第九話
受付にいた男に名乗ると、予約から一時間も経っていない来客を、夜だというのにサングラスをかけた男とふらつきながら歩く痩せぎすの子どもを、大げさに歓迎してくれた。
「可愛いお子さんですね」
大人の後ろにじっと隠れる様子に対してか容姿に対してかは分からないが、男はしきりに高安のことを可愛いと褒めた。目深にかぶった帽子の下で青白い顔が不機嫌になっていくのが手に取るように分かり、斎藤は急いで手続きを済ませた。
ロビーに客の姿はなく男は暇だったのだろう、部屋まで案内すると言ってきた。それを丁寧に断って、すでに歩き出した高安の背中を追った。部屋と客の数は釣り合っていないらしく廊下はがらんとしていた。
部屋の前で追いつき扉を開けてやると、思いっきり睨まれた。レディーファーストの意味ではないと説明する前に、高安は部屋に入ってしまう。どうしたものかと頭を掻いて、斎藤は再び扉を開けた。
スリッパが二足並んでいたが、高安の靴はなかった。自分もそれでいいかと、土足のまま奥へ進んだ。あてがわれた部屋は値段相応に質素な造りだったが、清潔そうに整っていて安心した。不衛生な臭いが染み付いていたら、部屋を変えてもらっていたところだ。
「疲れてるだろ、早く寝ろよ」
そう言った斎藤だったが、先にベッドに倒れ込んでしまう。精神的な疲労のせいでくたびれていたのだと自分自身に言い訳しつつ、サングラスが潰れないよう枕元に置いておく。リュックサックは寝ころんだまま床に下ろした。
「どうした?」
隣のベッドに顔を向けると、高安が帽子のつばと長い前髪の間から睨みつけてきた。
「いつから気づいてた」
「なにが」
聞かずとも分かりきった答えを、あえて尋ねた。
「だから」と高安は言葉に詰まって、
「俺が」とまた区切って、とうとう言った。
「男じゃないってこと」
「初めて会った時から、気づいてたけど?」
驚愕に目を見開く高安にはかっこつけて言ったが、初めはただ違和感を感じただけだった。喋り方や口調が歳の割に不自然だったし、声の高さも中途半端で、無理やり低くしているような印象を受けた。
男の子にしては髪が長く、女の子にしては言動が荒っぽい。突然現れたピエロに対して上げた悲鳴は甲高かったが、それでも断定はできなかった。男女の見分けなど外見と声の高さで決めるものであり、高安はどっちつかずであったのだ。
確信したのは抱き上げたときだ。男にあるべきふくらみがない代わりに、ささやかなものが斎藤の腕に当たったのだ。もともと起伏がはっきりしている体ではないのだろう。中性的な顔立ちは丸みより筋が目立ち、痩せているためにそれは一層際立っている。今の高安の性別を一目で判断できる人間はそういないはずだ。
「なんで言わなかったんだよ」
「特に言うことでもないかと思って」
「でも、変だろ?」
こんなの、と泣きそうな声。
「俺は特に気にしない」
「じゃあなんで、今になって」
「口が滑ったといいますか」
「ふざけんな」
高安はキャスケット帽をむしり取り、大きく振りかぶって投げた。それはくるくると回転しながら弧を描き、壁に当たって落ちた。
「いてっ」
起き上がった斎藤の顔に今度こそ直撃したのは、くしゃくしゃに丸められた封筒だった。
読めと、そういうことだ。皺を丁寧に伸ばしてから便せんを取り出し広げた。中央寄りに綴られた文字は角ばっていて、書き手の性格を表しているようだった。
食事が摂れるようになったと聞きました。
そろそろ気持ちの整理もついたと思います。
大学病院に移って、そこで療養しましょう。
こんなことが書いてあった。インクはところどころにじんでいた。
「父さんからだって、看護師に渡された」
「大学病院ってのは何のことだ?」
「心を患った人間の治療に関しちゃ一流らしい。父さんの知り合いがそこの院長やってるって、前に聞いた」
「一体何の話だ」
「まだ分かんねぇの?」
嘲笑を浮かべて、親指で自身を突いた。
「俺のことだよ」
「なに?」
「性同一性障害ってやつ? 医者に診断されたわけじゃねぇけどよ、父さんの中じゃ俺はそういう扱いになってる」
突然のカミングアウトに斎藤は目を瞬く。
「母さんと姉さんたちは男っぽい性格ってことで片づけたけどよ、父さんは、俺のことを受け入れなかった」
つまり、拒食症に改善の兆しが見えたと知った父親は、高安の心の状態が変化したと考えて、その治療を始めると宣言した、ということか。
斎藤はかけるべき言葉を見つけることができなかった。確かに高安の性格や言葉遣いは女の子らしいとは言えない。しかしそれだけで判断してしまうのはあまりにも軽率ではないだろうか。
「でもさ、俺は自分が男だとは思っちゃいない。ネットで調べたけど、性同一性障害の患者は自分の体と性別に不一致を感じたり、本当は違う性別だって確信を持ってるらしい。だけど俺は、自分の体が女のもんだってのは当然だと思ってる。恋愛対象もノーマルだしな。だけど女らしくしろってあれこれ強制されるのは、結構辛い」
レースのワンピースやふわっとしたスカートに出しかけた手を引っ込めてズボンを選んでよかったと、涙をにじませる姿を見て斎藤は心底思った。
「お前のそれを精神的な疾患か、ただの性格かって決めるのは医者の仕事だ。大学病院で診断してもらえば、お父さんも納得するんじゃないか?」
「性同一性障害だと言われようがなかろうが、父さんは今の俺を受け入れない。万が一疾患だって言われたら、あの人は嬉々として俺を閉じ込めるだろうさ」
高安は細い腕で体を抱きしめ床にうずくまり、膝に顔をうずめる。
「誰もお父さんを止めないのか?」
「止めないさ」
ゆるゆると首を振る。髪がざんばらに乱れる。
「父さんはただ、言葉遣いを直そうって、こんな服を着てくれないかって言うだけさ。しつこく、根気よく、飽きずに、いつまでも、俺が耳を塞ぎたくなるまでな」
「じゃあ、お前の拒食症ってのは、もしかして?」
「ストレスが原因だってんなら、これしかねぇよなぁ」
何を止めるっていうんだ? 素行不良の娘に、手を上げることは一度もなく、言葉によって諭そうとしている。なんて良心的な親だろうなぁ。
そんな皮肉の中にも父親の優しさが窺える。そこに棘が潜んでいるなど、誰が考えるものか。
だが、狂気じみた愛情は毒だ。強すぎる故に相手を蝕んでいくのだ。目に見える形で副作用が現れた時には手遅れであるのに、そのときまで気づけない。それが薬であると信じて疑わず、ただ相手を思う気持ちだけで毒を与え続ける。
「なあ、他の家族はお前の味方じゃないのか?」
高安がこれほどまでに思い詰めているのを、家族が知らないとは考えにくかった。 高安は答えた。
「多分母さんたちは父さんの味方じゃない。けど、俺の味方でもない。俺のことは個性として見てるけど、父さんの教育方針が間違ってるとも、思ってないんだな、あれは」
世間一般には父さんのしていることが正しいんだと、自分自身に返ってくる言葉を、高安は吐き続ける。
「俺の喋り方、ガラの悪いヤンキーみてぇだろ? あの人への反発の意味も、込めてんだけどよ、これ。多分、気づいちゃいねぇよな。こんなの聞いたら、母さんや姉さんだって、俺のことおかしな奴だって、思うに決まってる」
言い終わらないうちにヒュウヒュウと喉を鳴らして咳き込む。呼吸をコントロールできないのか苦しげに喘ぐ。咳は次第に過呼吸じみた緩急をつけていく。
水を飲ませたらいいのか、寝かせたらいいのか。それさえも分からない斎藤は、波打つ背中を撫でてやることしかできない。
高安の呼吸が落ち着いてきたのは、十分も過ぎた後だった。たったそれだけの時間が、斎藤には一時間にも二時間にも感じられた。
乞われるままにベッドに寝かせてやる。じっとり濡れた肌は冷たかったり熱かったりとあべこべで、顔は血の気が失せて目の周りが青黒くなっている。
「お前、これはやばいだろ」
「そう、見えるか?」
「見えるよ」
「久しぶりに、泣いたから、体がついてこれないだけ、だと思う」
泣くのって結構体力使うんだぜ? 途切れ途切れに動く唇が、唾液で汚れていた。知ってると、言ってやりたいのにできなかった。
「吐くかと、思った」
「それで楽になるなら吐きゃいいじゃねぇか」
「胃の中に、吐くもんが、ねぇんだよ」
肋骨の線が浮いた自分の腹に手を乗せて、指をゆっくりとくぼみに這わせた。
「水かなんか飲むか?」
「置いといてくれたら、後で飲む」
「ゼリーは?」
「無理」
「そうか」
スニーカーを脱がせて、胸まで布団をかけてやる。
「俺は、介護老人か」
「病人だろ?」
「ははっ、違いねぇ」
眉間にしわを寄せて、笑ったつもりなのか、白い歯がぬっとのぞく。ふっと瞼が下ろされてどきりとした。
(死んだと、一瞬でも思ったなんて)
縁起でもないと首を振る。しかし高安は目に見えて衰弱していた。
食事を摂れるようになったというのが本当だとしても、適正量を摂取できているとは限らない。こんなにも早く容体が悪化したのは、今までの移動にも原因があるに違いない。
車の中でずっと寝ていたのは、体力の消費を抑えるために体が反応したからだと考えれば納得がいく。
「なんであんた、泣いてんだ」
布団につっぷした斎藤の頭に、小さな手が乗せられる。
「さすがに、もう驚かねぇか」
高安はくくっと笑う。斎藤はごめん、ごめんなと何度も呟く。
「俺のせいだ」
「連れ出してくれって、頼んだのは俺だ」
「でも」
「大学病院で治療なんて受けたら、俺はほんとに壊れちまう。今の自分否定して、別なものに置き換えたって、そんなの俺じゃない」
斎藤は震える手を取った。緩く握り返してくる感触が今にもなくなってしまいそうで、逃がすまいと両手で包み込んだ。
「やろうと思えば、言葉遣いは直せる。スカートとか、女らしい格好だって、死にたいくらい嫌だけど、我慢できる」
声が女児特有の、高いものに変わっていた。
「だけど、一番辛いのはそんなことじゃない」
再び低く落ちた声。
斎藤は祈るように、重ね合わせた手を額に押し当てた。
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