第二十話

主催者の息子が自分の娘に手を差し伸べるのを、父親はじっと見つめていた。


娘が年上の男と並ぶたびに思い出すのは、三年前の誘拐事件のことである。当時入院していた病院から看護師の目を盗んで攫われた娘は、たった一日で別人のように従順な女の子になって帰ってきた。


二人目の妻が連れてきたその娘は、はじめ口数の少ないボーイッシュなスタイルの子どもであった。上の娘たちの母親は、もうこの世にいない。病死であった。彼女はあまり強い身体を持っていなかった。


身内は皆新しく妻を娶ることを勧めてくれた。悲しみはまだ拭えていなかったが、娘たちのことを考えると、新しい母親は必要に思えた。代用品としてではなく、数年の恋愛を経て迎えた今の妻についてきたのが、晶であった。彼女もまた体が強くなかった。


晶の母親が人見知りと表現した彼女の性格は一緒に住み始めてから棘を持つようになり、それは言動に現れていった。自分が本当の肉親でないが故の反応なのだと父親は解釈した。この理由以外に思い当たる節がなかった。


荒っぽい言葉遣い。女の子らしからぬ服装。妻も娘たちも特に気にしなかったが、父親には耐えられなかった。


親の素行が悪く周囲の視線と評価に苦しめられた子供時代の経験から、自分はそんな親にはなるまいと、また子どもにもそうなってほしくないと強く願っていた。今の生活を手に入れるにはそれなりの苦労があったし、失ったものも多かった。


子どもたちにはそれぞれしかるべき相手と結婚させて、幸せな家庭と生涯を築かせたい。それは三人の娘全員に対しての切実な願いであった。そのためにはきちんとした教養が必要不可欠であるというのが、父親の経験上の持論であった。


だからこそ父親は晶のおかしな言葉遣いを何度も戒めた。格好を正してもらおうと女の子らしい服を贈り、着るように言って聞かせた。自身の父親がしたような怒鳴りつける方法は嫌悪していたから、決して使わなかった。


他の二人と平等に扱っているつもりが、本人はそう思っていないのかもしれないと、事あるごとに声をかけ、愛情を示そうと躍起になった。だが、溝は深まるばかりだった。


家族になってから何年も経ったある日、晶が食事を吐いた。医師に診せようとしたが、ただの体調不良と言われ、ひとまず様子を見ることにした。だが一週間経っても快方から遠ざかるばかりで、病院に連れていった。


医師の診断は拒食症だった。そもそもが痩せているというのに、さらに細くなってしまうのか。痛々しいほどに骨の浮いた姿を想像して、涙がこみ上げた。


入院の手続きをするため父親だけが残り、病気について詳しく尋ねていると、ふいに医師が「お子さんが強いストレスを感じている、ということはありませんか?」と言う。


拒食症はストレスによって引き起こされることもあると医師は告げ、晶の性格や行動、生活スタイルなどに大きな変化はなかったか、改めて質問した。父親は、思い当たることはないと答えた。


このとき、常日頃の悩みのタネである晶の言動や服装について、愚痴をこぼすつもりで相談した。


「家庭の事情もありますし、年頃の子どもは言葉遣いが荒れますから」


高校生と中学生の子どもがいるというその医師は、さらにこう続けた。


「あんまりにもひどいと性同一性障害を疑う方もいますけど、そんなことはめったにありませんねぇ」

「性同一性障害?」


それはどういったものなのか、医師に説明を頼んだ。そして、聞けば聞くほどに、父親の表情は険しくなっていった。


受け入れられないことに耐えきれず、自殺してしまう者もいるとか、海外では子どもが幼いうちに性転換手術をする親もいるとか、そんな話は耳に入ってこなかった。


父親の頭の中で、一つの仮説が組み上がっていた。


晶が性同一性障害、もしくはそうでなくとも、女でいることに対して何らかの拒絶意識があるとして、そんな自分を受け入れてもらえないことにストレスを感じているとしたら。それが原因で拒食症に発展したとしたら。


ここまで考えたというのに、父親はありのままの娘を受け入れることができなかった。


拒食症を乗り越えたとしても、今のまま成長すればいずれ好奇の目にさらされる。ちゃんとした服を着こなし、ちゃんとした言葉遣いで話せる娘にしなくてはいけない。そうしなくては、彼女を幸せにはできない。


父親はこの一念に憑りつかれた。


性同一性障害であるならば、しかるべき医師のもとに通わせて矯正しなくてはいけない。仮に問題ないと診断されても、なにかしら対処することを心に決めた。


まずは健康な体に戻すべきだ。父親は大学病院の心療内科から看護師を雇って、娘の専属にさせた。静かに療養できるようにと個室も用意させた。


自分が持っている人脈と金を駆使して、できる限りのことはやったつもりだった。入院中だけはストレスを与えまい、何も言うまいと、病室を訪ねることはしなかった。刺激を与えないよう、妻たちの見舞いも禁じた。しかし娘の態度も病状も悪化する一方であった。


そして朗報のないまま一年が過ぎた。娘はますます痩せて骨と皮ばかりになってしまった。このままではいけないと次の策を練っていたとき、片桐から報告を受けた。娘の症状に改善の兆しがあると、そういう内容だった。


拒食から脱するということは、心境に何か変化があったのだろう。自分がどうあるべきか、その答えにようやく気づいたに違いない。さっそく手紙を書いた。大学病院の手配もした。ようやく自分の思いが通じたのだと、心の底から喜んだ。


娘が誘拐されたのは、手紙を送った翌日であった。


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