第8話
「失礼しました」
担任に軽く頭を下げ、一礼してから職員室を出る。
自習時間を利用して呼ばれたために、廊下には誰もおらず、開いた窓から時折入ってくる声以外は穏やかに比較的静かだった。
黄色くワックスの効いた廊下に、きゅっきゅと上履きのこすれる音が鳴る。ところどころ開いた窓からはいる新緑の匂いをつれた風が心地よかった。
桜が散り始めたこの季節に、開いた窓から差し込む日ざしはあたたかくて、思わずあくびが出た。
慣れない詰襟が若干息苦しいような気がしてホックを1つはずし新緑の香りの空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
大きな花瓶に白い胡蝶蘭の飾られた校長室とプレートの下がった部屋の前を通り過ぎ、来客用玄関に近い階段をのぼる。
「あんた、なんなんだよ」
感情を押し込めたような声がした。
穏やかな、うららかとも言えるこの場に似合わない低い声が。
立ち止まって見上げると、階段の折り返し地点、ちょっとした踊り場に男子生徒がいた。
逆光で表情はよく見えなったけれど、黒い学ランの下に白いパーカーを着て、窓に寄りかかっていた。前髪を縛っている色はわからないけど玉のついたゴムにどこか見覚えがあると思ったら、ぼくの斜め前にすわっている子だ。
つまりは、クラスメイト。名前は知らないけれど、たしか委員長に『トモ』と呼ばれていた。
「やぁ、さっきぶり」
「こっちの質問に答えろ」
ふん、と鼻を鳴らした彼はずいぶんとご機嫌ななめらしい。ぴしゃりとはねられた質問は流して会話を進める。
「なにが?」
「あんたが来てから、皆おかしいんだよ。クラスの奴らも、教師も。どっかふわふわしてて、皆おかしい。大体、その手に持ってる紙だっておかしいだろうが」
「失礼だね、これのどこがおかしいって言うんだい?」
皆、と言われていることには反応をみせず、手に持っている、先ほど渡された紙をひらひらと左手でふって見せる。
『再試験願』と題されているそれは確かに珍しいけれど、特におかしいものではないはず。だって仕方ないじゃないか。右手を骨折してしまった右利きのぼくは検査のための入院で、定期テストが受けられなかった。
けれど、これを受けないと3年生にはなれないのだから。
(まぁ、別になる気もないけれど)
そんなぼくを彼ははっ、と鼻で笑って続けた。
「『再試験願』だなんて、有り得ねぇだろ。」
「なぜ?」
「転校生であるあんたが、試験が終わった後に来たあんたが、期末と同じ問題だった転入試験を受けて入ってきたあんたが、なんでそんなもん持ってんだってことだよ。受ける必要ねぇだろ」
「なんで期末試験と同じだと?」
「担任が言ってた」
ぶっきらぼうな返事にそれでいいのか情報管理、と思わないこともないけれど。同時に納得する。
あぁ、そういうことか。つまりこの子には。
「『設定』が通じていないのか」
(これは大変、由々しきことだ。仕事に支障が出てしまう)
「は?」
いきなりまったく違う答えを返したぼくに、怪訝そうな声が返ってくる。そんな彼にはかまわずに止まっていた足を動かす。
開いた窓から間延びしたホイッスルの音が聞こえた。そういえば、2年4組は体育だったはずだ。
一段一段のぼって彼のひとつ下の段でまた足を止める。先ほどの声のままに顔をしかめて、意味がわからないと言いたげに見下ろしている彼に、にこりと笑って見せてから顔を近づける。驚いたように仰け反ったのを、腕をつかんで阻止。
振り払おうと腕を前に出し、その手が偶然にもぼくの学ランの胸倉を押した。反動で一歩後ろに足を下ろそうとして。
そこには床がなかった。
「わっ!」
「は?ちょ!」
スローモーションで再生しているかのようにゆっくりと体が落ちていくのが分かる。後ろから吹く風に風が吹いているのではなくぼくが落ちることで風が生まれていることを知った。
思わず伸ばした手の先、その指先で、彼は目を大きく見開いてぽかんと口を開けていた。これが間抜け面というものかと感慨深く見ていると、きゅっと口を引き締め、階段の手すりを掴みながら、彼はぼくの伸ばした手に、自らの腕を伸ばした。
ぼくの手首に、彼の見かけよりも大きくて熱い手が絡みつく。がっしりと掴まれたと思うと、存外強い力で引き寄せられた。
彼の胸に飛び込む形で階段の上へと戻される。そのままのいきおいでぼふりとフードの襟部分に顔があたったが、柔らかい素材だったのが功を奏して痛くはなかった。
危ない危ない。さすがのぼくでも冷や汗が出た。事故を調査しに来て、事故を起こしていたら笑えるものも笑えない。信用問題になりかねない。
「お前っ!」
怒鳴りつけようと見開かれる目に左目をあわせ、学ランの袖口につけたボタンとなっている、ピアスから突起する石を押した。
これで、もういいだろう。
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