第十話

「すぐ戻るからな」


  今日何度目かの一方的な約束。眠る高安の枕元にストックの花を置いて部屋を出た。ドアノブの上を滑った汗は、誰のものなのか。


  非常口から駐車場に出て、ポケットに忍ばせておいた煙草に火をつけた。独特の苦みを舌の上で転がす。ニコチンは脳に回っているはずなのに、気持ちはちっとも落ち着かなかった。


「くそっ」


 指の間で煙草が折れた。何がピエロだ、あの子を泣かせているのは自分じゃないか。斎藤は髪を引っ掻きまわして、ずるずるとその場に座り込んだ。

 病院に居た時の方がまだ健やかだった。病人だからあそこにいたのだ。斎藤は自分の行動が、むしろ高安を苦しめていることを痛感した。


 二本、三本と吸殻が増えるにつれて、とある意思が、漠然と浮かんできた。それはずっと前から存在していながら、たった今作られたものでもあった。


 滞留する紫煙の中でサングラスを装着する。より暗くなった世界は自分の行く末を暗示しているようにも思えたが、斎藤は挑むように勢いをつけて立ち上がり、車に乗り込んだ。


 向かった先は例の公衆電話である。受付の電話を借りるのは気が引けた。会話を聞かれたくなかったからだ。


 黄緑色の電話ボックスは相変わらず寂しげな様子で斎藤を待っていた。扉は先ほどより重く感じられた。硬貨を投入し、受話器を取るまでが長かった。手順や伝え方を何度も頭の中で練習してみるのだが、どれも上手くいかずに躊躇したからだ。


 なるようになれという気持ちでダイヤルした電話は、二回目のコールで繋がった。


「もしもし」


 その警備員は夜間診療であることを早口に告げて、要件を催促してきた。

深呼吸を一つ、落とす。


「小児科病棟のナースステーションに繋いで欲しいのですが」

「失礼ですが、ご家族の方ですか?」

「妹が入院しています。看護師さんに、今日中に伝えなくてはいけないことがあるんです」

「妹さんのお名前は?」

「高安晶です」

「少々お待ちください」


  保留のメロディーが流れる。斎藤は受話器を握り直した。


  誘拐された患者の身内を名乗る人物が病院に電話をかけてきたとあっては、ひどく警戒されるか、悲哀の言葉と共に丁重な扱いで通されるか、あるいは誘拐犯だとばれるのか、はたまた予期せぬ対応を受けるのか。いずれにせよ、いつ警察が出てきてもおかしくない状況である。


 病院に電話をかけたのには二つ理由がある。高安の状態を伝え、これ以上悪化させないためにはどうすべきかを聞き出すため、そして高安の父親に連絡をとる仲介をさせるためだ。


「お待たせいたしました」


 ぐっと、緊張の糸を張り巡らせた。しかし、


「それでは、小児病棟のナースステーションに繋ぎますね」


  警備員は拍子抜けするほどあっさりと返してきた。斎藤の返事を待つことなく、無機質なコール音に切り替えられる。多少なりとも探りを入れられるだろうとあれこれ策を練っていた斎藤は、喜び半分に首を傾げた。


  何かが抜けている気がする。警備員が高安の件を知らないとすれば話は繋がるが、患者が一人誘拐されているというのに、その騒ぎを知らないとは考えにくい。いや、自分の考え過ぎだったのか。数秒間の内に様々な憶測が頭の中を飛び交ったが、それも甲高い声によって打ち切られた。


「お電話代わりました、担当の片桐です」

「あんたの名前、初めて聞いた気がする」

「あの、晶ちゃんのお兄さん、ですよね?」


 この女、やはり役に立たない。


「俺の声に聞き覚えがあるはずだが」

「え?」


  看護師片桐は戸惑ったように聞き返したが、小さく悲鳴を上げると誰かを呼んだ。受話器を取り落したのだろう、がちゃがちゃと耳障りな音がした。


「おい、なにすんだよ」

「それはこっちのセリフだ」


  低く渋い男の声が、唸るように言う。


「誰だ、あんた」

「高安晶の父親だ」

「へぇ」


  思わぬ人物の登場に面を食らう。看護師に要件を伝えた後に対話するはずだったが、ここで引いてはいけない。手間が省けたというものだ。斎藤は背筋を正してしっかりと声を出すことに努めた。


「ちょっと聞きたいことがあるから、看護師さんに代わってもらえるか?」

「誘拐犯が看護師に何の用だ」

「彼女の体調が思わしくない。どうすればいいか指示を仰ぎたいんだ」

「あの子は無事なのかっ」

「泣きすぎて疲れたってさ」


 それは父親の望む回答ではなかったのだろう。手を出したらただでは済まないぞと脅す声は怒りに沸いていた。


「言っとくが、彼女には一切、手荒なことはしていない」

「誘拐しておいて何を言うか」

「それも彼女が望んだことだ」

「あの子がそんなことをするはずがない」

「それはあんたの願望なんじゃないか?」

 

 歯ぎしりの後に待っているであろう罵詈雑言を押しのけて、斎藤は続ける。


「あんたたち親子にどんな溝があるかは知らないが、親に振り回される子どもの身にもなってみろ」

「お前に何が分かるというんだ」

「少なくとも、一人ぼっちの部屋の静けさと寂しさは分かってるよ」

「なに?」

「俺はこんな話をするために電話をしたんじゃないんだ」


 テレビやラジオを確認した限りでは、まだこの件は報道されていないようだった。警備員の様子から推測すると、警察に連絡していない可能性もある。あるいは事実を知って間もないのか。聞きたいことではあるが、ぐっと飲み込む。


「あの子は返してやる。あんたが俺の要求を呑んだらの話だがな」

「金か、金が欲しいのか!」


  誘拐犯の要求としては妥当なものであろうが、斎藤にとってそんなものはどうでもよかった。


「欲しいのは自由さ」


  嘲るようなため息が吐かれる。


「警察から逃げきれると思うなよ」

「勘違いするな、俺が欲しいのはあの子の自由だ」

「なんだと」

「俺の要求は二つ。あの子をちゃんと医者に診せて、性同一性障害かはっきりさせること。そして、どんな結果でもそれを認めて、あんたが彼女を受け入れることだ」


  砂嵐に似たノイズの向こう側の沈黙は、困惑一色であった。


(これでいい)


  斎藤にできることはこれだけだった。このまま高安と逃げ続けることはできない。あの子の体はそれに耐え切れない。

 あんな小さな子供が苦しむ姿をこれ以上見たくない。助けたい。病院や父親のもとに戻るのが苦痛なら、その原因を取り除いてやるまでだ。


「俺を警察に引き渡したいならそうすればいい。ただし、あの子の意思にそぐわないことをして彼女が苦しむことがあれば、俺はどんな手段を使ってでも、あんたから彼女を引きはがしてやる」


 これほど強気に出たのは一種の賭けであった。子どもを見捨てるという未来がないわけではなかったし、激昂した父親がその後高安を病院に閉じ込める未来だって、なきにしもあらずだ。

  

 自分が本気だと伝えることで、その可能性を摘みたかった。父親の、娘への愛情に賭けたのだ。高安が性同一性障害であるという可能性はこの際切り捨てる。本人が違うと言ったのだから。


 口火を切ったのは父親だった。


「いいだろう」


 気づかれないようほっと息をついた。頭に上っていた血が急激に下がり、斎藤はボックスの壁に寄りかかった。


 父親は、容体が芳しくないにしても医療施設に行かなくては何もできない、という看護師の言づてを済ませて、


「今から言う場所に来い。そこで娘を引き渡してもらう」

「分かった」


 指定された住所と時間は手の甲に書き記した。


 いつの間にか、電話は切られていた。


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