郁美が死ぬ時! 研究所は爆発する!
「ただいまー……あれ? ゆぅくんとデズ、もう来てたの? おーい」
あれ? この声は……
聞き間違える訳がない。どこかあどけなさを残す、空へ羽ばたき始めた小鳥のような柔らかな声の主。それは……
「みぃちゃん……だよね?」
日記を読みふけるデズモンドに問いかける。
「うむ、間違いねぇ……って郁美ィ! 冗談キツいぜ……」
「ちょ、ちょっと待って! 拐われたんじゃ! えぇ……」
まさか早とちり? 勝手に悲憤慷慨していただけなのか?
聞こえてきた彼女の口調はいつも通りで別段取り乱している様子を感じることはなかった。
という事は恐らく無事なのだろう。
本当に……本当に良かった。郁美が陵辱されていなかった上に、デズモンドが犠牲にならずに済んだのだ。恐ろしい悲劇が一歩遠退き、安堵感で全身の力が抜ける。
ん? ……いや待て。
だとしたら一大事だ!
いくら郁美の為のは言え、寝室で日記を読んでいたことが知れたら流石の彼女も怒るはず。
「デズ、どうするの? このままじゃ俺達の人生は爆発確定だよ」
「あわわ……あわ慌てるな。日記も戸棚も既に元通り。服は着た。お前は、まず鼻血を拭け」
「そうだった、危ない危ない」
スラックスのポケットに鼻紙を常備してて良かった。
郁美は血を目にするのが苦手で、他人の血ともなれば激情に駆られたり虚無感に襲われたかのようになってしまう事が間々あるのだ。
その様は余りにも悲痛で、目も当てられない。
近しい間柄なら尚更で、時に……
「ユウ、良いか?」
「うん……これで大丈夫かな」
「うむ、そんなもんだろ。俺達は不在の郁美を心配して捜索活動を展開していた。話は俺が合わせてやる。堂々としていれば問題ない、信じろ。行くぞ……我に続け! うおぉ!」
「ええいままよ! ……って、うおぉ?!」
叫びながら勢いよく寝室から飛び出して行くデズモンドに続こうとしたのだが、足が縺れて地味に転倒してしまうとは我ながら情けない。
とはいえ普段エイハブとラグナシアに投げられまくっているので上手く受け身を取れた。
しかも奇蹟的に頭だけは寝室から抜け出しているので、首を動かせば玄関を窺うことができる!
この体勢ならば、郁美の帰宅が罠でデズモンドに万一のことがあっても補うことが可能だ!
常に不測の事態に備えるとは、やはり優等生だ……とエイハブも言わざるを得ないはず!
とか考えてる場合ではない。一刻も早く郁美を確認しなければ……
起き上がる手間すら惜しいので床に伏せた状態で玄関へ顔を向けたが、デズモンドに隠れてしまい郁美の顔を見ることができない。
様子を鑑みるに、どうやら彼女は玄関で編み上げ靴の紐を懸命に解いているようだ。
「郁美! 無事だったんかワレ!」
「わっ! びっくりしたー。デズ、驚かさないでよー」
肩に掛けた、白昼夢から生まれたような手提げ袋が振り子のように揺れている。
郁美は俺のことを、まだ認識していないようだ。
「ユウと心配してたんだぞ!」
彼女は無事に靴を脱ぎ終え、スリッパを履く……そんな姿から何か違和感を感じるが、取り敢えずは大丈夫そうなので、ゆるりと立ち上がり俺も玄関へと向かうとするか。
「あれ? もうそんな時間だった? ゴメンね、お昼ご飯のお買い物してたら今までかかっちゃったの」
「そうだったんだね、安心したよ」
とは言ったものの、拭えない奇妙な感覚が新たな陰りとなり俺の心に暗い影が差す。
「あ、やっぱり居たんだ! ゆぅくーん! ただいま!」
微笑みながら俺に手を振る郁美は、純白の花のような清楚な趣を保っているが……何かがおかしい。
服装? 髪形? ……なんだ? 普段とは違う決定的な『何か』を見逃しているはず。
「うん、おかえり……」
俺の頭一つ分ぐらい背の低い色白な彼女は、薄い水色のノースリーブワンピースに白のカーディガンを羽織り、何事も無いように振る舞っている。
「ゆぅくん、おひさしぶりね」
細い腕や足はすらりと長いが年齢より少し幼い体つきは、女性としての魅力を宿していた。まるで創り出された完璧な人形のような。
「お久しぶり、みぃちゃん……」
彼女が肩から下げている帆布が素材の手提げ袋にも異変は見当たらず、愛らしい犬の装飾があしらわれているだけ。研究所の若い女の子なら誰でも持っている平凡な意匠の品物だ。
「あ、そのバッグ持つよ?」
「ほんと? ありがと。けっこう重いから気をつけてね」
郁美から受け取った手提げ袋は見かけよりも重いが、俺にとっては他愛ない。だが華奢な彼女からしたら相当な重量に値するだろう。
「……はい、デズ」
「おうよ……って俺が持つのかよ! お前さんなぁ。これは俗に言う、いとも容易く行われるえげつな……」
名付し難い奇妙な感覚は依然として俺の頭に深く根を張っており、デズモンドにかまける暇はない。
「何かあったんじゃないかって心配で勝手におジャマし……たよ……ッ!」
その時気づいたのだが、郁美は普通に『起立』していた。変な言い方だが『自立』しているのだ。
「ううん、気にしないで。そのための合鍵なんだもの。それよりリビング行こ、お茶入れるね……って、ゆぅくん? どうかした?」
俺の前まで歩いて来た彼女は、軽くて柔らかそうな鳥の子色をした長い髪を横からかきあげ、濃褐色の子供っぽい大きな瞳で不思議そうに俺を見ている。
状況を把握できない以上に、その余りの可愛らしさに見惚れてしまい言葉を発することができない。
「あ、ユウくん驚いた? あのね、このまえ第I相試験が起動されたんだけど、その記念として『お父さん』が作ってくれたの。お陰で、外出に車椅子がいらなくなったんだよー」
立ち尽くす俺を見て郁美は合点がいったらしく、突然ワンピースをたくし上げた。
「「おおぅ、これが……」」
椿の花のように儚い郁美の笑顔にも、両足の側面に取り付けられた『血の通わない歩行支援装置』にも気づかず、俺達の視線は雪のように白い健康的なふとももに釘付けにされてしまったのであった。
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