第二十四話

 まさかと思い、スズランのページを開く。


 スズラン――幸福が訪れる、純潔、謙遜。


 初めて会った日、枯れたバラの代わりに挿してくれた花。あの時彼は自分を見て、自身の過去と重ねて泣いていた。


 しかし、連れ出してくれた理由は別にあるとも言っていた。


 もしも花に冠された言葉がすべて意味を成してあの場に生み出されたならば、それが一体何を示すのか。


 坂を転がり落ちるように、何かが回り出す。


 そんな気がして、胸の奥が熱くなって、どきどきとした。


(なんだ、これ)


 カスミソウ――清らかな心、無邪気、親切、幸福。

 オレンジのユリ――愉快、華麗。

 フリージア――あどけなさ、無邪気、純潔。


 スズランに類似する花言葉を持つものとして挙げられていたものたちだ。


 それだけでは足りず、各ページに手をのばして、さらに類似する花言葉へと、花々を飛び交う蝶のように、高安はページを渡る。


 カランコエ――たくさんの小さな思い出、あなたを守る。

 赤いストック――私を信じて。

 白いバラ――私はあなたにふさわしい、深い尊敬。

 椿――控えめなやさしさ、誇り。

 ひまわり――愛慕、崇拝、あなたを幸せにする、あなたは素晴らしい。

 アンスリウム――恋に悶える心、煩悩……。


 色鮮やかな花々を見ていくうちに、か細く白い植物のことを思い出した。


 斎藤に担がれたときに見た、変な臭いを放つあれは、はたして花であったのか。


 高安には草に白い綿毛がついたようにしか見えず、それだけの情報では調べてもなかなか見つからなかったため、花であるかどうかも怪しかった。


 ページをめくり続け、なんとかそれらしきものが見つかった。


 イヌショウマ――逃げる、自由。


 由来が悪臭により虫も逃げ出すためとあり、これに違いないと確信した。絶滅危惧種であるのに出てきたのも、斎藤だからできたことだと納得できる。


 関連する花として挙げられたのは、ミヤコワスレ――別れ、しばしの慰め。ハマユウ――どこか遠くへ、汚れがない。


(あのお喋りピエロめ)


 熱を持ち始めた目頭を抑えた拍子にページがばらばらと走った。ページ番号など覚えていないから、中途半端に開かれたところから読み進める。


 こんなことをしても無駄かもしれない。無理やり関連付けて、自己満足の幸せなぬるま湯に浸りたいだけかもしれない。


 それでも、意味があったのだと思いたい。そうだと信じたい。


 高安の手が、止まる。


 にじんだ視界に現れたのは、冴える青色と、挑むような蛇の目。


 リンドウ――悲しんでいるあなたが好き、泣いているあなたを愛す、正義、忠実。

 アネモネ――恋の苦しみ、儚い恋、見捨てられた。


 特に白いアネモネが示す言葉は、真実。


 その隣に、病室で投げつけられた、あの愛らしい花が載っていた。


 別名を姫金魚草というその花に与えられたのは、ただ一つの切なる願いだった。



リナリア――この恋に気づいて。



「ゴミを捨ててんじゃねぇよ!」

「ゴミじゃねぇよクソガキ!」


 思い出すたびに笑っていたやりとり。今はその顔が少しだけ赤い。


 個別のページではなく、テーマごとに分けられた章の中にリナリアはあった。リンドウも、アネモネも、同じくくりであった。その章の名前を改めて確認する。


 図鑑の中で最も多くのページを割り当てられたその章のテーマは、表紙を飾るバラの代名詞、「愛」だった。


 あぁ、と堪えきれずに漏れ出た声は会場の喧騒に消えた。


 カーネーション――無垢で深い愛、熱愛。

 ガーベラ――希望、愛情、常に前進。

 シロツメクサ――私を思って、約束。

 アイリス――あなたを愛す、恋のメッセージ。

 マーガレット――心に秘めた愛、恋占い……。


 見覚えのある花もない花もたくさん載っていた。これほどまでに愛をうたう花があったなんて知らなかった。


 目の前にあったというのに、なぜ三年もの間気づかなかったのか。


 自分はただ別れを嘆くだけだったのに、斎藤はずっと、こんなにも激しく雄弁に語りかけていたのだ。


 震えが走った。唇を噛みしめた。

 開いたページにつっぷした。

 きっとすごく、情けない顔をしている。


 だが泣くことは、許されなかった。その理由を問われれば、彼と話した言葉で、すべてを吐露してしまう。死ぬまで泣き続けてしまう。


「なんであんた、泣いてんだ」


 Tシャツと半ズボンを身に着けた子どもが、呆れたように唇を尖らせていた。それは霧のごとく消え去る。


 子どもが座っていたのは空席だった隣の椅子で、そこに、紫の花が二つ。一つはラベンダーであると分かるが、もう一つは初見だった。


 これはいつからあったのか。図鑑に夢中になっていたとはいえ、これほど強く香る花があればすぐに気づくはずである。


 人が近づいた気配もなかった。そもそも歩いて回ったテーブルの中にこれらの花を見た記憶がない。


 だとすれば、一体どこの誰がどうやって、なんのためにこんなことをしたのか。


 細い茎をつまみ上げて、くるくると回してみる。ラベンダーは何度も見たことがあるのに、なぜだろう、不思議な既視感がある。


 旧知の友人と対面したような、どこか温かくて懐かしいものが胸の奥で疼くのだ。


(何もない場所から花を生み出すなんて、誰にできる?)


 高安は慌てて図鑑を開いた。もくじからラベンダーを探し出して、ページを掻き分けた。


 野を埋め尽くしどこまでも続く紫の絨毯が高安を迎えた。その下に、ポンポンのような花の写真。もう一つの紫の花だ。


 ラベンダー――あなたを待っています。

 カッコウアザミ――あなたの返事を待つ。


 あまりにもストレートな問いかけにしばしぽかんとしてしまう。やがてその意味を理解した高安の顔は、花開くようにほころんだ。


「楽しそうですね」


 そう言う本人の顔が赤い。影が落ちたと思ったら、それは青年だった。右手を背に隠しているが、白い花がはみ出している。


「なにか面白いものが?」

「ええ、とってもいいものが」

「それはよかった」


 さらに何か続けようとしたのだが、青年は唇をきゅっと結んで、瞼を下ろした。再び目があった時、こう切り出した。


「晶さんに、今付き合ってる人はいますか?」


 こちらも直球である。高安はかぶりを振った。いつかは来ると思っていたから、動揺はしなかった。むしろ青年のほうが緊張のあまり強張っている。


「じゃあ、あの、今もしそういう人がいなかったら、……僕とつき合ってほしい」


 突然ごめんね、驚いてるよね。でも、真剣なんだ。

 早口に告げる声が上擦っている。


 すごいな、こんな素直に、思いを口にできるなんて。高安には青年が眩しく見えた。


 彼は優しそうだった。実際そうなのだろう。きっと親の言いなりとかそういう問題じゃなくて、心から自分のことを大切にしてくれるだろう。


でも、


「ありがとうございます」


 どうしても明確な言葉に出すのは恥ずかしくて、それだけしか言えなかった。その先の答えを察し、青年はふっと力を抜いた。


「なんで、晶さんが泣くんですか?」


 言われて気づいた。坂道を雨が下るように、一筋の涙が静かに頬を伝っていた。


「だって、嬉しくて」


 余裕のない声で紡がれた言葉は、今の青年にとって矛盾でしかないだろう。手の中でラベンダーが濃く香る。


 空気に溶け込んでいくそれと共に、体を、心を、自分の全てを蝕んでいた糸が剥がれていく気がした。


 指先でそっと拭い、「嬉しいんだ」と高安は繰り返す。そして、まっすぐに青年を見た。 


 愁いを帯びた少女の顔は消え、凛とした気配を纏う一人の人間がそこにいた。小さく縮こまっていた子どもはもういなかった。


 頭を垂れた花が再び天に臨むのを目の当たりにしたように、青年は圧倒された。


「悪いな、こっちは十六歳差なんだ」


 別人かと思うほどに低い声。にやりと笑う唇に引かれた紅が、これほど妖艶に見えたことはない。唖然とする青年の脇をすり抜けて、高安は歩みだす。


「俺みたいな馬鹿はやめとけ。お前くらい良い男なら、ふさわしいお相手なんてすぐ見つかるさ」


 図鑑と本は重ねて椅子の上に残された。白と紫の花が隣に寄り添う。


「じゃあな」


 青年は声をかけることもできず、肩ごしに告げた背中を見送ることしか出来なかった。

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