第十一話

 ふらつく頭で外に出ると、首筋を抜ける風に、ひどく汗をかいていたことを教えられた。暑い。車に乗り込んでクーラーをつけて、ペットボトルの水をごくごくと飲んだ。


「一応、成功した、のか?」


 ハンドルに額を乗せて、今しがたのやりとりを反芻する。所詮は口約束だ。父親が必ず守るという保証はない。それでも、このまま何もせず終わりを迎えることを、自分自身が良しとしなかった。


  走り書きのインクがにじんで読みにくい手の甲を引っ張って、カーナビに住所を打ち込む。指定された場所までの所要時間を見て安心した。高速を使えば、余裕で間に合う距離である。入り口は昼間降りたところを使うらしかった。

 山に囲まれた田舎町なら、取り引きにうってつけということか。斎藤は出口の名前を一応憶えてから、ナビを閉じた。


 事は順調に進んでいく。しかし自分は、高安の意見を何一つ聞いてはいない。なんとも独善的な考え方で、引き渡すという約束までした。


  本人の意思も気持ちも無視して勝手にしたことが、果たして高安にとっての幸福に結びついてくれるのだろうか。


 斎藤はすでに百回は繰り返している自問自答に頭を振った。あの子を生かすためだ。何をしてでも生きてほしかった。例え自分が逮捕されても、死ぬわけじゃない。


  父親に告げた言葉に、嘘偽りはない。もしもあの子が苦しんでいれば、また逃げ出したいと思ったなら、どこにいても、何をしてでも再び連れ出してやる。


 それにしても、どんな顔をして高安を父親に引き渡せばいいのか。


 笑うか? 泣くか? そんな時間を与えられるかも分からない。


 気が重い。考えたくない。


 だけど、考えなくてはいけない。ちゃんと考えたい。


 斎藤の掌から、カランコエの厚い花がぼたぼたと落ちた。


「すみません」

「ひぃっ」


  窓ガラスをノックしたのは、青い制服の警察官だった。気配に気づかなかった斎藤は飛びあがったが、声をかけられたことに驚いたのだと判断したのか特に訝しむ様子はなかった。


「お休み中すみません。お手数ですが降りてきてもらってもいいですか?」


  斎藤はエンジンキーに掛けていた指を下ろし、了解したと身振りで伝えた。このまま発進するのも一つの手だが、街中をカーチェイスするなんて無謀なことはしたくない。どうか穏便に済んでくれよとこっそり手を合わせた。


「どうかしましたか?」


 車外で待っていたのは二人の警察官だった。パトカーは見当たらない。徒歩での見回り中だったのかもしれない。だが、追う足がないとは限らない。


「もしかして駐車禁止でした? 友人と待ち合わせをしているのですが」


 開けっ放しの運転席と警察官とを交互に見やる顔に困惑の表情を浮かべてみせるが、この手の言い訳には慣れているようで、彼らは適当な相槌を打つだけだった。


「最近このあたりで不審者が目撃されていまして。申し訳ありませんが、免許証を見せていただけませんか?」


 事務的な申し出だが、不審な動きをすれば噛みついてきそうな目をしている。最悪だ、やっちまった。後悔の言葉が動画サイトのコメントのごとく目の前を走る。


 最も遭遇したくない面倒事だ。何をやっても穏便に切り抜けることができない状況。


 警察官が一歩近づく。斎藤は一歩退く。


「分かりました。ちょっと待っててくださいね」


 背を向けて、はやる気持ちを落ち着かせた。


 車で逃げても追いかけまわされていずれは捕まる。高安が一緒なら死ぬ気で振り切っただろうが、今は一人だ。自分だけが警察と遭遇した時の対処法を、斎藤はちゃんと考えていた。あとはタイミングと運次第。


「この中にあるんで」


  助手席からリュックサックをたぐり寄せ、探すふりで中身を掻きまわす。そうしながら、空いた手でカランコエの花を落とした。一つ一つは小さいが、水のごとく流れ落ちればどうだろうか。白色のそれは暗い中でも目立つ。


  正面で見張っていた警察官が反応した。もう一人がつられる。二人の注意が逸れた瞬間、斎藤はリュックサックを投げつけた。


 うぐっ、とひどい声を上げて手前にいた警察官がひっくり返る。中のペットボトルが当たったらしい。

 倒れなかった相方には出せるだけ出したドクダミを蔓ごと投げつけ、強烈な臭いに怯んだところを突き飛ばした。


 方法はただ一つ。逃げるしかない。


 どうせ免許証を持っていないことがばれたら交番かパトカーに連れていかれるのだから、結局どこかで逃げていたのだ。


 閑静な住宅街に似合わぬ怒号を背に、斎藤は必死に駆けた。すでに横っ腹が痛い。こんなことなら禁煙しておけばよかった。苦い唾を飲み込んだら喉に沁みた。


  家と家の間を走り、車通りのない細道を渡ることを繰り替えすうち、あちこちにひっかけて擦り傷だらけになった。右の足首をひねった。三回ほど転んだ。焦るほどに足はもつれた。


 建物の陰に隠れ、上がりきった息を整えつつ耳を澄ます。警察官の姿は失せたが、声は聞こえる。まだ逃げきれていない。痛む腹を押さえて、声のする方向と逆に向かった。


  大通りに出てしまえば人ごみに紛れることができる。障害があるとすれば小さな交差点が一つだけだ。


 すぐ戻ると言ったのだ。こんなところで油を売ってる暇はない。


 このとき、斎藤は背後を気にするあまり、赤に変わった信号にも、壁の向こうから迫りくる鉄塊にも気づけなかった。


 飛び出した交差点の、白線の上。強い光に思わず足が止まった。


 けたたましいクラクションの直後、今まで経験したことのない衝撃が斎藤を襲った。

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