第十三話


 唇の切れたところがぴりぴりとする。頭がふらつく。四肢が重い。全身が痛い。


 赤信号に飛び出して車に撥ねられるなんて。しかも吹っ飛ばされた自分を置いて、車は走り去った。完全なひき逃げであ。


 随分と派手な音がしたから、警察官も気づいたはずだ。彼らにはぜひあちらを追ってもらいたい。いや、パトカーのサイレンがすぐに聞こえたのはそういうことかもしれない。


 事故の直後に立ち上がれたのは、運が良かったとしか言いようがない。サングラスはお釈迦になったが、人間案外丈夫なものだと場違いではあるが感心してしまった。


 だが、無傷というわけじゃない。体の中で嫌な音がしたのは、きっと肋骨が折れたからだ。その証拠に、わき腹が焼けるように痛い。


 そんな体で大通りに出ることは叶わず、民家の自転車を拝借してホテル近くまでやってきた。


 興奮作用のある脳内物質が出ていたのだろう、それまで痛覚は鈍かったのだが、ホテルが見えてきた辺りで急激に痛み出した。自転車ごと倒れ込んで、また腕を擦りむいた。


 そこからは建物の外壁や電柱を頼りにして歩いてきた。ホテル裏のゴミ捨て場まで来たところで躓き、袋の山に倒れ込んだ。


 どれくらいそうしていたか分からないが、何かが足を蹴飛ばして、目が覚めた。子どもが自分を見下ろしていて、それが高安だと分かり、考える前に口が動いていた。


「悪い、遅くなった」


 驚愕に目を見開く高安に「なんて顔してんだよ」と笑いかけるも、拭った額の血の量に表情が変わる。どうりで頭がふらつくはずだ。


「何があったんだよ!」


 叫ぶ声が頭に響く。


「車に轢かれた」

「血が、血が出てるぞ」

「あっちこっち擦りむいたからなぁ」

「笑ってる場合か!」

「そうだな」

「おい、無理すんなって」


 ふらつきながらも立ち上がる斎藤を支えようと、小さな体が寄り添ってくれる。

 細腕が触れた所がとても暖かくて、体が軽くなった気がした。思ったよりも動くことにほっとする。


「すぐに出発するぞ」

「傷だらけのくせに、何言ってんだよ」

「今すぐ行くんだ」


 語気を強くして言い聞かせると、不承不承ながらも頷いてくれた。


 とはいえ車は置いてきてしまったし、公衆電話で使おうとポケットに忍ばせた硬貨以外、金は全て投げつけたリュックサックの中である。ホテル周りの民家に車はあるが、キーがなければ動かない。


 何かないかとあたりを見回すと、二人乗りのバイクが目についた。宿泊客のものだろう。近づいて見ると、それは以前斎藤が使っていたものと同じ型であった。


 苦い思い出であるが、不注意からバイクを盗まれたことがある。

 ヘルメットをハンドルにひっかけ、その中に鍵を放り込んでコンビニに入ったのだ。盗んでくれと言っていたようなものである。


 普段はヘルメットの内側の、パッドの隙間に鍵を隠しておくのに、そのあってないような用心も怠った結果なのだから、自分を責めるしかない。


 目の前のバイクのハンドルには、ヘルメットが引っかかっている。半球体の底を探る。もちろん何もない。


 斎藤はパッドの隙間に指を指し込んだ。これはもう癖である。その先に、記憶にあるのと同じ冷たい感触が、あった。


「どうした?」


 急に笑い出した斎藤を、ぎょっとして見上げてくる。


(こんな偶然があっていいのか)


 バイクの鍵が、斎藤の手の中で鈍い色を放っていた。トランクを開けると、ゴミに埋もれて少しばかり硬貨も出てきた。手持ちの分と合わせれば高速に乗れるだけの額になる。


「バイクが使える」


 同じ被害者を出すのに少々の罪悪感はあるが、躊躇いはなかった。


「ただ、お前のヘルメットがない」

「なくても平気だ」

「被らないと捕まるんだよ」


 斎藤の服はところどころ血が飛んでいたが今は夜中だ。人はまばらだし、暗ければ分かるまい。


 しかし、ノーヘルはまずい。帽子でカバーできる問題でもない。これは使えないかと諦めかけた斎藤の足を、高安がつついた。


「これならどうだ?」


 そう言って両手で掲げるものは、自転車用のヘルメットだった。スポーツタイプなのかあちこちにくぼみや穴がある。


「どっから持ってきた」

「あそこの自転車のかごの中」


 指さす先にアパートの駐輪場があった。ちょっと目を離した隙に、不法侵入と置き引きをしれっとやってのけるとは。


「これならいいだろ」

「ああ、十分だ」


 高安を後部座席に乗せると、絶対に自分から手を離さないよう厳重に言い聞かせた。


 だが、折れた肋骨に触れられるのはかなり辛い。かといって下の方に手をやられてもそれはそれで困る。


 最終的に、子どもの力でも安全に掴まれる場所としてベルトを選んだ。問題が一切ないわけではないが、現状では及第点だ。エンジンをかけると懐かしい音が腹に響いて痛かった。


「で、どこに行くんだ?」


 思い出したように尋ねられ、父親に指定された地名を言う。


「そこ、うちの別荘がある場所だ」


驚きの度合いが声に表れていた。


「俺も、そこに行きたかった」

「お前もか」

「なんでそこに?」

「お前こそ、なんでだよ」


 高安がだんまりを決め込んだので、この話はお流れになった。

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