第八話

 高速道路を降りた斎藤は、付近に交番の類がないことをカーナビで確認して車を停めた。機関車が蒸気を噴出するように息を吐いて脱力すると、コンビニで買ったサングラスがずるりと鼻の上を滑った。


 いつパトカーが現れて追いかけられるかと不安で仕方なかった。警察官に見つかったというのは嘘である。高安を一人で行かせないためにどうしたらよいかと考え、追われる身だと偽り共に行動させることを思いついたのだ。


 無理やりにでも手の届くところに置いておかなくては、ふらりと出て行ったきり一人で死んでしまう気がしたのだ。現実味を持たせたくて架空のストーリを練っておいたのだが、無駄になってしまった。


 走る間、気を紛らわせたくて色々と口に出してしまった。つい感情が入って歌ってしまったが、高安が起きることはなかった。


「のどかだなぁ」


 田舎になりきれない街並みは、自分とは縁もゆかりもない、名前すら知らない土地である。逃げてきたのだと意識させられて、そういう意味では安心しきれない。


 胃袋が物悲しく鳴いた。痛みすら感じた斎藤は、サービスエリアで買ったサンドイッチをがつがつと平らげた。ぐびぐびと水を飲んで、膨らんだ腹を摩る。この満たされた感覚を、高安は一年も味わっていないのだ。


  拒食症は、痩せたいという願望や日々のストレスが原因で起こることが多い。高安はどうだろうか。本人曰く痩せ願望はないらしい。なにもかもから逃げたいと言っていたのは、家庭環境に問題があったと考えるべきか、高安を取り巻く世界そのものがストレスであったのか。


  眠る子どもを揺すり起こして問いただすなんて無粋なことはしない。本人が喋りたいときに喋ってくれたら、それを聞けばいい。


  座席ごと下がって距離を縮め、ずり落ちていた毛布を掛け直してやると、よれよれの髪の下に涙の跡を見つけた。色があるわけでもない消えかかったそれを、触れるか触れないかのぎりぎりで、なぞる。


「辛いよな」


  微笑みとも悲哀ともつかない表情で、斎藤は大ぶりのリンドウの花を落とした。


「さてと、やりますか」


 安眠を妨げることなくやらねばならないことを、いくつか見つけていた。


 まずはカーナビで総合スーパーの検索を掛けた。一番近い店舗までは距離があり、今度は衣料量販店の検索を掛ける。すると、今いる場所から十分ほど走った市街地に最寄店があることが判明した。


 毛布で隠されているとはいえ、高安はまだ病院着のままである。外に出れば目立つことこの上ない。服を買うことは最優先事項であった。斎藤は間違っても切符を切られないよう、慎重に車を走らせた。目的地は家族連れの姿が目立った。さっきの今で逃げ出すとは考えにくかったが、念のため道路から離れた場所に車を停める。


 独り残していくこと自体気が引けるが、起こしても連れていくことはできない。コンビニのレシート裏に「すぐに戻ってくるからじっとしてろ!」と書いて、高安の手に握らせた。


 病院でボランティアをやるにあたり配布されたボールペンが、未使用のままリュックサックのポケットに放置されていたのを使ったのだ。


 看護師はもう、警察に連絡しただろう。ここも、安全な場所ではない。


 駐車場から入り口まで駆け足で向かった斎藤は、下着売り場やジーンズ売り場に迷い込みながらも、子ども服売り場にたどり着いた。英語のロゴが記されたTシャツと暗色のズボンを数着掴んでかごに放り込む。服のサイズは迷うことなくSサイズ。靴下も忘れずかごに納めた。


 服選びは早々に片づいたが、会計に並ぶ人の列はなかなか短くならないもので、今日ほどレジ待ちが長いと思ったことはない。状況が状況なだけになおさら落ち着かない。


 挙動不審が一番目立つからと、レジ前のセール品ワゴンを漁ってみる。大人用のシャツやキャミソールなどが雑多に入り混じり、隣には帽子とバッグ類が積まれていた。それらを手に取っていると、順番はすぐに回ってきた。ついでに手に取っていたキャスケット帽も会計に回してもらった。


 車に戻ると高安はまだ寝ていた。衣類のつまった袋は助手席の足元にまとめて置く。そこから連想して靴を買い忘れたことに気づき、己の額を叩いた。再び店に入って、スニーカーを選んだ。この時もまたワゴンを漁り、子ども用のポーチを見つけて一緒に購入した。


 服の次は宿の確保だ。大型のワゴン車であるから一応寝泊まりできるスペースは作れるのだが、病人の体には厳しいものがある。宿泊施設に当日おしかけて泊まることはできない。予約が何時間前なら成立するか知らないが、早く連絡するに越したことはないだろう。


 だが、その施設を探すための手段を、斎藤は有していなかった。スマホは病院のロッカーに置いたままである。ノートパソコンも持っていない。型落ち中古で買ったカーナビは、電話番号から施設を検索できてもその逆はできなかった。


 ネットカフェも使えない。最近はセキュリティの問題から会員登録が必要で、身分証を見せる必要があるのだ。それは自分の足跡を残すようなものであるし、そもそも斎藤は運転免許証を所持していなかった。多くのドライバーがそうしているように、免許証を財布に入れていたからだ。


 とりあえず車を走らせているが、妙案は思い浮かばない。七月の夕方がいかに明るくとも、時間はゆっくりと進んでくれない。焦るあまりアクセルを踏み込んでしまい、はっとなった。

 

 万が一警察に呼び止められることがあれば、免許証を持っていないという尤もな理由で引っ張られる。


 リュックサックにキャッシュカードは入っているが、これを見せたところで意味はない。現在手元にあるのはバイト代の振込先兼家賃や光熱費の自動引き落とし用に作った口座のものだ。


 めったなことがない限りこちらから金を引き出すことはないため、自宅に保管しておいたのを持ち出したのだ。普段小遣い用として持ち歩いている口座のカードは、免許証と共に財布の中である。


 上限ぎりぎりの額を設定して出金ボタンを押したとき、来月の家賃の工面ができなくなったなぁと思う反面、あのアパートには二度と戻らないと決めていた。


  腹がまたきりきりと痛み出している。空腹によるそれではなく、緊張と焦燥によるものであった。あてもなく走り回ってもガソリンを消費するだけだと分かってはいるが、止まった瞬間に取り返しのつかないことになる気がした。


  大通りから細道に入り別な通りまで抜ける最中、ぽつんと設けられた公衆電話とすれ違った。それまでにも通り過ぎた役所や駅の前で見ていたために、斎藤は舌打ちした。


「電話だけあってもなぁ」


  抜けた先の道をしばらく行くと、背の高い電気店の建物が見えてきた。どうせなら、打開策に投じるべきだ。ノートパソコンを買って公衆の無線LANを利用することが最善手であるように思えて駐車場に入った。


「すぐ戻る」


 眠ったままの高安に告げて車を降りた。


 だだっ広く白ばかりが目立つ店内で、パソコン売り場はいくつも幟が立てられておりすぐに分かった。ずらりと並ぶ機器を前に足が止まる。大きさやスペックによって値段はピンキリだ。


 ネットが使えれば何でもよかったが、あまり高いものに手を出すと今後が怖い。金に困ったら大道芸人の真似事でもして稼ごうと考えていたが、あまり現実的な話ではない。


「なにかお探しですか?」


 振り向くと、店員が完ぺきな営業スマイルでカタログを差し出していた。早く選ばなくてはとあれこれ見比べていたのを、熱心な客と勘違いされたらしい。店員は売れ筋の商品やキャンペーンについてまくし立ててきた。聞く姿勢を見せたが最後、何時間でも話し続けるだろう。


「お構いなく」


 ばっさり切り捨てると、店員は気持ち悪いくらいの笑顔で一歩下がる。


「よろしければ実際に動かして使い勝手をお確かめください」


 と礼儀正しく一礼をして、別な客の元へ駆けていった。切り替えの早さに苦笑しつつも、再びパソコンの画面と向き合う。カタログだけはとりあえず受け取っておいた。


 ふと、インターネットのアイコンが目に留まった。試しにクリックしてみると、画面はしばらく待ち状態を保ってから、ネットは開けないという警告文を表示した。


 同じことを隣のパソコンでも試したが結果は同じだった。ならばとネットの使いやすさをうたうタブレットで挑んだ。


 すると、あっという間に見慣れたネットのトップ画面が現れた。高揚を抑えきれず、小さくガッツポーズした。


 さっそくホテルの検索サイトを使って当日予約が可能な近しい宿を探していった。慣れない作業に手間取り、時間はあっという間に過ぎていく。店員が再び寄ってきたが、にっこりしてやると去っていった。


 ようやく見つけた数件のホテルの名前と電話番号をカタログの余白に記してポケットに押し込み、閲覧履歴を削除してから車に戻った。買う買わないは後程審議するとして、宿に入ることを優先した。


 高安は一度起きたらしく、頭の位置が逆方向になっていた。今はまた寝入っている。留まってくれた。それがどうしようもなく、嬉しかった。


 外はすっかり暗くなっていた。もしも間に合わなかったらと、車を飛ばしながら悪いことばかりを考えてしまう。細道を戻り、あの寂しげに立っていた公衆電話に駆け込んだ。


 むわっとした熱気の中、湿気た紙のにおいがした。電話機と壁の間に、黄色い表紙の分厚い本が立てかけられていた。手に取った斎藤は、ぽかんとしてしまう。


「公衆電話って、電話帳あったんだよなぁ」


  壁に寄りかかって自分自身を笑ってやった。日頃使わないためにすっかり失念していたのだ。


  電話帳の宿に頭から電話をかけていくのと今まで費やした時間、はたしてどちらが短かったのか、興味本位で宿泊施設のページを開くと、見覚えのある名前が一番上に載っていた。


「まじかよ」


 カタログのメモ書きと見比べる。何度見ても、同じ名前がそこにある。今度こそ眩暈を感じた。気を取り直してそのホテルに電話すると快く対応してくれ、斎藤は偽名を使って部屋を予約した。


  受話器を戻した瞬間、どっと疲れが襲ってきた。電話帳の存在を忘れていた自分自身の愚かさと、やみくもに走り回ったり電気屋で苦戦した時間を思うと、事態の進行に反して心は晴れない。


 運転席にどさりと身を下ろして、大きな欠伸を一つ吐いた。眠気の這い上がってくる感覚を首を振って追い払う。


「おーい、起きろ、起きろ。ホテル行くぞ」


 毛布に包まれた高安の足を軽く叩いて起こす。半目でうつらうつらと船を漕いでいた高安だったが、宿が決まったことを聞いた途端、かっと目を見開いて覚醒した。


「ホテルなんて泊まれるのか?」

「金の心配してんのか?」

「それもあるけど、警察にばれないかって心配してんだよ」

「偽名使ったし、サングラスと帽子で顔隠せばどうにかなるだろ。小さなホテルみたいだから、きっと人も少ない」

「どうにかならなかったら?」

「さっさと逃げる」

「めちゃくちゃだ」


 高安が天井を仰ぐ。


「文句なら後で聞くからさっさと着替えてくれ。どうせその格好じゃ車から出られないだろ?」

「……分かった」


 そこは本人も気にしていたのか、服の入った袋を素直に受け取った。


「Tシャツとズボン、好きなの着てくれ」

「ん」


  衣擦れの音を聞きながら、ミラーを見ないよう下を向く。斎藤に覗きの趣味はない。なんだか手持無沙汰で、指を組んだりほぐしたり、アンスリウムの花をぼとぼと落としたりした。ハート形のそれが一抱えの小山を作ったころ、


「着替えたぞ」

「どれどれ」


  黒のTシャツと緑のカーキズボンは、さすが大量生産の品なだけあって無難な組み合わせのように見えた。


「サイズぴったりだな」

「靴は?」

「あるぞ」


  斎藤は子ども用の小さなスニーカーを掲げた。しかしそれを伸ばされた手に渡すことはせず、自ら後部座席に回った。


「どうした?」

「履かせてやる」

「なんで」

「いいから」


  斎藤が自分の足をとりスニーカーに納めるのを、高安は先ほどとは違う意味の半目で眺めていた。


「まじで、何がしたいんだよ、あんた」


  仕上げにきゅっと紐を結んだ手を、靴の先で蹴る。


 高岡としては真面目に、真面目に答えたつもりだった。


「女の子に靴を履かせるなんてシチュエーション、一度やってみたかったんだよ」



 もっと言葉を選ぶべきだったと後悔するのに、一秒もいらなかった。

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