第二話
煙草を吸った直後に病院に入るのは初めてであった。背徳感のせいでひどく居心地が悪い。十数分前の記憶を頼りにつきあたりの病室までたどり着いた。大きく息を吸って、吐く。今度はノックしてから入った。返事はなかった。
高安はまた寝ていた。ベッドの下から椅子を引き出すと、座面は埃を被っていた。枕元のティッシュでこれを拭くと何枚も真っ黒になった。花瓶の花といい椅子といい、来訪者の存在がどんどん希薄化していく。
首まで伸びた髪が高安の顔にかかっていた。風呂に入っていないのか微かに臭う。改めて見ると、布団の起伏が細い身体のラインを浮き彫りにしていた。
こいつほんとに生きてるのか? と確かめたくなるほど生気が感じられない。眠っているというだけでこれほど印象が違うとは。
髪を分けてやろうと戯れに手を伸ばした。
「何しに来たんだ」
「ひぃっ」
額に触れる直前、高安が目を開いた。椅子からずり落ちそうになった斎藤を、目を細めて見つめる。
「脅かすなよ」
「あんた、さっきもだけどビビりすぎ。てか、何でまた来たんだよ」
「いや、忘れ物があって……。って、おい大丈夫か」
起き上がるのを手伝おうと思わず手が出た。思い切り睨まれたが、無視して腕を背中に回す。飛び出た骨の感触。
「お前、ちゃんと食ってるのか?」
「あんたには関係ない」
「こんなにやせ細ってたら、誰だって気になるだろ」
「余計なお世話だ」
ここで病名を聞くこともできたが、斎藤は足元に倒れていた紙袋を拾い上げると、パンの袋を二つ取り出して、
「どっちが食いたい」
高安は顔を背ける。
「どっちもいらねぇ」
「あ、病院食しか食べちゃいけないのか?」
「そういうわけじゃねぇ」
「じゃあ、なんでだよ」
そのとき、ノックもなく扉が開いた。
「あら、ピエロさん」
その看護師はピンク色の唇で微笑んだ。小顔で愛らしい顔立ちをしている。スタイルもいい。
斎藤がつられて笑うと、ベッドの上の小さな方から馬鹿を見るような視線を向けられた。仕方がない、相手は美人さんだ。
「晶ちゃん、ピエロさんとお友達だったの?」
「おい、ちゃん付けはやめろっていつも言ってんだろ」
憎悪すらにじませ、高安は看護師を睨みつけた。そこまで怒らなくてもいいだろうに。
「で、ピエロって?」
「知らないの? この人ね、手品を見せてくれるピエロさんなのよ?」
「あの、看護師さん」
自分がピエロということは子どもに伏せておく、という病院との約束をあっさりと破られて斎藤は焦った。看護師は慌てて口を塞いだが、もう遅い。
「このことは他の子には内緒ね?」
唇に指を当てる仕草の色気は抜群だったが、高安は蚊でも払うように手を振った。
「なぁ、黙っててくれるか?」
「心配しなくても、誰にも話さねぇよ」
「そ、そうか」
「よかったですねぇ」
(そもそもお前のせいだ)
他人事のように言う看護師に苛立つも、ここで声を荒げてはあまりにも大人げないのでぐっと堪える。
「でも、勝手に病室に入っちゃだめですよ?」
「え?」
「ピエロさん、晶君とは面識ないですよね? だめですよー、常識ある大人として」
口調がだんだん崩れてきた。これが素の喋り方か。悟った斎藤の目には、先ほどまで色っぽいと思えた仕草の一つ一つがわざとらしく映る。
会うのは二度目だといったら余計にこじれるだろう。ぽりぽりと頬を掻いた。
「ああ、すみませんでした」
「じゃあ、これから点滴を替えたりするので」
「あ、はい、はい、失礼します」
立ち上がった斎藤の鼻先を、天井から垂れるカーテンが横切った。さっさと出て行けという意思表明としては効果覿面である。
結局自分は何をしに来たのだろうか。
ゆっくりと閉まる扉を背に、悶々と晴れない心持ちであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます