水鏡
夏郷 雨流(かきょう うる)
七回忌
「明日が七回忌となります」
少年は抑揚の無い声でそう言った。
木のテーブルを挟んで俺の向かい側の椅子に腰掛ける彼はシグという名だ。相変わらず一片の感情も表に出さない。幼げな容貌に似合わない悟ったような表情だ。
半開きの窓の外から時折虫の声が聞こえ、真昼の暖かな日差しが差している。普段ならばまどろんでしまうほどの天候だが、今は眼前の少年の声が耳にやけに大きく響く。
木造の部屋の中に流れているのは、居るだけで息が詰まってしまうような重苦しい雰囲気だった。
「死去した人間が死後の世界で幸せに過ごせるよう、生前を共にした隣人がその魂を冥府へと見送る。それがこの国での七回忌です」
「………………」
気が付けば、俺は唇を強く噛み締めていた。その僅かな痛みなど気にも留められぬ程、心内に重苦しい暗がりが広がっている事に気付く。
切れ長の目を持つ少年は白装束に似た服を纏っていて、その布の端が窓から入り込んでくる風に少しだけ揺られている。
「彼女の七回忌がどのように執り行われるか、それは僕の口からは何一つとして話せません。貴方はただ明日を待っていて下さい。では」
無機質な声でそう告げた少年は立ち上がり、身を翻して歩き出す。俺の自宅から立ち去る寸前の少年の顔もきっと仏頂面のままだったのだろう。
この国に数多く存在する不可思議な仕来りの中の一つ、『鏡門』。それは死者の魂を一時的にこの世へ呼び戻して行う、言わば儀式だ。明日になれば俺はそれを実行する事になる。
空にはまだ日が照っている。しかし、今日は何もせずに眠ってしまう事にする。散漫な思考を巡らせた所で何も変わりはしないのだ。
硬い寝具に横たわるとその染みるような冷たさに体温を少しだけ奪われる。人気の無い空気や孤独感にはもうすっかりと慣れてしまった。
黒い薄手の上着のポケットから重みのあるアクセサリーを摘まみ出して眺める。
俺が住んでいた国にはない、果実を装飾品に加工する技術によって作られたものだ。
小さな橙色の果実は水晶に込められ、小さな太陽を模したようにも見える。
せめて後腐れの無いように見送ろうと思っていても、思い出深い果実のペンダントから暫く目を離す事が出来ずに居た。
それから長い時間をかけて日が落ち、そしてゆっくりと昇ってきた。
結局布団に包まったまま一睡も出来ず、顔をしかめる程の頭痛と疲労感だけが残る。
永遠に続く日など有りはしない。太陽は静止せずに動き続ける。不思議なこの国に移住した後もそれは変わらない。
自室から出てはみたものの、朝食を作って摂る気にはなれなかった。目を覚ますために台所へ行き、水道水を硝子のコップに汲んで飲み干す。
この季節になると、木造の家の中が妙に広く感じる。物音もあまりせず、鳥や虫の鳴き声が時折聞こえるのみだ。
その静寂を破ったのは呼び鈴の音。戸を開いてみれば、そこには昨日の少年が佇んでいた。
「どうも、シグですが」
「……もう鏡門の時間なのか」
「ええ。これを渡しに参りました」
装束を身に纏った灰色の髪の少年――シグは俺に瓶を差し出した。直径三十センチメートルほどのそれには中々の重みがあり、中は無色透明な液体で満たされている。
「中身は『水鏡』です。貴方は今日中に森へと一人で出向いてください。細かい時間は問いませんが、今日の日没時に『水鏡』は消えて無くなります」
「俺一人で、森にか」
「はい。貴方が一人で魂を送り届けるのです。それを木に振りかけてください。慣わしですから」
少年は「では、さようなら」とぶっきらぼうに言い残し、どこかへと歩き去っていった。
彼の職は神主だ。きっといつも通り、神社の掃除でもするつもりなのだろう。
この村を出てずっと北へ歩くと、そこには小さな森があると聞いた。数年に一度だけ死者の魂が帰り着くと云われている場所。俺はこの国で十数年ほどを過ごしているが、未だ森の事については多くを知らない。
シグの話を聞き終わった後、俺は間髪入れずに玄関から外へ踏み出した。それから村を発ち、数日前にシグから受け取った地図を広げ、迷わぬように辺りの景色と見比べつつ歩く。
涼しい。朝方の太陽は優しく地に光を注いでいる。地平線の彼方まで続いているこの景色は、俺の故郷のものとはやはり違う。
俺が故郷の国のしがらみに疲れ、窮屈な社会の中から逃げ出したあの日をありありと思い出す。
稼いだ金を持って何も考えずに船を乗り継ぎ、流浪し、偶然この国へ辿り付いた日。その時に見たこの辺りの昼間の景色。
そよぐ田の草の音も少しだけ人の手が加えられた地面も、来た時から何も変わっていない。深く呼吸をしてみれば微かな日と土と草の匂いが鼻腔に満ちる。
振り返るともう村は見えない。まるで白昼夢のように、あの村で初めて働いた時の事をぼんやりと思い出した。
果実酒を造る仕事だ。頭をほとんど使わない力仕事ばかりの職場。故郷の会社でひたすらコンピューターを弄くっていた俺は、酒造の作業に辛さを感じる事も多々あった。
だが、気楽だった。嫌な上司の代わりに優しい爺さんが居て、誰も彼もが笑っていた。
果実を収穫し、体力を使い果たして家で眠る日々。それを数年続けた頃、俺にもようやく後輩ができた。
いつも中身入りの重い瓶を両腕に下げている働き者の少女。黒いポニーテールと赤みがかかった頬をもつ少女だ。彼女の名前はヒグレと言った。
俺が『鏡門』を行うのはこの少女の弔いの為だ。彼女は今から七、八年前に流行り病でこの世を去っている。この国の医療はあまりにも遅れていた。
歩みを進める内、辺りの景色がみるみる変わっている事に気付く。
やがて地の雑草はびっしりと根を張りだし、道も消えかけ、心なしか風も弱くなっている。
虫の声と僅かばかりの涼しさだけが辺りを漂っていた。まるでこの世のものではないような冷たい空気。
途中からは景色に目を向けるのも忘れ、ただ森を目指して小走りで進んだ。
それから一時間ほど経つ頃には虫の鳴き声も風も止まり、現実感すらおぼろげになる程の静寂が辺りを満たし始める。
異様な雰囲気の中でも歩を進め続け、ようやく森の入り口へと差し掛かった。
昼間だというのに、森の中は薄い影に満ちていた。巨木から伸びる枝と葉が中途半端に日光を遮っている。
その陰鬱な景色に僅かな肌寒さを感じながらもそっと足を踏み入れる。
冷たく湿っていて木の匂いのする空気、木霊する虫の声。ここで声を発せばきっと森の奥にまで響くだろう。
もう森を進む時間すらも惜しく、俺は適当に選んだ木の根元辺りに立った。
そしてシグから受け取った瓶の栓を抜き、木肌に水鏡を伝わせる。すると木肌の表面がみるみる質感を失っていき、金属光沢をもつ銀色の鏡へと姿を変えた。
その鏡には俺のものではない顔が反射しているように見えた。だがそれは見誤りだ。俺の背丈よりも頭一つ分ほど小さな少女が鏡の中に映っている。
鏡面から少女の腕が伸びてくる。俺は反射的に小さな手を握り、そっと自分の方へと引いた。
「ぷはっ……」
少女の足が水鏡の中から解放され、湿った草の萌える地へと着いた。装束を着た華奢な体が水音と共に森の空気に晒される。
この少女と会うのは七年ぶりほどになるが、その幼げな顔付きは少しも変わっていない。
何故ならば、死者は歳を取らないからだ。
この少女は七年前に流行り病で死んでいる。水鏡が無ければ、俺はこの少女と対面する事さえ出来ないのだ。
きっと、生前に少女の顔を見るのはこれが最後となるのだろう。
「……随分と久しぶりじゃない。元気してた?」
そう言って、少女は俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「そこそこ。お前はどうなんだ」
「死後の世界も悪くないかなー、って感じだよ。この世よりもいい場所さ」
「そうなのか。なら俺も……」
吐き出しかけた言葉を辛うじて留める。
ほんの一瞬、沈黙が俺達を包んだ。しかし少女は笑みを絶やす事もせず、俺の背中をぱしぱしと軽く叩く。
「まさか、死にたいなんて言わないよね? 馬鹿だなー、自殺したら地獄行きだよ。私と同じ場所に来れなくなっちゃうからね」
「そうだな……」
「何かあったの? 私に相談してごらんよ」
「特に何もない。この国での生活は楽しいしな」
「ほー、良いじゃないか。まだお酒を造ってるのかな? ともかくキミが幸せそうで何よりだよ」
「いいや、昔の方が大分幸せだった。七年前まではお前がまだ生きてたんだからな。お前が死んで以来、果物の収穫だってさほど面白くないさ。心に穴の空いたような気分だ」
「つまり、キミは不幸せなのかな?」
「微妙だな」
「あー……ごめん、何て言っていいか分からないや」
会話を重ねる度、辺りの気温がみるみる高まっている事に気付く。
涼しい風の吹く朝から、太陽が最も照る昼へと。刻々と時間は進んでいるのだ。その事実から目を逸らしてしまいたい。だが逸らす事は出来ない。
『今日の日没時に水鏡は消えて無くなります』と、抑揚に乏しいシグの言葉を思い出す。彼曰く、水鏡はこの世と霊界を繋ぐ扉のようなものなのだという。
水鏡が消えればこの少女は強制的に冥府へと送られる。そして、二度と俺と会い見える事は無い。
だから、時の流れが忌々しかった。時間は止まらず、そして過去にも戻らない。その事実が憎かった。
「――だよね、樋浦くん」
「ん、何だ?」
「たぶん今日でしばらくお別れになる……けどさ、どうせあと少ししたら会えるんだよね」
「……そうだな」
「なら、気に病む必要なんてないじゃない。とりあえず今はゆっくり生きてごらん? どうせみんないつかは死んじゃうんだからさ。時間が経つのなんて早いもんだよ」
不思議と、話し聞かせるような少女の声に耳を傾けるだけで、心の中の重苦しいしがらみが消えていくのを感じる。
すぐに訪れるであろう少女との別れはやはり哀しい。しかし、だからこそ安らかな気持ちで少女を見送ってやりたい。俺達の間に湿っぽい雰囲気が流れるのは、何となく少女に申し訳ないような気がした。
その矢先、少女の目から涙が湧き出した。その指が俺の首の辺りをさする。
「しかしさ、このペンダント……すごく懐かしいね」
「そうだろ。肌身離さず持ち歩いてるんだ」
「へー……持っててくれたんだ? ……七年経っても全然綺麗……」
その黒い瞳から大粒の涙が零れ、長い睫毛を濡らして頬を伝う。薄い唇の狭間から細い嗚咽が漏れた。
少女が息を引き取る三日前。俺と少女以外に誰も居ない病院の中。ぼさぼさとした黒い髪、蒼白くやつれた顔になってしまった少女の姿を思い出す。
俺の故郷の病院とは程遠い医療設備無しの病院だ。寂びれた民宿によく似ていたのを今も思い出せる。
『もう、私は近い内に死んじゃうからさ。これを私だと思って、大切にしてほしいな』
そう言われて手渡されたペンダントの重さ、込もった微かな体温を忘れた日は一日も無い。
生前の少女の声を聞くのはこれが最後となってしまったが、この国では死者との面会が許されているのだ。七回忌にのみ、それもたった一度だけの面会。
明るくなりつつある森の中で、少女はぼろぼろと咽び泣く。
「これ、ずっと大切にしてくれてたんだね……キミなら私の事なんか忘れて、きっと幸せになってくれてるって思ってたのにさ。私の事を七年間覚えてくれてたのは嬉しいけど……でも、鏡門は今日で終わりなんだよね。キミを一人にしたくない……」
「確かに俺はお前の事を一生忘れないだろうな。しかし……俺は一人だって構わないんだぞ」
「え……?」
「俺は寂しくなどない。このペンダントで、お前の顔を毎日思い出せるだけで良い。何も気にせずあの世で元気にやっていろ。あと何十年もしたら、どうせ俺もそちらに行くさ」
「……そっか。ならもう……私は……向こうの世界に行っても良いんだね?」
「ああ、多少寂しくったって仕方無い。どうせ時間は早く過ぎるものだから気に病む必要は無い、と言ってくれたのはお前だ」
少女は、やっと涙を手で拭った。
その頬には生前と変わらない笑みが浮かんでいる。優しさのこもった明るい笑み。昔は見飽きるほどに見た笑顔。
「キミを元気づけようとしたのに、逆に励まされちゃったな。ありがとうね、樋浦くん」
「こちらこそ」
ふと思う。
いくら時間が経とうと、俺だけが七年分老いていようとも、俺達の関係は何一つとして変わっていない。
すぐにべそをかくこの少女も、俺も、きっと何も変わってはいないのだろう。
時の流れも死別さえも、まるで初めから無かったかのようにさえ感じる。俺がこの国に住み始め、そして少女と出会ったその日から、俺達は良き友同士のままだ。
「しかし、ちょっと大人っぽくなったよね。樋浦くんは」
「七年も経ったからだろうな。お前も少しだけ可愛くなったぞ」
「ちょっとだけかー」
「……いいや、すごく可愛くなった」
「な、なんだよ……照れるなぁ、へへ」
赤らんだ顔で頭を掻く少女の目から、悲しげな潤みはもうとっくに消えていた。
「ねぇ、そろそろ日が沈むよ」
「もう別れか。まぁ、達者でな」
「キミこそ、ちゃんと恋人つくって幸せになりなね」
「死ぬまで恋人は作らないぞ。お前を超える女なんていないだろうから」
「……そう言ってもらえるとうれしいよ。じゃあ、キミがこっちの世界に着いたら結婚式でもしようか? それまでずっと待ってるよ、私」
太陽が刻々と下る。全ての光や自然の暖かさと共に、少女の体もまた刻々と消えていく。
「それじゃ……ばいばい」
「元気でな」
誰も居なくなった森で空を仰ぐ。日の光はもう無い。
この国の一日は、あまりにも短かった。
「……だから、俺はあれから医者になったんだぞ。長生きだってした。お前みたいに苦しんで死ぬ奴が少しでも減るように」
「それはすごいねぇ。さすが私の旦那さんだ」
「そう言われると少し照れるな……しかし、冥府は俺が生きてた頃の世界とあまり変わらないものなのか。案外温かくて明るいし自然もあるが……退屈だ。酒造仲間が居なければ酒も造れないし、どこを見ても病人なぞ居ない。しかし、お前が居ればそれでいいさ」
「……えへへ。私もキミさえ居れば、それだけで幸せだよ?」
俺達は半笑いのまま、そっと口付けを交わした。
水鏡 夏郷 雨流(かきょう うる) @whitebell1996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます