第十八話

 夢を見ていた。現実でないとすぐに分かった。


 そこにはピエロと自分だけがいた。幸せな夢だった。


「すぐに戻るからな」とピエロが言って、目を開けると、扉が閉められた。そこは夢ではなくて、現実だった。


 ぼんやりと天井を見つめながら、夢の出来事と、その続きを想像した。何もかもが幸せだった。二人とも、笑っていた。


 斎藤にはこれからも、笑っていて欲しい。これ以上迷惑は掛けたくない。自分のせいで辛い思いをしてほしくない。


 高安は受付で電話を借りた。ありがたいことに、特に理由も聞かれなかった。言ったとしても信じないだろう。


 部屋に戻って、斎藤が帰ってきても入れないように鍵をかけた。電話の相手を知られたくなかったのだ。


 覚えてはいたが、今まで使ったことのなかった番号を、ゆっくりと押していった。


 通じてほしい。通じてほしくない。両極の気持ちに揺れる。電話は、繋がった。


「……父さん?」

「晶か!」


 受話器の向こうで喜びと驚きに打ち震える父親の声がした。


「無事なのか? 無事なんだな! お前が誘拐されたと聞いて、病院に飛んできたんだ! 今から警察に連絡するからな、もう大丈夫だぞ!」


 まだ警察に知られていなかったのか。だとすれば、斎藤は嘘を言っていたことになる。そして、彼はまだ警察に追われていないということにもなる。


「聞いて、これは誘拐じゃない」

「何を言っているんだ」

「私が、頼んだの」

「なに?」


 これから先の交渉は、一人称を変えたほうがスムーズに進む。高く上げた自分の声に強烈な違和感を抱くも、父親の動揺に手ごたえを感じた。


「私が無理を言って、外に出してほしいって、頼んだの」

「なぜそんなことを」

「ちょっとした、気の迷い」

「あの男か、あの男に言わされているのか!」

「違うよ、これが真実なんだ! お願い、私の話を聞いて」


 鼻声で告げれば、しぶしぶながらも先を促してくる。


「今回のことは全て、私が頼んだことなの。あの人は優しいから、私の言う通りに動いてくれただけなの。だからお願い、どうかあの人を責めないで。警察になんて渡さないで」

「それは無理だ。あの男は警察に引き渡す」

「その時は、私も一緒」

「そうはさせない。あの男は犯罪者で、お前は被害者なんだ」

「違う!」

「違うものか、お前の声は震えているじゃないか。きっと話しているのも辛いんだろう? このままでは衰弱して死んでしまうんだぞ!」


 そんなことは、病院を出る前から知っている。いっそのこと死んでしまえば楽になれると考えたときもあった。だが、それでは斎藤が本当に犯罪者になってしまう。


 悪魔に魂を売って願いを叶えた人間の気持ちが今なら分かる。何に代えてでも得たいもののためになら、なんだってできる。


「私は、父さんのところに戻るよ」

「なに?」

「病院にはちゃんと戻る。喋り方を変えろっていうなら、ちゃんと変える。服装も髪型も、なにもかも、父さんの望んだ女の子になる」

「本気で言っているのか?」


 今まで拒み続けてきたのだ。信じられないのも無理はない。


「そのかわり、あの人のことは忘れて。私も、今までの自分を忘れて、父さんの娘として、ちゃんとした女の子として、生きていくから」


 口に出したことを想像しただけで、頭がおかしくなりそうだった。胃のあたりが気持ち悪くなって、高安は前のめりになる。立っていることができなくて床に尻をついた。


「それが父さんの、望みでしょ?」


 自分の娘が男の子のような服を着て荒い言葉を使うのを、なにより悲観しているのが父親であった。


 その娘本人が、自分の意向に従うと申し出ている。受け入れようと言っている。本当はすぐにでも了承したいだろう。


 ただし、その代償に戸惑っている。


「優しさから、なんて理由は、警察に通用しない」

「通報しなければいい」

「あの男はお前を殺すかもしれない!」

「あの人が私を殺すつもりだったら、とっくに殺されてる! わざわざ食べ物を与えたり、ベッドに寝かせて休ませたりなんてしない」

「しかしだな」

「じゃあ、こうしない?」


 渋る父親に高安は持ちかけた。簡単に承諾してくれないことは予想できていた。これはそのために用意した策であり、賭けでもあった。


「父さんが来いっていう場所に、私が行く。もちろん、あの人も一緒に。私が生きて父さんに会えたなら、あの人が本当にただの優しさから私を連れ出したと認めて、そのまま逃がしてほしい」

「馬鹿なことを言うんじゃない」

「私はこれしか、あの人が悪人じゃないって証明する方法も、約束を守るために父さんのところへ帰る方法も、思いつかないよ」


 それに、時間はあまり残っていないの。


 か細い声の後、盛大に咳き込んで体調を訴えた。事実、高安はこれ以外の方法を思いつかなかった。


 もっといい案はあるのだろうが、これでも栄養不足の脳みそをフル稼働させたのだ。


「本当だね?」


 一層低くなった声が言う。


「お前の言う通りにすれば、お前は私のもとへ戻り、きちんと生きてくれるんだね?」


 最後通牒、という言葉を思い出した。使い方が合っているかは分からないが、今の絶望感を言い表すにはお似合いの言葉だと思えた。


「約束する」


 自分の声が、別人のものに聞こえた。


 指定されたのは何度か行ったことのある別荘だった。人気のない安全な場所だけ理由づければ、斎藤は車を出してくれるだろう。地名は覚えていたし、現地まで行けば案内ができる。


「本当に、約束してくれるんだね?」

「父さんこそ」

「可愛い娘の頼みだ」


 電話口の向こうで怒り狂っているのか、はたまたほくそ笑んでいるのか。判断する前に電話は切られた。


 ゆっくりと、毒を抜くように慎重に息をした。しかし吐き気を抑えることができず、トイレに走った。


 すべて吐き出しても震えが止まらなかった。全身の血が抜けたように寒かった。


 これでいいんだ。これで斎藤は自分から解放される。父親が必ず約束を守る保証はないが、自分が担保だ。彼が捕まったなら、見せしめにどうしてくれようか。


 もっと早く行動すべきだったが、斎藤が一緒では無理な話だ。


(絶対止めるだろうから)


 苦笑した。でも、これくらい自惚れたって、いいじゃないか。


 冷水で洗ってもひどい顔だったが、鏡に映った自分の姿を見て少しほっとした。今はまだ、自分のままでいる。


(ただの優しさ、か)


 本当にそれだけか? 聞きたいが、聞けない。決心が揺らいでしまいそうで、怖かった。


 時間を空けてもう一度スポーツドリンクとゼリーを胃に入れた。拒食は随分と大人しくなった。


 きっかけはピエロで、そいつともうすぐ、お別れだ。何と言って別れたらいいのだろうか。


 それを考えるとぼろぼろと涙が溢れてきて、高安は思考を放棄した。


 受付に電話を返しに行くと、男はあれこれとぶしつけな質問を投げかけてきた。理由を聞いて思わず顔に出た。


「俺、男です」


 憂さ晴らしに言ってみると、男は面白いほど慌てた。

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