[Ⅳ] 銃とキャンディーと現実世界
【wired】
──システムが起ち上がると、そこには荒涼たる世界が拡がっている。
デュルフォイの神託も、アクレピオスの癒しも存在しない。
記号叙述化された神殿、機械的に移動反復する人々。
護る者のいない世界『ペトロニウス』
そこは裏返した世界の裏返しの世界だった──。
【maid】
「で、なに…月子とリナリナはパソコンの前から離れないわけ?」
ずるずるとパックのカフェオレをすすりながら、香澄は話をまとめている。
「まあ、そんなところかな」
俺が答える。いつから香澄は理名のことをへんてこりんなアイドルみたいに呼ぶようになったのだろう。
「でもお二人とも、ちゃんと食事しないと体に悪いです……」
有川が心配そうに云う。俺としてはそんな心配をする前に、あのパソコンは有川んちの物で、なおかつ電気代が有川んちの払いだと云うことに、有川自身が気付いた方が良いのではないだろうか。
話が前後するが、今は冬休みでここは俺の部屋だ。監視を兼ねて香澄がウチに遊びに来たら、たまたま有川がここにいた、というワケである。
「で、真璃子ちゃんはどーして亮太の部屋にいるの? 実は二人ともラブラブ?」
「えっ、いえ……あの」
有川は瞬間湯沸かし器ばりにあっという間に真っ赤になるが、残念ながらそんなに良いものではない。
「アイツらがずっと有川の家にいるだろう? ほっとくと有川のヤツ、月子さんと理名付きのメイドになっちまうんだよ……」
「……パシリかい」
「いえ、あの……別に良いと思うんですけど……」
有川はそんな状態ですら嬉しいものらしい。全くもって犬チックなやつだ。
「端で見てたらなんだか居たたまれなくなってな……本一冊まともに読んでる暇もなかったんだぜ?」
「……そりゃまた……お気の毒に」
香澄もさすがに可哀想、と思ったようだ。
「お二人とも、お茶、いかがですか?」
ニコニコ顔で聞いてくる有川。
「あ、ありがとう…って、それじゃどこにいても変わんないじゃん……」
「あは、いいんですよぉ……好きでやってるんですから……」
そう云って立ち上がる有川。勝手知ったる他人の家、いそいそと三人分のお茶を淹れ始める。
「……生まれながらのメイドだな、アレは……」
「そうかな、どっちかっていうと……灰被り
「……あの調子だとハッピーエンドは無さそうだけどな」
嬉しそうに台所を動き回る有川を見て、俺と香澄はため息を吐いていた……。
【electric ground】
「そんで…あの二人はずーっとネットゲームをやってるわけだ」
「そうなの。あれってそんなに面白いのかなぁ?」
「なんか、美少女の魅力で世界征服を目指すーとか、云ってたぞ」
「……なんじゃ、そりゃ」
香澄は根っからあきれた、と云う顔をした。多分こいつは体育会系で、その手のゲームやそう云ったものに縁がないのだろう。
月子さんたちがはまっているネットワークゲームは、普通のRPGを大人数でやるタイプのネットゲームで、通常の戦闘行為や怪物退治に加えて、政治的なアクションが特徴らしい。軍や政党を率いて戦争や政治運動によって街を奪い、統治し、支配地域を大きくしていくというゲームだそうだ。
「で……ゲーム世界でも女王様になろう…ってわけ?」
「まあ、そんなとこみたいだな。ご苦労なこった」
「ほら、月子先生はもともと女王様だから……」
いや、そう云う問題でも無いと思うが……。
「けど、この間妙なこと云ってたよ、月子さん」
「へえ……なんて?」
「なんか、このゲームは向こうの世界の匂いがする……ってさ」
俺がそう云うと、香澄はちょっと眉をひそめた。
「月子が……そう云ったの?」
「……ああ。云ってたよな? そんなこと」
有川に聞くと、俺たちにお茶と茶菓子を振る舞いながら、うなずいて見せた。
「えーと、パンダなんとかがどーとか……?」
「まさか……『バンダースナッチ』?」
「ああ、うん、それだね…それがどうとか云ってましたよ?」
香澄はそれを聞いて、なんだか楽しそうに笑う。
「ふぅん……事件の匂いがするわね……」
「なんか嬉しそうだな、香澄ちゃん」
「………だからちゃんって云うな」
【unthread】
「リバースエンジニアリング……?」
脊戸垣内部長は眼鏡をかけ直すと、くるりと回って俺たちの方を見た。しかし、この部長はいつも学校にいるんだろうか……?
ここは学校の科学部部室。俺と有川は香澄に連れられ、冬休み中の学校にやってきていた。
「そ、部長、気になさってましたよね? あのネットゲームのこと……」
「『ペトロニウス』…か?」
「ええ、そうです。どうやら雁屋月子もあのゲームに
「赤の女王が……か?」
香澄が黙ってうなずくと、部長は少し黙考してから顔を上げた。
「ふむ…予定外ではあるが、何かつかめるかもしれんな……良いだろう」
「あの……リバースエンジニアリングって、ニュースで見ましたけど……すっごく大変なんじゃないですか?」
有川が不思議そうに部長に尋ねる。リバースエンジニアリングってのは……確か、機械やプログラムを分解したり解析したりして、その仕組みを調べることだったかな? そうだとするなら、その作業は確かに大変そうだ…だけど部長は、眼鏡を直すと軽く笑った。
「素人が一人か二人でやると云うのなら、当然大変だし手間も掛かるね……だが我々はプロだ。」
まあ、見ていてもらおう……そう云うと部長はコンピュータの前に向き直ると、キーを叩き始めた。
「ふむ……非常に興味深いね」
10分後、黙々とキーを叩いていた部長が声を上げる。
「……終わったのですか?」
香澄が立ち上がると、部長の脇から画面をのぞき込む。
「全解析にはまだ少し掛かるだろうが……恐らく必要ないだろう。赤の女王が感じ取った匂いというのは……多分このソース部分ではないかな」
そう云って部長が画面にソースをダンプする。俺たちにはさっぱり解らない。
「……結論から云おう。このゲームのデータ伝送部分には『バンダースナッチ』の匂いがする」
-*-
その後、部長が長々と説明してくれたが、要約するとこんな感じになると思う。
このゲームは家庭のコンピュータとゲーム用の処理をする大型コンピュータをネットを介してつなぎ、相互にデータをやりとりしながらゲームをやっている。
で、このデータをやりとりする部分のプログラムからは特定の波長でパソコンのCPUが振動する様に、ちょっと変わったプログラムがされているそうだ。
部長は7.8ヘルツとかなんとか云っていたけど、その波長でパソコンを振動させると、使用している人間の感情を電波に乗せて遠くに運ぶことが出来るらしい。かなり眉唾物の話ではある。
「……どういうことですか?」
やっぱりよく解らない。
「思った通りだ……このゲームをプレイしてから精神に異常を来たし、入院した人間が何人もいる」
「な、なんですか、それ……」
部長は同時になにか調査を行っていたようだ。予想外の展開に、香澄が驚いている。
「『バンダースナッチ』は獲物を探している。電波を探って波長の合う人間を捜し出し、その人間の精神を喰うんだ……精神異常になったんじゃない、彼らは精神をバンダースナッチに吸収されたに違いない」
「マジですか……なんか、アリスっぽくない話になってきましたね、部長」
「ま、この連載も最終回だからな……リルビットシリアス…ってヤツかナ」
そこで話を崩すなよ部長、せっかくシリアスなんだから……。
「最初にバンダースナッチと波長の合った人間がいるはずだ……バンダースナッチ自体はその人間に憑依していると見るべきだろう」
「こりゃ、久しぶりに本格的な事件になったわね……」
香澄が何故か嬉しそうな顔をする。
「……
「はいっ!」
香澄は背筋を伸ばすと部長…いや、
「特殊任務だ。ネットゲーム『ペトロニウス』制作者チーム内部に存在すると思われる、バンダースナッチ
「はっ!承知致しました!」
「バンダースナッチは、本体を退去させれば吸収した精神を解放するはずだ……有川くん、それに陸井くん」
「は、はいっ!」
「……な、なんすか」
部長は眼鏡を直して笑う。いつもいつも形式美というか…
「薬袋くん一人では荷が重いと思われる……手伝ってやってはくれないかネ」
「まじっすか……」
「わかりました! お役に……立てるかどうかは解りませんけど……」
「あ、有川?」
有川は一も二もなく了承してしまった。
「薬袋さんは……お友達ですから」
「真璃子ちゃん……」
「はぁ……しゃあねえ。わかった、やるよ」
「……感謝するよ、二人とも。では、薬袋くんはこれを使ってくれ
そう云うと拳銃を一丁香澄に手渡した。これは以前見たことがある…ガートルードが使っていた弾の出ない拳銃と同じものだ。当然ながら、こちらは人間が開発した物だから、外観は違う。
「それでは、健闘を祈るよ……潜入方法などは、追って作戦部と打ち合わせしてくれたまえ……」
【brigand】
一方その頃、月子さんたちは、というと……。
「うにゃ……おはよ、リナリナ~……どう? 世界征服の調子は~~……」
「ん~~、支持者の数をもう少し増やしたいんだけどぉぉ……」
「おぉ、でも党員数が1500人超えたじゃない! リナリナすごーい……」
と云うようなことを、まだやっているようです……。
「う~ん、そろそろ眠くなってきたから、月子先生に変わってもらおっかなぁ……」
「はいはい、もー2時間は寝たからね、あたしにまっかせなさーい!」
ゲームの中では、彼女たちは『六つの顔を持つ女』と呼ばれているようです。そりゃ、二人でひとつのキャラクターを演じているわけで、当然多重人格ばりなそんなあだ名も付くでしょう。
「う……んっ……あれ……っ………?! 月子…セン……セ……」
「……どーしたのーー?」
「うにゃ……」
「あれ……寝ちゃったか……」
-*-
なんだろう、これは。
どこだろう、ここは。
「り・ら・りゃ・らら・れ・りり………」
何かの声が聞こえる……でも、何の声か解らない。鳥? 獣? どっちでも無さそうな。
「ら・りゃ・りゃら・り・りり・ら………」
あたしは目を開く。その途端、意識が急激に遠くなる。遙か彼方まで、異様な色彩で覆われている。言葉にすることが出来ないほど、醜悪な光景。あまりのひどさに目が霞んでゆく。
「なにっ?! ここどこっ?!」
声を上げてみても返事はない。
メキョッ……
「えっ……?」
メキョッ…パキョッ………
変な音がする、音が近づいてくる、恐ろしくて動くことも出来ない。
「やだっ……なにっ?! なんなのっ?!」
パキョッ……パキックキッ……
「…………ゴクッ」
息を呑む……と同時に、静寂が辺りを支配する。でも違う。何かが居る。
ゴバァ……ッ……!!
「きゃあああああああーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
プラスティックのような地面から、半分溶け出したかの様な上顎が持ち上がり、次にびっしりと並んだ歯が、かみ合わせ、下の歯、下顎……あたしを丸飲みに出来るほどの巨大なワニの口のような物が、大きく開いて私を飲み込もうとする。逃げ出したいけれど、身体は動かない。
「……………………!!」
噛み砕かれる! と思って目を閉じたが、潰される衝撃は訪れず、あたしは恐る恐る目を開く。
「?!」
「よぉ……無事かい?」
そこには、鰐口が閉じない様に押さえ支えている、女性の姿があった。
「あ、あなた……は……?」
綺麗なブルネットの髪が脚の付け根までストレートに伸びて、世界の異常な光を反射して白く優雅にきらめいている。アーモンドのように切れ長で蒼い瞳、全身をつや無しのビニールレザーで固めたその姿。片手で楽々とそのワニのような口を支えると、ゆっくりとあたしに笑いかけた。
「大事なあんたを……こんなヤツに喰わせるわけには……いかないねぇ……ハァッ!!」
ドガァン!
スラリと伸びた脚でおもむろに怪物を蹴り上げる。その音は奇妙なこの世界全体に伝播し、まるで世界の輪郭そのものに痛手を与えるかの如く響き渡った。
「もう一撃ぃ……ッ!」
ドガァン!
「ら! りゃ! りゃら・り・りり!………」
その音が世界に浸透し、ゆっくりと全体が崩れはじめる。呆然とするあたしの顔をなでると、彼女が云う。
「 」
唇が動く、だけど、世界の震動と崩壊の音に声は掻き消され、あたしは夢のように儚い、彼女の唇の動きにただ見入るだけだった……。
「リナリナっ! しっかりしてっ! リナリナっ……!」
「う……うー……んん………」
身体が揺り起こされる。ぼやけてるけど、あれは月子さんの顔……。
「よかった……後もう少し気づくのが遅かったら……バンダースナッチに食べられちゃうところだったぁ……」
聞いたことのない単語を耳に、まだ目覚めない意識で考えた。
……あの女の人は誰だったのだろう……と。
【deeplaid maid】
「メイドさんで潜入?!」
さっきまでのシリアスさがまるで嘘のような、素晴らしい潜入作戦だった。香澄は肩を竦めると、話を続けた。
「ソフト開発メーカーの入ってるビルにある『メイド喫茶』を使おうと思うんだけど……」
「いいけど…普通に侵入とか出来ないわけ……?」
ガックリと肩を落として、俺は香澄に聞いた。
「いわゆる店子の従業員と、そのお客で利用出来るエリアが違うらしいのよ…従業員エリアのIDタグを持っている人間が一人でもいれば、問題はないみたいなんだけど……ただ……」
「ただ……?」
こんどは香澄がガックリと肩を落として一枚の紙を見せた。
「なになに……?『プリティメイド・カフェ』募集要項……?」
「その下その下……」
「え、その下って……身長163cm以上、バスト…83cm以上?!」
俺はあんぐりと口を開けて、香澄を見る。
「香澄ちゃんや………」
「だから香澄ちゃんってゆーなっ!ついでにあたしの胸を哀れみの目で見るなぁぁーっ! 見るな見るな見るなぁぁぁーーーーっ!!」
いや、泣かなくても……ついでに身長も足りなそうだな……と思ったが、云ったら半殺しにされそうなので胸に秘めておこう。
「むきーーー!!!」
ドターンガッシャーン!
ダメだ、俺が何も云わなくても暴れてるわ……。
「ふーん……っていうことは……ですか?」
おもむろに二人の顔がくりん、と有川の方を向く。
「えっ……わ、わたし……ですかぁぁ?!」
性格がメイドである有川は、ついに服装までメイドになることが決定したのであった……。
-*-
「い、いらっしゃいませー……ぇへへ」
「……顔、引きつってるな」
「あ、あんまり……人前で笑ったことなくて……は、はは」
客の振りを装って、有川がバイトに入ったメイド喫茶に香澄と二人で来店する。
「うわ、ものすごい胸のところ開いてるな……」
「陸井くん…は、恥ずかしいからあんまり見ないで……」
「ふっ……これは確かに胸がないとどう頑張っても着れないわね……」
なんか香澄が
「……香澄ちゃん、そこで落ち込むなよ」
「ううっ……ちゃんって云うなぁぁ……」
「と、とりあえず、席にご案内します……」
有川は俺たちを窓際の二人がけの席へと案内してくれた。
「うお、スカートもみじけえなぁ……」
後ろを向いた有川を見てびっくり。お客を見て二度びっくり。
有川は俺の言葉を聞くと、手でお尻の辺りを押さえた。
「すっごいねー……お客がみんな女の子目当ての怪しいヤツばっかだよ……」
「なんか、身売りに近いショウバイですな、香澄ちゃん……」
「あたし審査に通らなくてよかったかも……だからちゃんって云うな」
「ううっ、人ごとだと思って……ひどいですよぉ、何度も変な写真撮られそうになったんだからぁ……」
ま、まさに人の欲望が産み出した様な店だな……。
「ま、取りあえずブレンドふたっつ」
「はい、ブレンド二つですね、少々お待ち下さい」
有川はカウンターに戻っていった。
「さて……どうやって潜入するんだ?」
「まあ、適当になんとかなるんじゃない?」
「……おい」
人が珍しく真顔になって質問すればこれだよ……
「別にどっかの国の軍事施設に侵入、とかそーいう壮大なものでもないんだし」
別に、を『べっつに』と発音すると、テーブルに肘をついて笑った。
「まさか潜入したことあるんじゃあるまいな……」
「あるよ」
ケロッと答えてるよ、おい……。
「香澄ちゃん……何者?」
「……だから、そんなあたしにちゃんって云うな」
「おまたせしましたぁ」
そうこう云っている間に、有川がコーヒーを運んできた。
-*-
「さて……」
「は、はいっ」
ここはメイドカフェの通用口側。有川が休憩時間になったので、三人連れだってやって来た。
「しかし、わざわざ休憩時間になるまで待つ必要はなかったんじゃねーのか?」
「なに云ってるの、真璃子ちゃんだって折角なんだからお給料もらえた方が良いでしょう?」
「えっ、そ、そうかな……?」
「いや……なんっか違うと思うけどな……」
まあ、とりあえず、香澄としては有川の休憩中にコトを片付けてしまう心積もりらしい。
「でも、ここのお店を選んだのは正解かも知れませんね」
そう云って有川がIDタグを見せてくれた。
「他のテナントのタグと違って、全部のフロアに行けるからでしょ? コーヒーを出前するためにね」
「えっ……じゃあ最初からそれが狙いで、メイドさんに化けるつもりだったんですか?」
「当然!」
「ま、その割にはバストが足りなかったけどな……」
「むっきーーー! 云うなーーー!ついでに哀れみの視線であたしを見るなぁぁーーーっ!」
ガッシャーン!
「お、おお、おちついてくださいっ、薬袋さーん!」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
「ま、まあ…早く行こうぜ……」
俺たちは暴れる香澄をなだめると、エレベータに乗り込んだ……。
ゴゥン……チーン。
「……24階」
そこに降り立つと、なにか、今までと同じ建物の中ではない様な、異様な感触がまとわりついていた。
「な、なんか……気味悪くないですか…?」
一応擬装用に、出前用のコーヒーポットを持った有川が、心配そうに声を上げる。
「そうか…? あたしには普通にオフィスビルの中みたいに見えるが……」
香澄は手元の腕時計みたいなヤツをのぞき込む。確か、この間位相スキャナーとか云っていたやつだ。
「ん~、目立って大規模には変動してないなぁ……」
それでも、多少の反応があるらしい。
「バンダースナッチの憑依者が近くに居るなら、それが自然じゃないかな?」
香澄がそう請け負う。そのまま、オフィスの入り口に手を掛ける。
「あたしが開けたら、真璃子ちゃん頼むね」
「あ、は、はいぃっ……」
有川、緊張しすぎ……。
ガチャッ……
「こ、こんにちわー、プリティーメイド・カフェですー…こ、コーヒーのお届けにあがりましたー……ぁ?」
次の瞬間。
──世界は、裏返った。
【candy flood】
世界のヴィジョンは……成長するキャンディーのようだ。
極彩色の水飴が固まりきってしまう前に、可能な限りその腕を伸ばそうとあがく。
見える世界の全てが、キャンディーの海であふれかえっていた。
天に向かって伸びるキャンディーの枝は、志半ばで固まってしまい、樹木の様に静止する。
だが、世界は今海なのだ……固着する地面のない枝葉は、揺らぎ、傾ぎ、折れ、粉々になって海に還る。
繰り返す、何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
けれど、世界が固まることはなかった。
「なっ、ななな、なんですかぁぁっ?!」
「わからねえ……こりゃ全体……」
「まさか、ワンフロア全部……混濁化してるっていうのか……」
極彩色の色合いの中に俺たちは佇んでいた。景色全体が絶え間なく流動し、しかも色がきつすぎる所為で目の焦点が合わず、そのせいで
「これが、バンダースナッチの力なのか……?!」
「そうだ……これは吸収された犠牲者の意識がゲル化したものだ……だが、こんなに大量になんて……こいつ一体何人を犠牲にしたの?!」
眼を痛めつける色合いの向こうに、ゲルに沈むデスクや、開発機材が見える。
「ここのスタッフは全員喰われちまったらしいな……」
「陸井くん……なんだか、わたし……気分が……」
「ああ、これじゃしょうがねえよ……」
これで気が変にならなければ、そっちの方がどうかしてる……。
「ちがうの……なんだか、ねむ……く……」
「だめだ!真璃子ちゃん……寝たら精神を喰われる!」
「なんだと……おい、有川っ!おいっ……!」
「陸井……く……」
有川は手に持っていたコーヒーポットを落とす。中からこぼれたコーヒーがゲルの上に流れ出し、溶け合ってゆく……。
「ありかわっ……おいっ!」
-*-
――そこは夕方の世界。
橋の上を電車が川を渡ってゆく。河原で遊んでいる子供たちが、過ぎ去ってゆく電車の影を追っている。
斜めに伸びた影が、世界の半分を覆い、オレンジ色の光とその陣地の広さを競っている。
……世界の全ての物が、まるで遊びに熱中している子供のようだ。
そして私は、一冊の本を持って立つ。唯の小さな子供に過ぎなかった。
「裏返った世界から裏返ってしまったから、世界は表に戻っちゃったのかな?」
子供の私が河原の土手に立っている。その横に、くたびれたコートを着たおじさんが立っていた。
沈みかけた夕陽が背中から照らしていて、私はおじさんの顔を見ることが出来ない。
「裏返った世界の裏は…表じゃないんだよ。裏の裏さ……」
「じゃあ、表はどこにいっちゃったの?」
おじさんは私の声を聞くと、ゆっくりとしゃがみ込んだ。やっぱり顔が見えない……それは夕陽の所為じゃなくて、おじさんに顔がないんだ、と思った。
「そのご本は、お嬢ちゃんには難しすぎるね……おじちゃんに貸してごらん、お人形さんと変えてあげよう」
そう云っておじさんは、私の持っている本をつかんだ。私には確かにこの本は難しいけれど、それでも私は、何故だかこの本がとても好きだった。すきだったのだ。
「さあ……」
優しい声に反して、おじさんの本を取ろうとする声はどんどんと強くなる。とうとう手が本から手が離れそうになった時、小さい私の眼に一杯の涙が溢れ、私は精一杯の大きな声で叫んでいた。
「アリーーーース!」
その時、本が輝き出すと、ひとりでにページがめくれ始めた……。
-*-
ドゴォン!
「わぁぁぁぁっ……!」
眠り姫になってしまった有川に、俺が一か八かの口付けをすると、突然世界が轟音に包まれた。
驚いて瞬きをすると、そこにはもう有川はいなかった。
「アリス……!」
「良いタイミングだったよ……亮太。それより、これなかなかカワイイコスだね、気に入った」
なぜかアリスは有川と同じ制服を着ている……ピチピチの制服から、胸がこぼれ出しそうに揺れている。
「なんだ、タイミングって……?」
アリスは俺に軽くウィンクをすると、
「こっちの話」
と云った。
「香澄!」
「何よっ…こっちはこっちで忙しいんだからっ!」
香澄は、四方から襲ってくるワニの顎のような口だけの存在を撃ち落とし、俺たちを護ることに必死になっている。
「んなザコ相手にしなくて良いから……」
ドンッ!
「わあっ?!」
ブワッ……!
アリスがウィンチェスターをゲルに突き刺すと、あたかも熱爆弾が雨雲を吹き飛ばすかのように、銃を中心点に一気にゲルが四散した。
「付き合いな。バンダースナッチを憑いてるヤツから引っぺがすんだろ?」
「もうっ! アンタは態度がデカイのよッ……!」
そう云いながらも、香澄はアリスについてゆく。
「こっちだ……」
アリスはどんどんと奥へと進んでゆく。開発室内は機材や衝立で区切られた、まるで迷路かジャングルのような様相を呈していた。
衝立にはツタの様にケーブルが伸び、絡みつき、その中途には実のようにディスプレイやキーボードが実っていた。ハイテク機材で作られたジャングルのようだ……。
「こんなへんな開発環境見たこと無いわ……」
「バッカだなぁ、機材も全部バンダースナッチの影響を受けてんだよ……香澄っちゃん」
「だから、ちゃんっていうな……」
しばらく進んでいくと、壁面に覆われたケーブルに絡まれ、
「……なにこれ」
「こいつが元凶。ラリった
アリスが愉快そうに笑う。
「裏返った世界が好きなら、ずうっとそこにいればいいのさ、この偽善者どもメ! だってさ」
「……その思考にバンダースナッチが喰い
「そう、そしてのめり込んだプレイヤーたちを次々に喰らい尽くして……裏の裏に押し込める……ちょっと覗いたけど、みーんなお子チャマに還って赤とんぼを追い回してたゼ?」
「で、こいつがガキンチョの王様なワケだ……」
「そう云うコトね……さて、香澄……あんたの銃の出番だ」
「……わかった」
香澄は磔男の前に立つと、引く必要のない
「銃は
ガァン!
「 ! !! ! !!!」
男の口が開き、聞こえない声で何事かを訴える。俺たちには聞こえない──叫びは激しさを増し、涙を流し、哀願する……。
「 !!」
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!
男の叫びは無言のままに世界を震動させ、異様だった世界が、ケーブルがゆるみ、ほどけるように、沈静化してゆく。
「俺……は…………」
磔男は現実世界に帰還する。それを見たアリスはちょっと
「寝言は寝て云うモンだよ……ボウヤ」
-*-
「助かったよ……アリス」
事が終わって、香澄は渋々という感じでアリスに礼を言った。
「なにガラじゃないこと云ってんかね、この女は」
アリスはげらげらと笑い、ウィンチェスターを肩に掛けた。
「マリコと友達なんだろう? じゃあ、いいじゃねえか……くっくっく」
「……アリス」
「……さて、アタシは帰るかな」
──そう云うと、アリスは俺の顎に手を掛けた。
【unbind】
「ええっ、みんなで退治しちゃったのぉっ?!」
家に帰ると、月子さんはもうゲームをやめていた。というか、ゲームのサービスが停止になってしまい、再開無期延期になってしまったのだそうだ。
「匂いがするとか云ってたのに、全然ゲームやめる気が無かったんですね、月子さん……」
呆気に取られて香澄が云う。月子さんはそんなことはつゆほども気にせず、まだ悔しがっているようだ。
「折角信者の数が2000人を突破して、次は大統領だったのに~~くやしーー!」
「一体、仮想現実界で世界征服をして、月子さんはどうするつもりだったんだ……?」
「さあ、どうするつもりだったんでしょうねえ……?」
「あれっ、そういえば、リナリナは?」
香澄が聞いた。
「リナリナは、危うくバンダースナッチに食べられちゃうところだったんだよ~」
「えっ、マジで?!」
月子さんはうんうんとうなずく。
「だからお家に帰したよ~。いやでも、危なかったぁ」
どうせゲームに熱中してて気づくのが遅れたんだ……きっと。
「でも……変なのよね……」
「……なにが?」
「あの感じで行くと、リナリナバンダースナッチにぱくっと食べられちゃっててもおかしくなかったと思うんだけど……どうして助かったんだろう……?」
「………………」
そんな怖いことをさらっと云われても……。
「まあ、助かったんだし、いいよね?」
いいのか……?
「ま、バンダースナッチは片づいたし、一件落着よね」
「そうですね……あっ!」
「どうした、有川?」
「……午後のメイド喫茶バイト、サボっちゃいました」
「…………クビだな」
「…………クビだね」
「そ、そんなぁ~~~」
とりあえず、それはそれでエッチな写真も撮られないし…いいんじゃないだろうか。
「なに? メイド喫茶って……」
月子さんが興味津々な顔で訪ねる。
「…………亮太」
香澄が俺に声を掛ける。
「……逃げるか」
俺は有川に声を掛ける。
「……(こくん)」
無言でうなずく有川。
「さらばじゃっ!」
ドドドドドドド……ッ!
「ああっ、逃げたぁぁぁっ!」
これ以上、事態をややこしくして堪るか……!
俺たちは逃げだし、そして、走った。
世界の風を感じる。
世界には、やっぱり銃もあって、でも、キャンディーもあふれている。
裏返った世界の裏は、やっぱり表じゃないと。
「……な?」
「はいっ!」
そう云って、有川も笑った………。
fine.
「Alice No.6」連作集 あややん @AyaYang
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