第七話
がたんっ、という大きな揺れで高安は覚醒した。視界の大半を占めるのはアパートの天井ではなく、ワゴン車のシートと薄い毛布の網目だった。
「起きたか?」
運転席の斎藤が一瞬だけ振り返る。なぜか薄い色のサングラスをかけていた。老けて見えるなと、混乱しつつも高安は思った。
「なんで車に」
そう言いかけたのを、先を越される。
「説明は後でするから、ちょっと屈んでてくれないか」
警察に見つかりたくないだろ? トーンを落として告げられては、従うしかない。高安は座席の足元に膝を抱えて座った。外の様子などほとんど分からない。窓からかろうじて見えるのは、短い間隔で去っていく街路樹と建物の壁ばかりだ。
そんな景色が少し遠のいて空が目立つようになったころ、車は坂道を上り、減速して、またすぐにスピードを上げた。
「もういいぞ」
斎藤はバックミラー越しに、サングラスの奥の目元を緩めた。どこか楽しそうなのは気のせいだと思いたい。
「シートベルト締めろよ」
「そんなことより、ここどこだよ」
「高速道路だな」
「それは見りゃ分かるっての」
果てしなく続く平べったいアスファルトの上を何台もの車が走っていた。渋滞するほどの数ではないが、混んでいないというわけでもない。
高安は座席に座り直して、運転席を軽く蹴った。
「説明してくれんだろ?」
「そうだな」
「なにかあったのか?」
「ちょっとコンビニで」
「コンビニで?」
「警察のお兄さんに声を掛けられた」
「はぁ?」
ドラマのような展開に思わず殴り飛ばしてきてしまったと言う。何が思わずだ、立派な暴行だ、公務執行妨害だ。
「なんで警察が?」
「誘拐犯のアパートの近くだからじゃないか」
「誘拐?」
「どう考えても、俺がやってんのはそういうことになんだろ?」
「違う、誘拐なんかじゃない!」
「誘発したお前が言っても説得力ねぇよ」
「笑い事じゃねぇ」
身を乗り出して斎藤の肩を掴み、短い爪を立てた。
「警察は、あんたをもう、知ってるってことなのか?」
「顔見てから声掛けてきたし、そうなんじゃないか? 金下ろしてたら急に肩叩かれたもんでびびったわ」
それから逃げきるまでにああなっただのこうなっただの、状況を事細かに説明し始めるのを制して、
「警察から、逃げてきたのか?」
「そうじゃなかったら、お前を車に乗せてこんなところ走ってないよ」
背後でなにかが倒れる音がした。三列目の座席が折りたたまれて出来たスペースに、コンビニの袋から飛び出た水やスポーツドリンクのペットボトルが散乱していた。
「本当は栄養ゼリーとかも買おうと思ってたんだが、お前が何食べれるか聞くの忘れてたんだよな」
「俺にも分かんねぇよ」
病院で食べていたのは、味気ない粥や、野菜のすりおろしみたいなものばかりだった。多少調味料は使っているのだろうが、コンビニものを自分の胃袋が受け入れるかは、試さないと分からない。
「なら、サービスエリアで色々買って来るから、お前は待ってろ」
「は?」
「金の心配はしなくていいぞ。たっぷり下ろしてきたからな」
斎藤は助手席のリュックサックを叩く。違う、そういうことじゃない。
「そのサービスエリアで、俺は降りる」
「降ろさねぇよ」
「そもそもあんたと一緒に逃げるなんて言ってないだろ」
「一緒に逃げないとも言ってないな」
「大人が屁理屈言うなよ」
「話はまだ終わってないって、言ったよな?」
怒気を孕んだ声に、高安は背中を丸めた。どうしてそこまでムキになるのか。今まで自分が、どれだけ生意気なことを言っても、こんな感情の返し方はしなかったのに。
「……なんで」
問いかけるも、返ってくるのは沈黙だけだった。
重苦しい空気のまま、車はサービスエリアに到着した。
「すぐ戻るから」
エンジンを切り、斎藤は飲食店と並ぶコンビニに駆けていく。途中、一度振り返って、指をさしてきた。
(逃げるなよってか?)
高安はそっと、外の様子を窺った。行き交う人はそこそこいるが、公衆トイレが近い位置あった。あそこに隠れることができれば、どうにかなるかもしれない。意を決してドアを開けた。
その瞬間、けたたましい電子音が鳴り響いた。慌ててドアを閉めるが、音は鳴りやまない。止める方法など知らない。出て行こうにも、人の目は車に向けられている。
しくじった。盗難防止のカーセンサーなど今時どんな車にもついている。なぜ忘れていたのか。浅慮だった自分を責めていると、ふいに静かになった。
「おまたせ」
運転席にのしりと座る影に恐る恐る顔を上げると、斎藤がにやりとしていた。
「早すぎんだろ」
「走ったからな」
確かに息は、荒かった。ビニール袋を押しつけられ、戸惑う間もなく車は走り出した。これでは降りるに降りられない。高安は観念して、頬杖をついた。
高速道路の風景は色気のないフェンスと、だだっ広い田園地帯と、変化の乏しい晴天の空ばかりですぐに飽きたが、気まずくて前は向けない。
「やっぱ逃げようとしたか」
「降りるって言ったろ」
「はいはい」
「馬鹿にしてんのか」
「してないって」
「嘘つけ」
「はいはい」
あやすような対応に腹が立つ。適当にいなされたのが余計ムカつく。だけどムシャクシャした気持ちの中に安堵が含まれているのも事実で、さらに腹が立つ。
「寝る」
「寝るのか?」
「おう」
宣言したその身は、すでにシートベルトを外して横になっている。完全なる不貞寝だ。-毛布を首まで引っ張り上げると、煙草の移り香に嗅覚が反応した。
「エアコン寒いか?」
「そうでもない。けどちょっと煙草臭い」
「喫煙者なもんで」
「体に悪いぞ」
「そうだな」
ほらまた、適当だ。高安は目の下まですっぽりと毛布を被った。
どこに続いているのか分からない道を、車はひたすら走る。フェンスと空しか見えなかった景色は、いつの間にか山に入ったようで、緑が目立つようになっていた。体は気怠いのになかなか寝入ることができなくて、丸くなり、時折夢の淵に引っ張られるようにして時間を過ごした。
細かい振動の後、トンネルに入った。どこに向かっているのか、見当もつかない。しかし行き先を、高安は聞かない。ぱっ、ぱっ、と明滅するオレンジ色が鬱陶しくて目を閉じた。
「寝たのか?」
薄く目を開けると、もうトンネルの外だった。眠りの中に半身浸かっていた高安は、寝返りを打って背を向けた。
「よしよし、ようやく寝たか」
きっとバックミラー越しに自分を見ているのだろう。夢と現実を行ったり来たりしながら、カーナビをいじる音を聞いた。かなり控えめな音量でラジオが流れ出す。
「素足なんだから、何か踏んだら危ないだろうが。ていうか、病院着で外歩いてたら普通に捕まるぞ。認知症のじいちゃんみたいにな」
独り言か、はたまた寝ている高安に語りかけているのか、ラジオにかき消されそうな声量である。
「まだ手ぇつけてないよな」
言わずもがな、食事のことだ。ペットボトルはシートの向こうで散乱したままであり、サービスエリアで渡された袋は自分の足元でぐしゃぐしゃになっている。中身は栄養ゼリーとチョコレート、飴玉だった。
「口で溶かすだけのものだったらいけると思ったんだけどなぁ、無理だったか」
そんなことはない。あまりに食事が摂れないときは飴をもらうこともあった。味はいまいちだったが、それで栄養が摂れるのだと言われた。もちろん市販品ではない。チョコレートは出されなかったが、食べることはできるはずだ。少なくともただの飴よりは栄養価が高い。
「レトルトの粥がなかったのはイタいな。いっそおにぎりでも買ってくればよかったか」
俺のことばかり。自分のことも考えろよ。高安は毛布に顔をうずめる。
「とりあえず服だな、靴も買わねぇと。でも、こいつ車に置いてったらまた逃げようとするかもしれないしなぁ。いっそのこと縛っとくか。いや、それはさすがにまずいよな」
自分を逃がす気はないらしい。少なくとも斎藤は、今後も共に行動することを前提として考えているようだ。
いつまで、どうやって、なんのために、あんたはこんなことをするんだ?
喉まで出かかった言葉を飲みこんで、高安は完全に瞼を下した。ここまで来て、連れ出してくれと頼んだことを後悔していた。何もかもから逃げ出したいという衝動に駆られて願望を口走ったはいいが、逃げるなどという覚悟は全くできていなかった。
それなのに、この男なら本当に連れ出してくれるのではないかという期待が、自分を突き動かしていた。そして高岡は、十分すぎるほど手際よく脱走を手伝ってくれた。
迷惑をかけたくないという思いだけはあった。駅に行ったところでそこから先の道はなかった。忍び込むのが無謀だなんて、自分が一番分かっている。ただ早く出て行かなくてはいけないと、頭に浮かんだ場所をでっちあげただけだった。そして心のどこかで、この男は自分を放り出したりしないとも分かっていた。
「逃げて、どうするつもりだったんだ」
寝てしまいたいのに、声が意識に追いすがって離さない。
「無銭乗車なんて最近の漫画でもやらねぇよ。サービスエリアで降りて、そっからどうするつもりだったんだ?」
(どうもこうも、その先なんてない)
逃げた先に救いがあるなんて思っていないし、漫画や小説みたいな都合のいい展開が現実で起きるわけがないとも分かっている。それを、どうするつもりか、なんて。
「そんなの、俺が聞きたいよ」
唇が音もなく呟く。するとそれが通じたかのように、
「無計画なところは、まだガキだよなぁ」
くくっと声を上げたのを最後に、斎藤は黙った。代わりにラジオのナビゲーターがピックアップした曲が耳に届いた。
何を語っているのかさっぱり分からないが、どこかで聞いたことのあるクラシックのメロディーと落ち着いたアーティストの声と、それに被せて歌う斎藤の声は心地よかった。
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