第十二話

 高安は受付の男にもらった缶ジュースを手に、ロビーのソファでぼんやりと佇んでいた。


 ほんの数分電話を借りただけだというのに、よほど暇だったのか、男は高安のことを根掘り葉掘り聞いてきた。警戒を露骨に示すと、別れた嫁についていった娘とよく似ていたからだと釈明してきた。高安はちょっと考えて、


「俺、男です」


 男の慌てっぷりは録画して斎藤に見せたいと思うほどであった。謝罪の言葉と共に渡されたのが缶ジュースである。


 斎藤が出て行ってから、もう一時間は経っている。全くどこへ行ったのやら。高安はただ、小さな声で外出を告げられただけであった。


 しばらくベッドの上で過ごしたおかげで歩けるほどに回復した体も、電話のやりとりですっかり疲弊していた。缶の表示を見てみる。果汁が三割ほどを占めるリンゴジュースだった。これならば飲めるだろうかと、プルタブを開けてにおいを嗅いでみる。


 飲んだ。


(……飲めた)


 三口で気持ち悪くなったが、久しぶりに味わう甘さに頬が緩む。


「ん?」


 ポケットの中に何かあった。取り出してみると、それはリンドウの花だった。車で目を覚ましたとき、枕元にあったのは覚えている。無意識にポケットにしまっていたようだ。そういえば、赤い花が自分の下敷きになっていたが、あれはなんだったのだろう。


 リンドウの花の先は色あせて皺が寄っていた。高安は熱心にそれらを伸ばしていき、なんとか元の形に近づける。捨てるにはもったいない。


 にこやかに見つめてくる男に会釈して部屋に戻ると、そっとポーチに入れた。中に入っていた例の手紙は、びりびりに破いてゴミ箱に捨てた。


 斎藤はまだ帰ってこない。読む本もなく退屈で、テレビをつけてみる。ニュースは自分たちのことを取り上げていなかった。バラエティ番組の内容はちっとも頭の中に入ってこなかった。


 スポーツドリンクをちびちびと飲んで、栄養ゼリーも少し食べた。胃の不快感は拭えないが、せっかく買ってくれたのだからと頑張った。


「早く、帰って来いよ」


 テレビの電源を落としてベッドに寝転ぶ。秒針の音がやたらと耳につく。一度気にするとなかなか耳から離れてくれない。それでも、目を閉じてふわふわと浅い睡眠に浸かるのは気持ちよかった。



 どれほど経ったのか、幸せな夢の途中で目が覚めた。壁掛け時計を見やると、日付が変わっていた。だいぶ寝てしまったようだ。


「すぐに戻るんじゃなかったのか?」


 電気はつけっぱなし、隣のベッドは空のまま、部屋のものは一切動かされていなかった。

 

 暇を持て余した高安は、不安と好奇心に背中を押され、外に出てみることにした。まだ頭は重かったが、どこまで動けるのか確かめたい気持ちになったのだ。


 気がめいるようなこれからのことを考えると、自分の意思で好きに動けるうちに動いておきたかった。今のうちに少しでも自由を味わっておきたい。


 帽子をかぶり、ポーチを肩から下げる。鍵はかけずにおいた。すれ違いで中に入れなくては困るだろうという配慮である。念のため、外を歩いてくるというメモも置いておいた。斎藤の真似である。


 廊下は照明が落とされて薄暗かった。ロビーよりも非常口のほうが近く、こちらを使うことにした。音を立てないようそっと扉を開ける。外は正面玄関の灯りがわずかに届くだけでかなり暗かった。さすがに人の姿はない。高安は夜の湿った空気をいっぱいに吸い込んだ。


 駐車場にワゴン車はなかった。他に止まっているのはバイクと軽自動車だけであるから見間違えるはずもない。あの大きな車がないと妙に喪失感がある。高安は足元に散らばった煙草の吸殻を蹴飛ばした。


「どこ行ったんだよ」


 ワゴン車の停まっていた場所、駐車場の中ほどまで行き見上げると、明かりが一つもないホテルの壁が、街灯のオレンジ色に上塗りされていた。


 何の面白味もない。つまらない。斎藤はいつ帰ってくるんだ。そこまで考えて、くっと喉が詰まった。


 情けない、今からこれでどうするんだ。いじけた自分を叱る。入院生活を送るうち、一人でいることにも退屈にも慣れたはずだった。それなのに、無性に寂しさがこみ上げてきたなんて。


 誰のせいかといえば、ピエロが悪い。


 ざぁ、と風が吹いた。汗は乾いていたが、寒気を感じた。もう少しだけ歩いたら戻ろうと、高安は植え込みに沿って歩きだした。


 ホテルの周りをぐるりと一周し、再び駐車場の出入り口が見えたとき、高安は棒のようなものに躓いた。暗がりでよく見えなかったのと、ちらほらと見える星に気を取られていたのだ。声こそ上げなかったが転ぶ一歩手前までつんのめり、なんとか持ちこたえた。


「危ねぇなっ」


 ゴミ捨て場からはみ出るそれを蹴飛ばしさらに毒づこうとしたが、その正体を視認して言葉を失った。


 それは、頭から血を流してゴミ袋に埋もれる、斎藤の足だった。

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