第十七話
雨の音がする。しばらくの間、背中が地面を捉えたと気づけなかった。ヘルメットを被ってくればよかったと、朦朧とする意識の中で斎藤は考える。
車に撥ねられて一日も経たないうちに、今度は坂のてっぺんから転げ落ちるなんて。別なところで運を使ったから、怪我に関しては不運になっているのかもしれない。
「おい、おい!」
揺すられているのだが、目が開かない。雨粒が降りかかる感覚はかろうじてある。仰向けで地面に転がっているのだろう。重みがないのはきっと、高安が無事立ち上がったからだ。そういえば、声は体の横から聞こえてくる。
「死んでないよな? おい、死んでないよな!」
できたかどうか分からないが口角を上げてみる。
「生きてるな、生きてんだよな!」
低かった声は、ホテルで聞いたあの、高いものに変わっていた。綺麗な声なのに、悲痛に濁っているのが残念でならない。
胸のあたりが熱い。痛いというより、ただ熱かった。瞼をこじ開ければ、高安の顔が目の前にあった。
「おい、大丈夫か」
「とりあえず、まだ生きてる」
「起きられるか?」
「それは、難しいな」
視線を上げると、そこそこ傾斜のある長い坂道があった。
転がっていたときの記憶は曖昧だ。怖いと思う前に体が動いていた。ただ高安を守らなくてはいけないと、そのことだけしか考えられなかった。見たところ外傷はないが、念のため。
「怪我、ないか?」
「ないよ!」
それだけ叫ぶ元気があるなら、大丈夫だ。
「お前はこのまま、まっすぐ進むんだ」
「何言ってんだよ」
「別荘、だっけか。そこに誰か、いるはずだ」
「あんたも一緒だ」
「俺ぁ、動けない」
体に力が入らない。もしかすると腕か足が折れているのかもしれない。そういえば、何度か嫌な音がした気がする。だがこれが、高安が無傷であることの代価なら、安いものだ。
「早く、行けよ」
指先の感覚がない。嫌だと腕にしがみつく手を引きはがすこともできない。
「行くんだ」
斎藤はただ、言い続けるしかない。
「行ってくれ」
「嫌だ」
「行けよ」
「嫌だ」
「行け」
「嫌だよ」
「後でまた、会える」
「おい、おい!」
いっそ自分が死んだのならば、高安は諦めて歩き出してくれるだろうか。そんなことを思っていると、次第に瞼が重くなって、閉じてしまった。
暗闇の中に引きずり込まれる中、高安が言った。
「俺が、必ず助ける」
その声はまるで子守唄のように、斎藤の意識を奪った。
一日に何度も気を失うなんて、この先の人生ではもうないだろう。というのが、目を覚ました斎藤が二番目に考えたことであった。
自分を取り囲むのは黒服の男ばかりで、高安の姿はなかった。寝ころんでいるのは目を閉じる前と同じ坂の下であるから、彼らが自らやって来たということになる。
この光景を開眼してすぐ見たものだから、一番目に考えたのは、高安は無事保護されたのだろうということであった。
こんな山奥に強面の男を大勢引き連れて来る人間に、心当たりは、一人しかいなかった。
「旦那様、起きました」
「そうか」
電話越しに聴いた声。現れたのは、六十代とおぼしき男だった。
「私が、晶の父親だ」
「あの子は」
父親の目が泳ぐ。眉間に皺を寄せ、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「おい、無事なのか?」
「おかげさまでな」
今にも殴りかかってきそうだが、父親は踏みとどまっている。相変わらず体は動かない。雨は止んでいたが、雲に覆われた空は遠かった。
「約束を、覚えているな?」
「お前に言われずとも、あの子は医者に診せるつもりだった。診断次第では適切な処置を受けさせる。そうでなければ、体を治すことだけに専念させるまでだ」
「もう一つ」
「あの子を受け入れろと?」
馬鹿馬鹿しいと歯ぎしりする父親の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「自分の子どもを受け入れない親など、この世にいるか!」
「俺の親は、そうだった」
「私は違う!」
「そう、願うよ」
斎藤は咳き込んで、ひゅうと喉を鳴らした。
「あの子の自由を、約束して、くれるんだよな?」
「ああ、約束しよう、あの子のしたいようにやらせてやるとも」
嘘を言っているようには見えなかった。警察はどこにいるんだと、ほとんど息だけで尋ねると、黒服の男がそれを聞き取って父親に伝えた。
「あの子の頼みで、お前は警察に引き渡さないことにした」
忌々しげに斎藤を睨めつけて、「ただし」
「お前を病院に運ぶことまでは約束していない」
「このまま、放置か?」
「不服か?」
「いいや」
さびの味がする唾を飲み込む。感覚の戻らない左手を、確かめるように握った。斎藤は自分の体が急激に重くなっていくのを感じた。地の底に引っ張られるような、それでいて空に引き上げられるような、不思議な感覚だ。
「最後に一つだけ聞かせろ」
「なんだ?」
「なぜ娘に手を貸した。あの子とお前は何の関係もないはずだ。金が目当てでないのなら、なぜこんなことをした」
やはり親としてこれだけは知っておきたかったようで、自らの耳で聞き届けようと、膝を折り顔を寄せてきた。
「なんでって、そりゃあ」
確かにこれははっきりと言わねばなるまい。
斎藤は言葉を発することに全神経を注いだ。
「惚れた女に泣いて頼まれちゃ、断れねぇだろ?」
そしてにやりと、してやった。
「ふざけるな!」
頭部に衝撃が走る。多分、蹴られた。
「真面目に答えんか!」
「大真面目だ」
「よくも、よくも娘を汚したなっ!」
「だから、手は出してない」
抱きしめはしたが、それは数に入らないだろうと勝手に決めつけておく。父親が知ればもう二度、三度は蹴られるだろう。
「言葉を、贈っただけさ」
「まだ十歳の子どもを口説いたと?」
「どれも、これも、口に出しちゃいねぇよ」
そんなことをすれば、たちまちに霧散して消えてしまう。
「恋文でも書いたか」
「そんなもん、趣味じゃねぇ」
紙に残したところで、なんの面白味もない。
「どういうことだ」
「手品師は、タネを、明かさないんだよ」
ばーか、と唇の動きだけで告げる。だけど、一番馬鹿なのは自分かもしれなかった。
あの子にとっての自分が何者であるか知らないくせに、いつか気づいてくれると信じきっている。送り続けてきた「言葉」が届いたとき、高安はどんな反応をするのだろうか。
仏頂面をさらにしかめるだろうか。
真っ赤になって沸騰するだろうか。
それとも泣いてしまうのか。
願わくば、笑って頷いてほしい。
「ははっ」
握っていた拳をほどく。鮮血と見紛う、幾重にも巻かれたビロードの花。
「綺麗、か」
目が眩むほど艶やかな赤色が、斎藤の最期の記憶だった。
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