第十六話
「今どのあたりか分かるか?」
高安は首を横に振る。
「そうか」
ざく、ざくと、泥の跳ねた白線を踏みしめて行く。激痛に歯を食いしばる。時折漏れる呻きに、高安の手が背中をさすってくれる。
やけに暗いと天を仰げば、枝々の隙間から黒雲が見下ろしてきた。
「髪、結構長いよな」
首にかかる髪を梳く。
「うっとうしくないのか?」
「切らせて、くれねぇんだ」
「長い方が女の子っぽいから?」
「分かってるなら、聞くな」
短く刈った襟足の感触が面白いのか、高安は先ほどから弄んでいる。くすぐったい。でも、すぐに離れてしまったのが名残惜しい。
「お前なら、短くてもきっと似合うよ」
「だと、いいんだが」
ぽつ、と冷たいものが頬に当たった。
「雨、降ってきたな」
「そうだな」
徐々に勢いを増す雨粒に目を擦ると、高安も同じことをしていて、どちらからともなく笑った。
道路はあっという間に黒くなり、水を吸った服が体温を奪っていく。寒いのだろう、回された腕に力が入る。早朝の冷え込みは初夏と思えぬほど厳しい。山中であれば尚更だ。
斎藤は前屈みになり背を丸めた。抱きかかえる体勢でよかった。おぶっていたら高安ばかりが雨に打たれていた。
「重く、ねぇか?」
「砂袋に比べたら、いや、比べなくても軽いから、安心しろ」
「なんで、砂袋?」
「ちょっと前に、道路とか建設現場で、バイトしてた。そん時、ちょくちょく担いでた」
「色が黒いのは、そういうことか」
細く青白い首筋に、ごつごつした男の手が重なると、余計に肌の色が際立って見えた。
「仕事はきつかったけど、おかげでお前を抱えても、平気でいられる」
がくがくと笑う膝を叱咤して、斎藤は快活に言う。
「ピエロのメイクは、もしかして、色白になりたかったのか?」
「んなわけ、あるかよ」
「だよな」
喉の奥でくつくつと、笑うように高安は咳き込む。
その振動でさえ骨に響いて、斎藤は見えないように顔を歪めた。しずく滴る中、途切れ途切れの会話は続く。
「看護師たちは、あんたのことを嫌ってた」
「それ、今言うことか?」
「なんか理由が、あるんだろ?」
「まぁ、あるには、ある」
「聞かせろよ」
ぐいぐいと首を絞めるように腕を使われ、触れる程度にタップして白状した。
「母さんが看護師をやってたとき、同じ職場で働いてた人が、今の小児科の、偉い人」
「コネってやつか」
「せめてツテと言いなさい、ツテと」
どう違うのか分からなかったのか、高安は首を傾げた。
「不倫?」
「おいおい、せっかくオブラートに、包んだのによ」
変なところで聡い子どもである。
実際に不倫をしていたのか、ただの友人だったのかは分からないが、その男が父親のいないときだけ家に来ていたことは覚えている。もしかすると彼は、母親にとっての逃げ口であったのかもしれない。
「看護師たちは、どっかで噂を聞いて、知ったんだと思う。それで、俺がそれをネタにゆすって、承諾させたってね」
「そうなのか?」
「俺はただ、ボランティア募集の広告見つけて、応募しただけ」
事実、顔を合わせるまで男のことを忘れていた。自分のことを思い出したうえで病院に招いてくれたなら、それはまだ母親を想っていることにも等しい。
因果なことだ、母親のことがなければ自分たちは出会うこともなかったのだから。
道は上り坂に差し掛かり、濡れた足元に気をつけて歩を進めていく。
「花は、どうやって出してたんだ?」
「それを聞いたら、面白くないって、言ったろ?」
「教えてくれよ」
どうせ、これで最後だ。そう、吹き込まれるように囁かれた。
(なんで、そんなことを言う)
しかし、事実高安を送り届ければ、父親が約束を違えない限り、その後二人が会うことは、確かにもうないのだろう。
そう思うと、折れた骨とは別に、胸が軋んだ。
「こっち、向いて」
掌を高安の前に差し出して、瞬きを禁じた。
「よく見てろよ」
高安がどんな顔をしているのか、見ようと思えばできるのだが、することはなかった。
「……見たか?」
「ああ、見た」
「そういうことだ」
「今の、なんだ?」
たった今斎藤の掌から生み出された白いアネモネは、高安の手の中にある。
驚くのも無理はない。この大きな花を隠す場所など、どこにもなかった。にもかかわらず、何の前触れもなく蛇の目を模したような花が現れたのだ。
「世の中には、理解できないことも、あるもんだ」
母親はこの、自分に理解できない現象を我が子が起こしているという事実を、受け入れられなかった。父親は驚きはしたが、幸いにもそれだけであった。
手品と言ってしまえばそれで片がつくが、トリックなど何もない。解読不可能な現象を操る人間を、フィクションの世界であればかっこよく能力者とでも称しただろう。
三次元ではそれを「化け物」と呼ぶ。悲しいことに、攻撃的な力でなくとも、常人は自分たちと違うというだけで、それを忌み嫌い遠ざけ排除しようとする。
呪いにも等しいこの能力は斎藤の心を殺していった。誰にも打ち明けることのできない孤独に耐え切れず、包丁を手首に当てたこともある。あの日母親の手から届かなかった刃だ、なんて言ったら不謹慎だろうか。
父親を愛するが故に、自分を殺さなかったのだろう。それが母親としての彼女の矜持だった。
代わりに暴力という手段を選んだ。他者に慰みを求めた。それは彼女にとっての薬だった。
そして、父親にとっての毒であった。両者の死によって劇薬と化したそれは、今も斎藤を犯し続けている。
人間不信から社会に溶け込めず、仕事を転々する生活を送らせる程度には持続性があるのだから、たちが悪い。
こんなものでも生かすことができたなら、少しは自信に変わるかもしれない。そんな思いで始めたのが、手品師のピエロだった。そうすることで自分自身を受け入れようとしたのだ。
しかし、ピエロが自分だと知られるのはどうしても避けたかった。
怖かったのだ。手品を披露するピエロとしてでなく、一人の人間として見られた時、拒まれることがどうしようもなく恐ろしかった。
ピエロのメイクも衣装も、斎藤という人間の存在を守る盾だった。
「ご感想は?」
それを聞くことが怖いくせに、斎藤は問う。
微笑する気配。
「すごい」
吐息が、肩口にかかる。
「綺麗だ」
「そう、思うか?」
「それ以外に、何があんだよ」
「そうか」
喉を締め上げられたように、それ以上の言葉が出なかった。
震えが足の先から伝わって、脳を揺さぶられるような感覚に眩暈がした。
「どうした?」
突然立ち止まった斎藤の頬を伝うものが、一筋、二筋と増えていった。
「なんで、泣いてんだ」
「違う」
小さな体を抱きしめる腕や手や指先に、力が籠る。
「ただの雨だよ」
がしがしと濡れた髪を掻きまわしてやると、弱弱しい悲鳴と共に毒づかれた。
再び動き出した斎藤は、息をするように花を生み出していった。
「この花は、なんだ?」
ほとんどは地面に落ちていったが、時々高安が掴んでは聞く。そのたびに花の名前を教えてやる。
カーネーション、
ガーベラ、
シロツメクサ、
アイリス、
マーガレット……。
高安はそれらを、宝物を扱うように、ポーチの中へ入れていく。
取り零された花は、暗色の景色に鮮やかな道を作っていった。足跡みたいだと、高安は言った。そうかもなと、斎藤は返した。
坂はより急になり、雨はいくつもの流れとなって下っていく。
二人の軌跡をもみ消すように、あるいは何かから庇うように、水流は花の道を飲み込み取り込んでしまう。斎藤は花を生み出し続ける。
「おい、見ろよ」
登り切った坂の上、雨のベールの向こうに見えたのは、小さな町であった。
「あそこか?」
「ああ、あそこだ」
(目的地は目の前だ)
その実感が沸くと同時に芽生えたのは、浅ましい激情であった。
どうせ、これで最後だ。
息遣いと共に蘇った声に、唇を噛みしめた。
「どうした?」
「馬鹿だよな」
「は?」
(その言葉を現実のものにしたくない、なんて)
斎藤は雨に晒されて冷たくなった体をさらに強く抱きしめた。脈打つ鼓動や震えが濡れた服越しに伝わってきて、なんともいえない切なさに喘いだ。
霞む視界の中で、目の前のものがすべて幻覚であったなら、引き返す勇気が自分にあったならばと、ありえもしないことばかりが、閉ざした瞼の裏に映し出される。
父親に見つからないよう町に入り、車を奪って、どこかの病院に侵入して、点滴を盗み、あのホテルに戻って、ゆっくり休んで、元気になった二人で、いつまでも一緒に生きていこう、なんて。
「なあ、どうしたんだ?」
心配そうな声が、斎藤を現実に引き戻した。描いていた、都合のいい未来の絵が、ぼろぼろと崩れて流されていく。
振り返って追うことはしなかった。いつの間にか、ハマユウの白い花が落ちていた。ヒガンバナと似た長い花弁を地に投げ出して、雨に打たれていた。
(馬鹿だよな)
鉄の味を飲み込む。もう、立ち尽くしている時間はない。
「行こう」
と、声が、出なかった。
激痛が骨を伝って全身を駆け巡った。
冷えていた体が、一瞬で燃えるような熱に侵される。
目の前の風景が歪んでいく。
前のめりに倒れているということだけは分かった。
斎藤にできたのは、高安を抱え込んで丸くなることだけだった。
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