど見向きもしないだろうから。

 だから、たとえマキがどんなに僕という人間を求め、認めてくれても、絵で誰かと繋がろうという衝動を消し去ることはきっとできない。絵を通じて知り合いながら、絵以外の話題で僕とつながろうとする人と交流を持つ意味も、理解できない。

 僕はマキという人間を、悪いとは思うけれど、どこかで信用していないのだと思う。マキに限らず、恐らく全ての人間を、ということではあるのだけど。

 『黒蟻』は、どうやら僕に似ている。

 ただ、僕よりもずっとまともな神経を持っていると思う。

 そんな人間が、こんな僕に嫌われることに怯えている……

「たぶん、……」

 どう言っていいものか、頭を回転させながら、僕は切り出した。

「え?」

 真顔の僕に、『黒蟻』が少し戸惑ったようだった。

「たぶん僕は、君を嫌うようなことはない。君が何をしても、幻滅したりすることもない。だから、僕には何ひとつ遠慮するようなことは無い」

 マキへのメールでそうしたように、必要なことを、必要な分だけ言葉にする。

 『黒蟻』はまた少し戸惑ったように何かを考えて、先ほど見せてくれたよりは幾分おとなしい笑顔で、

「それは、私もです」

と言った。

 何となく目線のやり場に困って時計を見ると、針は午後六時ちょうどを指していた。そろそろ、帰る頃合いだろう。これ以上は、お互いに集中力も落ちる。

 明日も来ていいとい言うので、メールを使うまでもなく、また午後一時に来るとその場で約束して帰り支度をし、僕は『黒蟻』に見送られながら彼女の家を出た。

 駅に着き、帰りの電車をホームで待ちながら、何か適当なサイトでも見て暇つぶしをしようと、携帯電話を開いた。

 マキからのメールは、入っていなかった。


 うちに帰り、母と夕食を取った。

 これからしばらく、こんな風に昼間出かけることが多くなる、と母に伝えると、

「宿題と、必要な勉強さえやってればいいわよ」

と釘を刺すように言われた。

 こういう言い方をされると、後で痛い目に合わないよう、少なくとも夏休みの宿題だけでも先に片付けようとする僕の性格を見越しているのだろう。高校生にもなると親に隠しごとも増えたけど、こんな風に本質的な性格を利用してコントロ―ルされてしまうのは変わらない。

 部屋に戻ると、絵を描くよりも先に宿題を始めた。一時間ほど集中したら、数学の宿題として渡された問題集は思ったよりもはかどった。

 その代わり、抗い難い疲労の波がやって来た。『黒蟻』の家でもそれなりの集中力を注いで作業したせいもあるのだろう。今日はそのまま波にさらわれてしまうことにして、僕は気力を振り絞ってシャワーを浴びると、ベッドに横になった。

 時計を見ると十時。僕の寝る時間としては、普段よりも早い。が、心地よい眠気は既に僕の体を包み込みつつあった。

 明日『黒蟻』と会うために、今日と同じく、少しばかり自分も絵の”予習”をしなければならないが、明日の朝に回すことにする。

 けだるく、僕は目を閉じた。


 ひどく茫洋としたまま、意識が戻った。 

 気がつくと僕は、今日入った『黒蟻』の部屋にいた。

 あれ、いつの間にまた来たんだっけ、と思って周囲を見回すと、すぐ後ろに髪の長い少女――とはいっても、僕よりも少し大人びた印象の――が立っていた。

 少女は黒い制服を着ていて、黒い髪を揺らしながら、僕の隣に座った。

 彼女は微笑むと、何かを言うように口を小さく動かした。しかし、声は聞こえない。

 ……ごめん。僕は、君の声を知らない。

 少女は表情を変えない。それは、僕が知るただ一つの彼女の表情だった。あの写真の表情。

 その顔が僕の顔に近づいてくる。無音のまま、唇が触れあった。彼女の舌先が、僕の唇をつつくように動く。

 ノック?

 僕が口の力を緩めると、まだ開いてもいない唇をこじ開けて、彼女の薄く小さな舌が侵入してきた。

 マキと、こんなキスをしたことがある。でも、口の中を舐め回されるのは、あまり好きじゃない。

 すると少女は舌を奥までは差し込まず、僕の唇と前歯の間の辺りを、ゆっくり、くるくると舌先でくすぐった。

 しばらく、その動きが続く。

 世界は、相変わらず無音。

 次第にたまらなくなって、とうとう僕の方から少女の唇の間に舌を差し込んだ。差し込めるだけ、全て。

 少女の歯が、咎めるように僕の舌を軽く噛んだ。

 その時、背後に気配。

 目だけを振り向かせる。

 誰か、女の人が立っている。

 それは――……。


 目が覚めると、部屋の中は真っ暗闇だった。曇っているのか、月明かりも無い。時計を見ると、午前二時。

 息が荒い。寝汗もひどい。あんなに静かな夢を見ただけなのに、鼓動も暴れていた。

 下半身に、違和感を感じた。

 ずいぶん濡れている。

 自分に、胸中で毒づいた。

 最低だ、と思った。

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