第十四話
高速道路の入口まで警察に呼び止められることはなく、無人料金所の監視カメラに見られた以外、子どもを乗せたバイクが注目されることもなかった。
深夜の高速道路は、昼間と打って変わってがらんとしている。バイクのエンジン音ばかりがぬばたまの夜に響く。
高安が途中で眠ってしまったら片手で運転してでも支えようと考えていたが、ベルトを握る手は固く、緩む気配はなかった。
しかし時間が経つにつれて、高安の息は荒くなっていった。斎藤はゆっくりと変化する呼吸になかなか気づくことができず、サービスエリアに立ち寄ってようやく知った。
「きついならちゃんと言えっての」
ヘルメットをつつくと、吐きそうだと青い顔で言われた。慌てて障がい者用トイレに連れ込み、間一髪服に吐くことは免れた。
背中をさすりながらちらりと便器の中を見る。吐いたものはさほどの量もなく、ほとんどが液体であった。
「お前、なんか飲んだのか?」
「スポドリを半分くらい。あと、ゼリーも少しだけ」
透明のものをペッと吐き出して、高安はふう、と力みを解いた。
「食べたのか」
「少しだけな」
「すごいじゃないか」
「はいはい」
なぜか難しい顔をして、すたすたと口をゆすぎに行く。どうにも斎藤の知っている嘔吐とは様子が違った。自分の吐きやすい体勢や呼吸法を心得て、楽に胃の中身を出している印象を受けた。
「吐き慣れてるのか」
案の定肯定の返事が戻ってきた。
「何度も吐いてれば、分かる」
「そんなもん、分かりたくないよな」
「だよな」
サービスエリアという名前ではあるがガソリンスタンドもコンビニもない。小規模な駐車場と高速道路の案内板とベンチと自動販売機が一つずつしかない殺風景な場所だった。唯一停まっていたトラックも、トイレから出た時にはいなくなっていた。
じくじくと疼くわき腹を庇いながら、斎藤はベンチに座った。襟元から中を覗くと、そこは赤黒く腫れているように見えた。
「痛むのか?」
「そこそこ痛い」
折れているなんて言ったら高安はバイクに乗ってくれないかもしれない。何か買うかと持ちかけると、水が欲しいと言う。
「自分で行く」
立ち上がろうとする斎藤を制して小銭を受け取り、高安はポーチをぱこぱこさせて自動販売機に向かう。
背伸びをしてボタンを押す姿に、十歳の少女が本来持つべきあどけなさはなかった。それが高安なのだ、高安らしいのだとしみじみ思った。
「吐いた後って喉が気持ち悪いんだ」
斎藤の隣に座り、ばつが悪そうな顔をする。
「確かにそうだな」
「吐いたことあんのか?」
「誰だって一度はあるさ」
「ふぅん」
高安は口の中をゆすぐように水を含んで転がして、ゆっくりと嚥下した。
「あんたは、いつ吐いたんだ?」
「俺か?」
手の甲の傷を確認していた斎藤を、好奇心たっぷりな目が見上げる。
「そうだなぁ」
今度は血のにじんだ腕をじっくりと眺める。視線がそれを追う。
「昔、入院してた時」
「どっか悪かったのか?」
「ここが、ちょっとな」
言いながら、拳を胸に当てる。
「心臓?」
「いや、心のほう」
高安が身を乗り出すも、視線は合わない。真っ暗な駐車場にはワゴン車以外に何もないのに、斎藤はじっと、何かを見据えている。
「家族は死んだって言ったろ? あれ、俺のせいなんだ」
突然の告白に高安の表情が固まる。
「母さんは俺のことをどうしても受け入れてくれなかった。父さんは、そんな母さんに離婚を迫った。俺と一緒に家を出て行くってな。そしたら母さんは、父さんを包丁で刺して殺した。そのあと、一人息子の目の前で、ベランダから飛び降りて自殺した。俺はショックのあまり精神を病んで、病院に放り込まれたってわけだ」
胸のあたりがずきりとして、斎藤は奥歯を噛みしめた。
あの日のことは忘れられない。
その朝も、二人はリビングで口論していた。自分のせいで喧嘩をしていることは知っていた。出て行けば母親が自分に対して暴力を振るうことも知っていた。それを庇う父親の体に痣が増えていくことも知っていた。
普段は母親が自室に戻るまで大人しく待っているのだが、その日はなんだか胸騒ぎがして、こっそりと様子を窺っていた。
母親はヒステリーをおこして喚き散らしていた。食卓テーブルには書類と印鑑が置かれていた。幼い眼には何か分からなかったが、後にそれが離婚届であったと聞いた。
父親は子どもを連れて出て行くと、何度も、静かに説いていた。母親はそれを拒絶し、泣いて縋っていた。
我慢の限界に達したのだろう、声を荒げることなどこれまで一度もなかった父親が、怒鳴りつけた。
次の瞬間、母親が食洗器から包丁を引き抜いて、父親の胸に突き刺した。
あまりにもあっけなく、父親は床に倒れ込んだ。母親は包丁を握ったままその場に崩れ落ちて、広がっていく血潮に呆然とした。
耐えられなくなって飛び出した我が子を、母親はどんな気持ちで見ていたのか。夫と子どもの名を呼ぶ声には様々な感情が混ざり合っていたと思う。それらが結局はなんであったのか、今も分からない。
無防備な子どもを刺すこともできたのだが、母親はそうはしなかった。立ち上がり、しっかりとした足取りでベランダへ出ると、柵に足を掛け、やめてくれと訴える声に振り返ることなく、マンションの七階から身を投げた。
気がつくと、病院のベッドの上だった。血だまりの中で倒れていたらしい。父は心臓を貫かれて即死し、母親も全身を強く打ちつけて死んだと教えられた。家に戻ることは叶わなかった。そんな余裕はなかった。
目を閉じると血まみれの父親の姿がよみがえった。おかげですっかり不眠症になってしまった。
開け放たれた窓とはためくカーテンが視界に入ると、飛び降りる母親の背中を思い出してパニックになった。窓は常に閉ざされ、部屋の空気は淀んでいった。
自分を引き取ることになった親戚がたまに顔を出す以外に、小さな一人部屋を訪ねる見舞いの客はいなかった。花瓶に花が挿されることはなく、終いには叩き割った記憶がある。
壁越しに聞こえる親子の声を聞きたくなくて布団の中で耳を塞いだ。目を閉じる恐怖に震えた。衰弱していく自分自身の体に泣いた。
悲しくて、辛くて、点滴の針を抜いて逃げ出したのは両手で数え切れないほどだ。スタンドがベッドにくくりつけられることはなかったが、看護師たちをかなり困らせた。
「何食っても気持ち悪くて、胃に入ったものもすぐに吐き出してた。俺、ずっと点滴に頼りきりだったなぁ」
お前と同じだと高安の肩に手を回した。抵抗はなく、うつむいたまま小さく首を振る。握られたペットボトルがぎちりという。
「初めて会った時に、俺泣いてたろ? あのとき、自分のやってたことに虚しくなって気持ちが落ち込んでたってのもあるけど、やっぱり、昔のこと思い出したんだよな」
語りながらも、斎藤の頭の中は驚くほど冷静であった。涙がこみ上げることもなければ、声が震えることもなかった。
「自分と似たような感じになってたから、感情移入したってことか?」
「それはちょっとあるかも」
「だから俺を、連れ出してくれたのか?」
「んー、それはちょっと違う」
追究されたらその先を答えるつもりであったが、高安は「そうか」と素っ気ない。
「七月でも夜になると冷えるもんだな」
斎藤は寄り添うように小さな体を引き寄せた。怒られるかなと数秒待ったがわずかに身じろぐだけでこれといった反応もない。
長い前髪をのれんよろしく分けて顔を覗き込む。目の下を真っ黒にして、先ほどより青い顔が気まずそうに口を押えていた。
「だから、きついならちゃんと言えっての」
「……ごめん」
殊勝な返事。高安は我慢できず、ベンチの後ろで吐いた。
思ったよりも具合が悪い。早く出発しなくては。
斎藤はベルトを引き抜いて、後部座席に座らせた高安と自分の体をぐるりと囲って縛った。ベルトには余裕をもたせていたが、子どもが一人加わるとそうもいかない。ポーチの紐は短すぎて使えなかった。
腹に食い込むベルトが肋骨を圧迫して激痛が走る。それでも、
「いいか、しっかり掴んでおけよ? 後ろに倒れられたんじゃ助けられない」
もはや聞いているのかも分からない高安の手にベルトを握らせて、エンジンを吹かした。
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