道化の花冠
道草屋
第一話
キャンバスにパレットの絵の具を引っ掻けるような、あるいは原稿用紙にペンのインクを落とすような、それは瞬間的に空間を彩った。その場だけを切り取れば、とても病院の中とは思えない。
しかし斎藤の掌から現れたのは人工的な塗料ではなかった。造りモノには出せない艶を持つ花であった。
一つなんてけち臭いことはしない。続けて花弁を撒いていくと、子どもたちはつかみ取ろうと手を伸ばす。病院着から覗くその腕に注射の痕やガーゼが当てられているのをちらと見つつ、斎藤は両手からこぼれるほどのフリージアの花をおしげもなく宙に上げた。
悲鳴を伴った歓声に口角が上がるが、患者を見守る看護師たちの表情は、やりすぎだと語っていた。
潮時だ。終了の合図にシルクハットをちょいと持ち上げて恭しくお辞儀をする。続きの要求と共に拍手が起きた。物言わぬピエロとしてとびきりの笑顔で顔を上げれば、小さな方々の後ろに控える大きな方々と目が合う。
彼らは苦笑し、我が子に合わせて手を叩いていた。頬まで裂けた口はそれでも笑い続ける。斎藤はもう一度体を折ってお辞儀をすると、ピエロ、ピエロと呼ぶ声に時々振り返りながら小児病棟のフロアを後にした。劇場でいうところの、舞台裏に引っ込む、だ。
向かった先は清掃員控室であった。本来彼らが使うこの部屋を、特別に間借りさせてもらっているのだ。斎藤は足早に入り口を入った。シーツのかごやゴミ袋が積まれた狭い通路の先で、おじさんおばさんがくつろいでいた。休憩時間のいつもの光景。彼らはピエロを見ると親しげに手を上げた。斎藤もそれに倣った。
空いていたパイプ椅子に背中を預けて脱力する。とても疲れた。調子に乗ってやりすぎた。チェーンでつないだ鍵がポケットの中で擦れて痛い。昔バイクを盗まれてから、斎藤は家と車の鍵を肌身離さず持ち歩くことにしている。
無造作にシルクハットとかつらを取る。七月とはいえもう涼しくはない時期だ。エアコンの風が心地よい。蒸れた頭をガシガシと掻いてしばし呆けていると、どこからともなく冷茶のコップやお菓子が目の前に置かれてゆく。
「お疲れさま!」
「暑かったでしょう?」
「病院なんてクーラーガンガンにかけてるような場所じゃないんだから」
「はやくお茶を飲みなさいって」
囲むようにしておばさんたちにせっつかれ、斎藤は固まってしまう。ありがた迷惑なんて言ったら失礼だが、妙齢を一線も二線も超えた奥様は押しが強すぎるのだ。
「おいおい」
と新聞を読んでいたおじさんが見かねて言う。
「斎藤君はメイクをとらにゃいかんのだぞ?」
その一言におばさんたちははっとして、「早く行きなさいな」と斎藤を立たせた。
「じゃあ、すみません」
おじさんの背中に頭を下げてから、斎藤は更衣室の薄っぺらい扉を押し開けた。ロッカーがずらりと並ぶその奥、共用スペース一角に設けられた洗面台が、仮の化粧台だ。
メイク落としと一緒に持ってきた顔料をロッカーから取り出して、壁に貼られた鏡の前で開封した。おじさんには申し訳ないが、今日はまだこのピエロメイクを落とすつもりはなかった。
目の周りをぐるりと青色で囲い、赤いラインを下瞼から頬に向けて引いた。付属の筆では上手く塗れず、代わりに指を使ったのが幸いして、思った通りの模様が描けた。すでに唇から頬にかけては大きな口を模して赤く塗られており、ラインはそこに達するようにした。
裂けた口に血の涙が流れているように見えて少々不気味であったが、ピエロはもともと異形の毛色が濃いのだからよしとする。ついでに右側だけぽつぽつと青色を散らすと、そばかすのピエロが完成した。
白い顔に真っ赤な唇と縮れ毛かつらの時点で、服装を少し似せれば某キャラクターのパクリになってしまう。そうでなくても以前から物足りなさを感じていた斎藤は、数日前から色々なメイクを試していた。そして、たった今出来上がった新しい顔は、満足に足るものであった。
改めてシルクハットとかつらを被ると、鏡に映る自分はピエロとして申し分ないと妙な自信さえ湧いてくる。
子ども相手のイベントとはいえもう少しビジュアルに気を使ってくれないか、という声もこれで改善されるだろう。斎藤は鏡の中のピエロと共にしばらくにやついた。
この病院で手品師のピエロを演じるようになってもう半年になる。女が使うものだと抵抗があったコットンタイプのメイク落としは、すっかり手に馴染んでいる。顔料を落とし、持参の液体せっけんで顔を洗うと、少々色黒な肌が出現する。パーカーとジーンズに着替えてリュックサックを背負えば、いよいよ同一人物とは思えない。
激安店で買ったコスプレ用の執事服とかつら、ワンコインの紙製シルクハットをロッカーに納めながら、苦笑されても仕方ないよなと思い出して笑う。
あり合わせで作った自分の姿は、小さな方々が見れば手品師のピエロ、大きな方々が見ればただの滑稽な男である。斎藤はなんとなく疲れた気持ちで、大きく息を吐いた。
更衣室を出た途端、待ち構えていたおばさんたちにパンやお菓子の入った紙袋を手渡された。
「斎藤君は若いのにえらいわねぇ」
「すっぴんもかっこいいわよ」
「ごはんちゃんと食べてる?」
「これ、おばさんたちからね」
変てこなピエロも彼女たちにしてみれば、孫や子どもに近い年頃の青年である。初めはよそ者が来たと警戒していたが、顔を合わせるうち今のようになった。
「すみません、いつもありがとうございます」
すっかり甘やかされるようになり、その行為をありがたく受け取っているのが斎藤という男である。
「じゃあ、お先です」
「お疲れさま」
「また来週ね」
「はい、また来週」
にこやかに別れてその顔のまま廊下に出たら、通りすがりの看護師に怪訝な顔をされた。相手はすぐに表情を引き締めうつむいたので、斎藤もわざわざ弁解するのはやめて会釈をするだけに留めておく。
先ほどまでピエロを演じ子どもたちと騒いでいたフロアに戻ると、掃除はもう始まっていた。
「遅くなって、すみません」
散乱した花を片づけていた看護師の一人が無言でちりとりとほうきを差し出してくるのを、平謝りの言葉と共に受けとった。後始末も仕事のうちだ。荷物は床に下ろしても椅子の上に置いても邪魔だと言われるので持ったままである。
床に張り付いてしまった花弁に苦戦する斎藤とは異なり、看護師たちは子どもたちが座る場所に敷いたマットや、〈ピエロの手品ショー〉と色とりどりのペンで書かれた画用紙が貼りつけられているホワイトボードを、言葉も交わさずてきぱきと片づけている。
花弁粗方を回収したら、今度はモップをかける。手間だが確実な方法だ。すでにフロアには斎藤しかいない。昼の穏やかな陽日が病院独特の臭いと混ざり合って、斎藤を包んでいる。
掃除を終え、道具も片づけててナースステーションに行くと、休憩中らしい看護師たちが話しているのが聞こえてきた。
「あのピエロってさぁ、どうにかなんないの?」
「どうにかって?」
「毎度毎度片づけさせられるじゃん? あれよ、あれ」
背格好から先ほど掃除道具を渡してきた看護師だと分かった。声をかけるのはためらわれ、かといってあいさつもなく帰ることはできず、斎藤は廊下の壁に背中を預けて、紙袋を抱え直した。
「どうやって出してんのか知らないけどさぁ、造花じゃないんでしょ?」
「触ったことありますけど、本物の花びらだったと思いますよ?」
「前に子どもたちが部屋に持って帰って、干からびたのが床に散らばってたことがあるのよ」
「えー、そんなことあったの」
「自然のものを使ってるって評判はいいけどさぁ、こっちの身にもなってほしいわよねぇ」
「片づけが大変ですよねぇ」
「でもあれが造花だったら、見るのも馬鹿馬鹿しいけどね」
「ピエロさんって、今いくつでしたっけ?」
「確か、二十五だったか六だったか」
「うっそ、もう社会人なんですか。てっきり学生かと思ってましたよ」
「仕事してないんですかねぇ」
「フリーターだって聞いたわよ?」
「なにそれ、ボランティアより仕事優先した方がいいんじゃないの?」
患者の前で見せていたあのしとやかな振る舞いはどこへいった。というのが、一連の会話を聞いた率直な感想であった。少なからず彼女たちの仕事ぶりに感心していた斎藤の中で、何かが音を立てて崩れていった。
今日は挨拶なしで帰ろうか。しかし、何も言わずに帰るのは失礼だ。逡巡の末、病棟を回って時間を潰すことにした。そこそこ大きな病院であるから、小児病棟だけでも結構な広さがある。一回りして戻るころには彼女たちの話も終わっているはずだ。
ナースステーションと手品を披露するフロアと控室以外に、足を運んだことはなかった。慣れない廊下を、斎藤はどこか新鮮な気持ちで歩いていく。
時折子どもの声が聞こえてくる。それはなにかにはしゃいでいたり、家族との会話であったり、看護師に対する一方的な口論であったりした。
もちろん、泣き声もあった。聞こえるたび、なぜ泣くのかと立ち止まってしまう。自分が花を出して見せたら笑ってくれるだろうかと、余計なことまで考えてしまう。再び歩み出す足は重い。
皆が皆、ピエロを見ていたわけじゃない。笑わせてやれたのは、入院している子どもの半分にも満たない。その事実を嫌が応にも目にしてしまう。同時に、看護師たちが自分を嫌うもう一つの理由に気づいた。常に患者の喜怒哀楽に付き合わざるを得ない彼女たちにしてみれば、その場しのぎの娯楽を与えるだけ与えて、他の面に関与しないピエロは、忌々しい存在だったのだろう。
病室の前で足を止めては、扉のそばに小ぶりのひまわりを置いていった。気づかれないように、そっと、こみ上げる熱を押さえつけて。
やがて、長い廊下のつきあたりまでやってきた。それまで扉は開けてあったのに、その部屋だけが閉まっていた。空き部屋かと思ったが、名前の札がちゃんとある。
「高安晶、十歳」
ゆっくりとなぞるように読み上げてから、吸い込まれるように中へ入った。
広さは四人用と同じくらいだが、ベッドは一つだけだった。内装も少し凝っていて、いわゆる特別待遇なのだと理解した。
ベッドに横たわる子ども以外に人はいない。半分だけ開いた窓から吹き込む風に、レースのカーテンが揺れている。
点滴スタンドの隣、ベッドサイドのテーブルの上。枯れて元の色さえ分からないバラの花が、花瓶の中でくたびれていた。斎藤は心臓を握られたような痛みと共に硬直した。
それまで溜まっていた熱が弾けて、両の頬を涙が伝う。
「なんであんた、泣いてんだ」
「ひぃっ」
高安晶はいつの間にか体を起こしていた。斎藤は驚きのあまり裏返った声を出してしまう。仏頂面というのはこういうものを指すのだろう。高安はひどく不機嫌そうだった。
「病室、間違ってるぞ」
さっさと出て行けと言わんばかりの口調である。多分本当にそう思っているのだろう。斎藤は手の甲で涙を拭った。
「間違ってない」
「は?」
「ここであってる」
「何言ってんだ、あんた」
十歳にしてはいささか過ぎた口の利き方をする。そんなことを考えながらベッドサイドに歩み寄ると、花瓶を掴んで中身をゴミ箱に捨てた。水は一滴も出てこなかった。
「花を入れ替えに来たんだ」
いよいよ訳が分からないという顔をする高安を無視して花瓶の口に掌をかざし、斎藤はほとんど乱暴に手を払った。手品として魅せるための気取った手つきにはしたくなかった。速い動きであったため、内側から湧いて出たように見えたかもしれない。
洞穴のように黒々としていたそこには、純白のすずらんが挿されていた。
「それじゃ」
呆気にとられる高安から逃げるように部屋を出た。紙袋を忘れていたが、戻る気にはなれなかった。
斎藤はナースステーションにおざなりな挨拶を済ませ、まっすぐ駐車場に向かった。猛烈に煙草が吸いたかった。ワゴン車のドアを閉めながらダッシュボードの煙草を引っ掴む。邪魔になったリュックサックは助手席に放り投げた。
なんで、あんた泣いてんだ。
煙を燻らせながら思い出したのは、変声期前にしては低い声と、冷めきった仏頂面だった。普段目にする子どもたちよりも痩せていた。シーツに負けず劣らずの青白い肌だった。ちゃんと食べているのだろうか。斎藤にとって点滴は、食事が困難な患者の栄養補給源であった。
一度気にすると、そのことが頭から離れない。斎藤は吸殻入れに煙草を押し込むと、リュックサックを掴んだ。
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