第六話
車を運転するピエロというのは、傍目にはいかがなものだろう。後部座席のポケットに運よく残っていたマスクでメイクを隠しているが、注視されればすぐにばれる。目立つ執事服のジャケットは高安に被せた。その下から時々、ぐしゃという水音と堪えるような嗚咽が聞こえてくる。
更衣室のロッカーに立ち寄る余裕はなかった。スマホも財布も着替えも、すべて置き去りにして病院を飛び出したのだ。ズボンのベルトにチェーンでつないでおいた家と車の鍵だけが救いだ。行き先など決まってはいない。そもそも連れ出してくれと頼んだ本人が後部座席でダウンしている。
大通りから抜けて、人気のないコンテナ倉庫の前に車を停めた。
「なあ、俺はどこに行ったらいい?」
対向車が見えて、斎藤は後部座席を振り返る格好で顔を背けた。高安は答えない。繰り返す浅い呼吸が震えていた。
「分かった。じゃあ、俺の家に行くぞ」
移動手段以外に自分たちは何も持っていない。これからどうなるのか、何が必要になるのかも分からないが、じっとしてはいられなかった。
極力大きな道を使うことは避けた。普段は使わないルートをカーナビとにらめっこしながら走り、いつもの倍近い時間をかけて自宅に到着した。周囲に誰もいないことを確認すると、築数十年のボロアパートの二階まで、高安を抱えて走った。焦りすぎて鍵を取り落しながらも、なんとか玄関になだれ込んだ。
「おい、生きてるか?」
「だから、勝手に殺すなっての」
目元が赤く腫れているものの、高安は落ち着いていた。離せともがく体をそっと下ろす。
「ベッド使っていいから、横になってろ」
素足で短い廊下を進む背中に声をかけて、斎藤は洗面所に入った。マスクをはぎ取り、せっけんを乱暴に泡立てごしごしと顔料を落としていく。水が飛び散るのも構わず洗い流して、ようやく一息つけた。
鏡の中から、少し色黒い男が斎藤を見つめ返してくる。良かった、思っていたよりも顔色は悪くない。頬を叩いて気を引き締めた。
高安は大人しくベッドの上で寝ていた。ただし、眉間にしわが寄っているせいで、寝ているというよりも何かに耐えている様子だ。
「疲れたか」
「そこそこには」
「そうか」
小さく頷いて、高安が体を起こした。
「話があるんだ」
「そのままでいい」
床に降りようとする体を押しとどめてベッドの縁に座らせると、斎藤も隣に腰を下ろした。
「まず、ありがとう。病院から出してくれて」
「おう」
「とりあえず、最寄り駅の場所を教えてくれないか?」
「なんでとりあえず駅の場所聞くんだよ」
身長の差があるため、真横に座る高安の表情は読みにくい。うつむいた拍子に髪が垂れて、顔が完全に見えなくなる。
「子どもの足で逃げようってんなら、電車かバスしかねぇだろうが」
「逃げる?」
「あんたに迷惑はかけない」
「待て待て待て待て」
話についていけないと、斎藤はこめかみを指で押さえた。
「お前、金持ってんの?」
「持ってるわけねぇだろ」
「じゃあ、どうやって電車やバスに乗るって?」
「ばれねぇように忍び込む」
「そんな漫画みたいなこと、できるわけないだろ」
まだ湿る前髪をかき上げ、がしがしと乱した。
「一応聞いておく。お前、病院出てからどうするつもりだったんだ」
「どこか、遠くに行くつもりだった」
「どこかって、どこだよ」
「逃げられるなら、どこでも」
「なにから逃げるっていうんだ」
「なにもかもから」
「なんだよ、それ!」
「聞いてくれ」
斎藤を諌めるように、手を掲げた。
「連れ出してくれた以上、あんたには全部話しておきたい」
よくある話だと前置きして、高安は語り出した。
「気づいてるかもしれないが、俺の家はそこそこ金を持ってる」
「だろうな」
「父さんが株で大儲けして、一代で金持ちの仲間入りをしたらしい。それが、母さんと再婚する前の話。もう六十の爺さんだよ。俺は前の嫁が残した姉妹と一緒に育てられた」
何度も話してきたことのように、語りは流暢だ。
「仲が悪かったのか?」
「そんなことはない。姉さんたちは母さんに懐いたし、母さんもみんなに優しかった。父さんも……、父さんも優しかった。だけど、俺のことはちょっと嫌っていた」
「なんでだ?」
「性格が合わなかったんだよな、俺たちは」
本当に十歳の子どもかと疑いたくなるほどに淡々と、自身の生い立ちを語る。
「ある日、俺の体は食べ物を受け付けなくなった。食べることはできても、あとで吐いちまった。体調不良だと思ったけど、三日たっても一週間たっても治りゃしない」
「それは、今もか?」
「拒食症だって、診断されたよ」
食べることは好きだったし、すでに痩せていたからむしろ太りたかったのだと、口を開けて笑う高安の頬が、薄い肉のせいで落ち窪んで見えた。視線が下に落ちていき目に留まったのは、今はごみ入れとして使われている、かつてはパンとお菓子でいっぱいだった紙袋であった。
「俺、そんなことも知らずに食えだなんて」
「知らなかったんだ、仕方ないだろ」
斎藤は仰向けに寝転がった。スプリングの軋みが収まってから、高安は話を続ける。
「元々体は強くなかったし、即入院が決まった。それが一年くらい前になるのかな。退屈でよく部屋を抜け出してた。あの頃はまだ点滴もなかったしな」
当時を思い出したのか、細く、骨の浮いた脚をぶらつかせた。
「初めは頑張って食ったんだよ。病院食ってまずかったけど、拒食症の人間に適したもんだとかで、吐く回数は少なかった。でもそのうち、食べ物の味が分からなくなっていきやがった。味はあるって分かるんだが、甘いとか辛いとか、舌が麻痺したみてぇに曖昧になった」
「味覚障害ってやつか?」
「さぁな。でも、同じ説明をしたら次の日から点滴がつけられた。食事の量は変わらなかったが、口に入る量はどんどん減っていった。何を食べても吐いちまう。コップ一杯の水を飲んでも、胃がひっくり返ったみてぇに吐き気がした。そうこうしてるうちに、このざまだ。専属の看護師をつけたからいいとでも思ったのか知らねぇが、父さんは一度も俺の顔を見に来やしなかった。そういえば、母さんと姉さんも来なかったな。あいつに止められたのか、自分たちの意思かは知らねぇがな」
斎藤は想像した。
広くて埃っぽい部屋で、日に日に細くなっていく体を持て余し、壁越しに聞こえてくる同年代の子どもの、走り回る音や家族との会話を聞きながら、高安は来訪者もなく、一人読書をする……。
「ずっと、一人だったのか?」
「その言い方はやめろ」
「ごめん」
盛大に鼻をすする音に高安が振り返ると、斎藤は両手で顔を覆い涙していた。大粒の涙が頬を伝ってシーツに染みを作っている。
語るうちに熱いものがこみ上げていた高安だったが、大の大人の、しかも男の号泣を前に、完全に泣くタイミングを逃してしまう。
「泣くな、うぜぇ」と蹴ってきた高安を、しかし叱ることはせず、斎藤は小さな体を力いっぱい抱きしめた。苦しいと背を叩かれるのもお構いなしに、わぁわぁと泣いた。
「泣きすぎだよ、あんた」
「お前が泣かなさすぎるんだよ、馬鹿」
「そんなことねぇ」
「だめだー、ぜんっぜん止まらねぇよ」
涙と鼻水が拭っても拭っても止まらない斎藤を見て、被害を受けるのはごめんだと、高安は身をよじって拘束から逃げ出した。
「そんなに、俺が哀れか」
自虐的に、乾いた唇が三日月の形を成す。
「あの看護師も俺のことを知って泣いた。かわいそうな子だってな」
「馬鹿野郎、俺は悲しんでんだ」
「同情で泣いてんなら、もっかい蹴るぞ」
「だから、悲しいんだって言ってんだろ」
「悲しい悲しいって、結局かわいそうな奴だって思ってんだろ!」
「誰かのために泣いて何が悪い!」
じん、と薄い壁が震える。それほどの大声であった。見上げる高安の顔が、みるみるうちに歪んでいく。
突き放すように立ち上がった斎藤は、執事服を脱いでジーンズとポロシャツに着替えた。転がっていたリュックサックを引っ掴み、振り向きざまに高安を睨む。
「コンビニ行ってくる。勝手に出てくんじゃねぇぞ。話はまだ終わってないからな」
そう吐き捨てて、出て行った。
施錠の音を聞きながら、高安はゆっくりと顔を上げた。
泣いたせいで少しぼんやりとする頭で部屋を眺める。ほどよく散らかったワンルームのベランダは締め切ってある。両隣の部屋から生活音は聞こえない。
(何も知らないくせに)
看護師は自分の事情を全て知ったうえで泣いた。お愛想だとバレバレだった。だけど、斎藤は違う。誰かに怒鳴られたのはいつぶりだろうか。肩口の湿った感触は、別な人間の涙だった。
「喜んでんじゃねぇよ、俺」
ベッドに身を沈めて目を擦った。多少快方に傾いたとはいえ自分は病人である。泣くという行為は結構体力を使う。
(ここを出る前に少し休んでおこう)
迷惑はかけない。その意思は変わっていない。しかし病院の布団よりも固いマットレスの寝心地が思いのほか良くて、瞼を閉じた瞬間、高安は深い闇の底へと引っ張られていった。
――このときさっさと出て行けば、未来は変わっていたのだろう。
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