第十九話

 その顔がなぜ一瞬でもチラついたのか。


 後頭部と背中に回されていた腕が地面に投げ出され、高安はしがみついていた胸からゆっくりと起き上がった。


 自分を抱える体が突然がくがくと揺れ、世界が回ったところまでは覚えている。直接頭を打ったわけではないが、何度も回転したために足元がおぼつかない。


 坂を転がり落ちたと理解したのは、血まみれの斎藤を眼下に捕らえたのとほぼ同時であった。


 広がっていく血の色にぞっとした。ゴミ捨て場で倒れていたときの何倍も、危険な状態だと一目で分かった。自分を守ってこうなったのだ。


 叫んで揺さぶって、ようやく目を開けたかと思えば、自分のことはそっちのけで人の心配をしてきた。動けないから一人で進めと、そう言ってきた。


 頷けるわけもなく、「行け」と言われれば、高安は「行かない」と返した。そんな押し問答を繰り返すうち、斎藤は再び目を閉じていた。


 起きてくれと叫びたいのに、まだ言いたいことが残っているのに、声が出てこなかった。縋りつこうとした体は自らの手で押さえつけた。


 今自分にできることはなんだ? 何のためにここまで来たんだ?


「俺が、必ず助ける」


 自分にしてくれたように、顔にかかった髪を分けてやる。何に対して笑っている? 問う時間さえ惜しく、雨の中を駆け出した。常人にしてみれば駆け足程度の速さであったが、それが精一杯だった。


 走りながら、高安は泣いていた。自分にあの男を担ぐだけの力があったなら。そうでなくても、全力疾走できる体であったなら。


 病院のベッドの上で何度も描いていた、飛んだり跳ねたり、自由に走り回る自分の姿が遠くに見えた気がして、高安はその背中を追った。


 肺を突き刺すような痛みに歯を食いしばる。ぐらぐらと揺れる視界に目を凝らす。何度足を滑らせても立ち上がった。くじけそうになるとポーチを胸に抱いた。


 今どのあたりだろう。一本道だから間違えるはずはないのに、疑いたくなる。すでに走ってなどいない。体はふらふらと右に左に揺れている。


 顎を滴る水を拭ったとき、木々の隙間から見え隠れするものがあった。それが別荘の屋根だと分かり、高安は叫んだ。残る力を振り絞って、声を張り上げた。


 もう歩けなかった。体が言うことを聞いてくれなかった。立ち尽くし、無様に泣き喚いた。


「晶!」


 一年ぶりに生で聞く父の声。飛びつくように抱きしめられた。そっと慈しむように頬を撫でた指が水滴と涙を拭ってくれた。


 それなのに、斎藤と違うというだけで、なんの感慨もなかった。ただ、疲弊しきった体を預ける場所として、父親の胸に倒れ込んだ。


 ひどい娘だ。それをなんとも思わなかった。頭の中は斎藤のことでいっぱいだった。


「あの人を」


 怪我はないかとしきりに尋ねる父親に訴えた。


「お願い」

「もう、大丈夫だからな」

「お願いだから」

「もう、喋るんじゃない」


 車を持ってくるよう命令する声は激しく、自分に語りかける声はとろけるように優しかった。


 歩いてきた道を振り返る。いくつかのカーブを経てたどり着いたために、斎藤の姿はもちろん見えない。直線であったとしても、姿を拝めたかどうか怪しい。


 雨脚がさらに強くなって、打ちつける雨粒が周りの声をかき消していく。


「怪我をしているんだ」


 掠れた喉がひり出したのはただの吐息であった。


「早く助けに行ってくれ」


 枯れるほどに流した涙は雨にまぎれてしまう。


「頼むから、殺さないでくれ」


 心の中で叫んでいるのか実際に口にしているのか、その判別がつかなかった。


(これじゃまるで、小説だ)


 事実は小説より奇なり? 確かに、花咲かピエロと痩せぎすのガキがボロぞうきんみたいになって死にかけているなんてのは、奇怪で奇妙で奇異なことだろうよ。読んでいた本にだってこんなのはなかった。


 病室に積まれた文庫本の、多くは逃走を描いたものであった。


 逃げ出すことのできないベッドの上で読みふけり、活字の中の主人公になりきっては逃走の自由を味わった。


 結末がどうであれ、逃げるということ自体が自由の象徴であるように思えた。


 その中に、理不尽な権力から逃げる主人公を描いたものがあった。彼は自分のため、愛する恋人のために、一年もの間、逃げ続けた。なぜこんなときに、思い出したのだろうか。


「後でまた、会える」


 そうだ、同じなのだ。


 共に逃げようと誓った恋人を置いて一人その場を離れる主人公が、泣きはらした寝顔にかけた言葉は、一字一句同じものであった。


 権力を握っていた人間の失脚によって、逃走劇は幕を閉じる。しかし、主人公がどうなったのかは、誰も知らない。


 生きているのか死んだのか、真相は謎のまま。ほとぼりが冷めた後、恋人は思い出の地を巡りながら主人公を探す旅に出る。


 電車に飛び乗る後ろ姿が、小説のラストだ。その旅の先に物語の本当の結末があるのだと高安は思う。


 主人公が残した言葉はきっと、恋人が会いに来てくれると確信していたからこそのものだ。


 そうでなければ、今生の別れかもしれない場面であんな台詞は出てこない。彼らは三年もの間愛を育み、お互いに相手と添い遂げようと考えていた仲だった。


 きっと恋人は主人公を探し出す。主人公も、何年だって待ち続ける。再会した二人はより深い絆で結ばれ、同じ歩幅で、その後を生きていくのだろう。


 自分と斎藤が出会ったのは、たったの数週間前。一緒に過ごした時間は全て合わせても一日に満たない。それなのに、彼らと境遇を重ねている自分がいる。


 あの日から、彼らが過ごした月日と同じだけの時が過ぎた。


 二人が共に生きたように自分たちもできたらと、星の数ほどに思い浮かべた。あのホテルのベッドで見たように、夢にも現れた。


 だけど、目覚めた世界にいるのは自分だけだった。


(滑稽な話だよなぁ)


 紅の引かれた唇を湾曲させる。


 待ち続ける者と、探しに行く者。はたして主人公は自分と斎藤のどちらだろうか。高安はもう何百回と捲った本の表紙を爪の先でなぞった。


 十本ある指の先は全て、可愛らしいピンク色のマニキュアとストーンで飾り付けられている。足の指も同じ色で塗られ、ヒールの先端で存在を誇示していた。


「晶さん」


 顔を上げれば、そこに広がっているのは、色とりどりの花で飾られた空間だった。

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