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滑落の果て

滑落が止まり、落ち葉のたまった急斜面の底でようやく視た。辺りは針葉樹の高い樹高に邪魔されて光が届かない仄暗い枯れ沢だった。四肢に異常がないのを確認し歩きだす。沢伝いに林道を探し幹線道路へ出て、建設現場や森林組合を頼れば風と連絡が取れるだろう。

 あのおぞましい草は全て根絶やしにした。あれは通常の草を刈るように駆除することはできない。肉体に根を張り魂を拘束してじっくりと育つ。どうしてそんなことを知っているのか分からなかったが、あの肉塊を見た時に駆除の仕方を思い出した。灯の燈った髪の毛をよすがとして魂をあるべきところへ還す。最後に聞こえた女の人の声も何者なのか知らないが彼女にお礼を言われると無事に儀式が完了したことになると知っている。

 ぬかるんだ足元に気をはらいながら歩いていると、どこもかしこも似たような景色に見えてくる。曇天を通した日の光も翳っているように感じられた。今が何時かもわからない。もしかしたら夕方くらいだろうか。このまま山奥で一晩過ごさなければならないのだろうか。

「あ、あのぅ、大丈夫ですか?こんなところで何をしてらっしゃるのですか?」

 はっとして後ろを振り返ると白衣の男性がいた。黒ぶちの細い眼鏡をかけていてどことなく霧と似ていた。

「すいません、斜面を滑り落ちてしまったようで、迷子になっていました」

 男性は少し目を見開いた。

「そうですか、私は杠(ゆずりは)と申します。土、とお呼びください。よかったら、自宅にいらっしゃってもらいたいのですが」

 驚いた。聞き及んでいた土はもう少し意地の悪い人間だとばかり思っていたが、親切そうでどことなく雰囲気も風に近いものを感じた。

「いいえ、大丈夫です。そこまで迷惑をおかけするわけにはいきませんから。ただ、山を降りる際に付いていってもかまいませんか?」

「そんな、遠慮せずに。今日は気温以上に体感温度が下がっている日ですし、風邪をひいてしまいます。とりあえず、山を降りる道はこちらです」

 くるりと背を向けて歩いていく土のあとを追う。それとなく雲や電のことを尋ねられたらどうしようと身構えていたが、終始無言で林道に出た。

「うーん、知らない人の家にいきなり招かれるのはちょっと怖いですよね。私は街のお医者さんなのだけど、それは信用する理由にならないかな?」

 林道の脇に留めてあった車を背にして土が尋ねたが、首を傾げ渋面をみせたので、そうか、困ったなぁと頭を掻いた。

「じゃあ喫茶店まで送ろうか、そこでちょっとご飯を食べよう。もうそろそろ夕飯の時間だしお腹空いていない?」

 再び眉間を寄せて返しに困っていると、ぐきゅぅとお腹が鳴った。土は微笑んで美味しいところだからおいでと誘う。空腹なのは確かだったのでしぶしぶ彼の車に乗る。朝通ってきた道とは別の道を通り山道を抜けて街へ入った。途中でバイクを引き倒したショッピングセンターが窓から見えたが、そこを通り過ぎる際も土は何も言わなかった。

 住宅街にほど近い喫茶店に到着すると、ここは煮込みハンバーグが美味しいんだよと微笑んだ。長靴で入っても良いのだろうかと思ったが尋ねそびれ、泥と腐敗土が玄関マットを汚してしまい少しばつが悪くなる。店内は虹のお店をより質素にした感じの静かな雰囲気で、厨房から玉葱と赤ワインの酸味と甘い香りが漂っている。

 土が本日のランチを注文すると、ココットに入ったハンバーグが運ばれてきた。くつくつと煮えたつハンバーグは絶品で、ハンバーグとチーズはとろとろに絡まり合い、デミグラスソースの濃厚であっさりした後味がとても美味しかった。最後にパンでソースを綺麗にふき取って全て食べてしまった。

「知り合いのお医者さんに紹介されたお店なんだ。とっても美味しいだろう?」

 多分雲のことだろうなと思いながら、美味しかったですごちそうさまですとお礼を述べた。虹のお店の近くで降ろしてもらえるればよいと思っていたが、お冷に口をつけた途端に寒気が這いあがってきた。腹に中に温かいものを入れたはずなのに手足の先が冷え、脇や背中から冷や汗が滲む。

「大丈夫?」

 俯いてじっとしていると土がそっと手を額に当て、あぁ熱があるねぇと呟いた。

「私はお医者さんだから、私の家へ連れて行くよ。お薬を飲ませるだけだから安心してね」

 どうしてこんな時に熱が出てしまったのだろう。絶対に雨や霧に心配をされている。そしてはぐれてしまったことに責任を感じているかもしれない。

土が支払いを済ませる間に、扉の前で汚れた玄関マットを眺めながらこの男に不用意に彼らの事を喋るわけにはいかないこと、命を盗られたり致命的なことを喋らされてしまうかもしれないことを覚悟していた。

 喫茶店を出て、杠産婦人科と描かれた豪奢な病院へと案内された。家に入るとソファに座らされる。脇に差し込まれた検温計は三十八度五分を表示し、それを見て土は、変な菌を拾ったのかもしれないからしばらく家で休んでいきなさいと言った。

 ソファに寝転がってぼうっと天井を眺めていると、土に二階へ案内される。身体はだるく力が入らなかったが、体に鞭打って寝室へ入った。

ひとまず、今日のことを思い出したくなかったし明日の事も考えたくなかった。すべてが億劫で倦怠感に苛まれ上手く頭が回転しない。薄闇の中で暗転と覚醒を繰り返すうちに意識はいつの間にか落ちていた。

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