「ナイト・メア」

 蒸し暑い梅雨明け上旬のある日、俺はいつものように喫茶店の深夜アルバイトに来ていた。


時刻は深夜0時頃。


店内にふわふわと浮かぶ何かを見つけた。

真っ黒なそれは両の羽を一生懸命はためかせ、上下に揺らめき飛んでいる。

二本の触覚だけ真っ白で、それが絹のように綺麗に見えた。


「蝶々……?」


そう呟き、俺は箒(ほうき)を手に取り蝶々の元に向かった。


すると、


──カラン


乾いた鈴の音が鳴るのと同時に、店の扉が開く。


いつもの時間帯いつもの常連客、ゆるふわの長い髪に、大きな瞳にこれまた負けじと大きな赤い眼鏡。

どこか気だるそうな目をした、幼さの残る顔立ちの少女。

いつも決まって頼む飲み物がメロンソーダなので、バイト連中が彼女に付けたあだ名がメロンちゃん。


よく見ると美人だとバイト仲間の間では何かと噂になっていた人物だが、俺にとっては要注意人物だった。

この店はとにかく変な客が多い、そして変な事件も……。

兎角このメロンちゃんが関わると、毎度店ではおかしな事が多々起こる。

それも俺にとって不都合な事ばかり。

彼女はこの店の疫病神、いや死神か?

散々な言い方だがこれでもまだ言い足りない。

それぐらい、彼女が関わるとろくでもない事のオンパレードなのだ。


「あの、メロンソーダ……」


不意に目の前から聞こえた声にハッとし我に返る。


声に振り返ると、メロンちゃんの大きな瞳が俺を凝視していた。


「あ……はい」


俺は肩を落とし頷くと、踵を返しカウンターまで戻り箒を置いて相方にメロンソーダを注文した。


伝票を記入し厨房からメロンソーダを受け取ると、


「何事もありませんように……」


胸の前で十字を切る真似をしながら、俺はメロンちゃんの元へ向かった。


「お待たせしました、メロンソーダでござ……い……ます」


メロンソーダをテーブルに置いた時だった、その場の光景を目にした俺は危うく言葉を失いかけた。


テーブルにいるはずのメロンちゃんの姿がない。

それだけなら良かったのだが、代わりに一人居た……いや、正確には一体。


ソファーには一体の人形が座っていたのだ。


ああ神様……さっき祈ったばかりじゃないか……。


思わずもたげる首を上げ人形をまじまじと見る。

俺がよく知っている人形とはどこか違う、そんな異質な感じがした。


見た目はフランス人形に近いのか?


だがそれよりも更に違うのは、間接部分が球体のようになっている事。

そのせいか人形は細部に渡ってリアルな造りとなっており、ソファーに置かれた人形というよりは、まるで本当に人がソファーに腰掛けているように見える程の精巧さを見せていた。


透き通るようなエメラルド細工の瞳、見ていると何だか吸い込まれそうな気持ちになる。


「綺麗な人形だ、」


そこまで言いかけた時だった。


「うっ……」


目眩がした。


グラりと体がくの字に曲がり、壁に片手を着いて踏み止まる。


《出して》


「え?」


思わず声が漏れた。


クラクラする頭を手で抑え意識を取り戻す。


何だ今の?


突然頭の中に響いた声。

聴き慣れない女の声だった。


客ではない。

店内の客はメロンちゃん合わせ4人。

それも内3人は男だ。


出して……そう聴こえた。


当たりをくまなく見渡すが、やはり他に声の主は見当たらない。


幻聴……?


「疲れてんのかな……」


確かに、先日店長の無理言ってのお願いで、昼夜と連勤をしたが……。


今度どこかで休みをもらおう。

ゆっくり休めばこんな訳の分からない声だって聞こえたりはしないだろう。


《出して》


ビクりと体が仰け反った。


まただ、また女の声。


何なんだ今のは……。

頭の中に響く様な女の声。

メロンちゃんではない、かといって現実の声とも違うような、


そこまで考え、ふと俺は椅子に腰掛ける人形に目をやった。


駄目だ駄目だ……。


また何かよからぬ妄想をしている。

この人形の声とでも俺は言いたいのか?

ありえない。

あってはならないし、これからも起こりえないはずだ。


人間の想像力は時として目にした記憶を書き換えてしまう程の力を持つと、大学の授業で聞いた事がある。

まさしくそれだ。

違和感からの逃げ道に思考が彷徨っているだけだ。


迷いを断ち切るように頭を何度か振って人形から目を背けた。


「ただの、人形だ……」


そう言ってその場から立ち去ろうとしたその時。


「キャァァァァッ!!」


突然、耳に叩きつけるような女の叫び声が響いた。


びくりと体が強張りながらも、俺は声のする後ろを振り返る。


「な、何だよこれ!」


思わず顔が引き攣った。


俺の視界の先、椅子に腰掛けていた人形。

先ほどの愛らしく綺麗な人形の顔は、そこにはなかった。


あるのは目を大きく見開き、張り裂けんばかりの口を開け断末魔の叫び声を上げる、人形の姿。


「うわぁぁっ!!」


それを見て耐え切れず俺の喉から悲鳴が溢れ出た。


何だ?何なんだ!?

一体何がおこっているんだ!?


しかも次の瞬間、


──ガシャンッ!!


店のガラスが大きな音を立てながら砕け散った。

目の前で次々と起こる現象に考えが追いつかない。

恐怖に顔が歪み辺りを確認しようとしたが俺の脳がそれを拒否した。

必死に目を瞑り頭を振る。

とてもじゃないが直視できない。

だが突然、人形の叫び声が止んだ。

ピタリと静まり返る店内。

いつの間にか塞いでいた両耳から手を離す。

耳の根元がじんじんと痛んだ。

顔をしかめつつ、ゆっくりと目を開ける。


視界が開き、恐る恐る店内に目をやると……。


「えっ……な、何で?」


思わず口がポカンと半開きになった。


店内の様子は、俺の想像していたものとまるで違っていたのだ。


談笑する二人組みの若い男達。

カウンターでスマホをいじるリーマン風の男。

ゆるふわな髪をかきあげ、メロンソーダをすする少女……。


「メロン……ちゃん?」


思わず発した俺の声に、彼女がこちらに振り向く。


「何か……?」


そう言って、俺を煩わしそうに見る。


間違いない、メロンちゃんだ。

人形、人形は!?


急いで席を見回す。


ない、人形なんてどこにも。


「人形……は?」


「人形?」


俺の問いに、メロンちゃんは怪訝そうな顔で聞き返してきた。


しらばっくれているのか?


「いや、ここにあった人形は……」


そう言ってメロンちゃんが座っている場所を指差して見せた。


「人形なんてありませんよ?」


「えっ、だって、さっきここに人形が座ってて……あっ!ま、窓!?」


話している最中に思い出した。


そう、窓だ。

さっき突然砕け散った窓。


「窓が、どうかしましたか?」


メロンちゃんはストローの先を目の前の窓ガラスに向け、くるくると回しながら指し示めした。


そこには、けだるそうなメロンちゃん、そして口を鯉のようにパクパクさせ唖然としている間抜けな俺の姿が、窓ガラスに映りこんでいた。


傷一つ無い綺麗に磨かれた窓だ。


いやそんな……だって今さっきここで……。


全身から力が抜ける気がした。

そのままその場に座り込みたいくらいだった。


俺はメロンちゃんに何か言おうとして止めた。

代わりに軽く頭を下げ、何も言わずにその場を後にした。


カウンターに戻ると、空いている席に腰を下ろし深々とため息をつく。


やっぱり疲れてるのか……俺?


額に手を当て片肘をついてうな垂れる。


もう何が何だか分からない。

人形は?窓は?

それともさっきのは全部夢だとでも言うのか?


考えても考えてもキリがなかった。

やがで、


もういい……。


半ばヤケになり、俺は全てなかった事にしようと頭を激しく掻いた、その時。


「考えるのを、止めちゃダメ」


「えっ?」


直ぐ隣から聴こえた声だった。


反射的に隣に振り向く。

誰もいない。

いや、正確には一匹居た。


そこには、さっき店の入口付近で見た黒い蝶々が、羽を休めるようにティッシュ立ての上にじっとして止まっていた。

しかも、


「今の声って……」


そう、今聞こえた声が、さっき二度聴いた女の『出して』、あの声そっくりだったのだ。


どこだ?


もう一度辺りをくまなく見回すが、やはり誰もいない。カウンターに隠れている様子もないし……。


首を捻り考えていると、


「見つけて鍵を……あの女が持ってる。探して、あの女の矛盾を……」


蝶々を見つめ俺は言った。


「誰だ!」


まただ。また聞こえた……。

さっきまでの頭の中に響く声とは違い、直接耳に届く声だ。しかも確実に蝶々の方から聞こえてきた。

目を見開きマジマジと見るが、どこからどう見てもただの蝶々にしか見えない。


喋る……蝶々?

いやいやそんな馬鹿な。

疲れてるからって流石に蝶々の声が聞こえるって、それ完全にやばいだろ。

だいたいなんだ、女……鍵?


「鈍感……蝶々が喋る訳ないでしょ」


「だ、だよね……えっ?」


今、確かに蝶々から女の声が聞こえた。

あの女の声で……。


「ええっ!?」


椅子から転げ落ちそうになりながらもなんとか踏ん張る。


「しっ!大きな声出さないで、気付かれるでしょあの女に」


まただ。

蝶々が発した声。


「あ、あの女って……なんなんだよこれ!ていうかこれ絶対に夢だよなこれ!?」


思わず懇願するように蝶々に向かって言った。


「だからうるさいってば!」


蝶々に怒鳴られた。

夢というより悪夢だ……。


「そう、これは夢よ、悪い夢。だから……早く目を覚まして、全て夢なの!!貴方も出たいでしょ?だったら鍵を探して!全てはあの女」


女の怒鳴り声、瞬間、


「うわあぁぁっ!!」


背筋からつま先まで電流が走ったかのような衝撃が俺を襲った。

飛び起きるようにして椅子から立ち上がると、思わず立ちくらみがしカウンターに手を着いた。


ザワつく店内。

辺りを見渡すと店の客が全員何事かと俺を見ている。

気まずい沈黙が辺りに漂う。


グラつく頭を上げ、


「す、すみません!」


そう言って俺は取り繕うような笑顔で頭を下げた。


またしても一瞬ザワついたが、店内の空気がさっきよりも少し和らいだのを確認して、俺はカウンターに再び腰掛けた。


だが直ぐにハッとして辺りを見回す。


「蝶々……!?」


急いで確認するが蝶々どころか蟻一匹すらいない。


ふと、背中にまとわりつく不快さを感じ手をやった。

酷い汗だ。

シャツがピッタリと張り付いてくる。


寝汗?もしかして俺……カウンターで寝てたのか?


脂汗が滲む額を手で拭うと、俺はウォーターサーバーまで歩き、コップ一杯に注いだ水を一気に喉に流し込んだ。


生き返る……心なしか頭の中もスッキリした気がする。


よく考えろ……何かが変だ……。

疲れているからってあんな夢普通みるか?

あまりにリアル過ぎるし、現実と夢の境が無さすぎる。

いつから……いつからだ?

幻聴やら白昼夢やら、こんな事が……。


女の言葉を思い出す。


──全てはあの女


あの女って……メロンちゃんの事か?


振り返り店内隅っこのテーブルに目をやると、メロンソーダを美味しそうに口に運ぶ彼女の姿が見てとれた。


メロンちゃんが……彼女が何か知っているのか?


俺はコクリと首を縦に振り、ゆっくりとメロンちゃんの元へ歩き出した。


彼女はいつものようにテーブルに置いたノートPCで何やら作業をしている。

周りには鞄位しか荷物は見当たらない。


あの人形の姿は……やはりない。


あの時確かに見た。

美しい球体人形、吸い込まれそうなサファイアを思わせる瞳。


あれが本当に夢だったのか?


「あ、あの……」


上擦る声でメロンちゃんに声を掛ける。


「何か?」


メロンちゃんはこちらに振り返りもせず、素っ気ない返事だけが返ってきた。


「に、人形は?」


「人形?先ほども言いましたけど、何の事ですか?」


──見つけて……あの女が鍵を持ってる


一瞬、さっきの女の声が頭を過ぎった。


両の手に力を込める。


「人形は、どこ?」


「だから人形なんてどこにもないですよ?店員さん、大丈夫ですか?」


メロンちゃんが困惑した顔でそう答えた。

思わずその目から視線を反らす。


彼女の言い分は最もだ。

訳の分からない事を何度も問い詰められて変に思わないやつはいない。


やっぱり戻ろう。

俺は疲れで頭がどうにかしてる。

夢で見た蝶々の話を真に受けて何を考えてる?

どう見てもこれが現実だろ。

深夜のバイトで疲れて幻を見た。

これが事実なんだ。


「ご、ごめんなさい変な事言って、ほ、本当にすみません!」


慌てて釈明し、俺は逃げるようにしてその場を立ち去ろうと振り返った、だがその時だ、


ヒラヒラと、俺の周囲を飛ぶ一匹の黒い蝶々が……。


「あっ」


思わず手でそれを追う。


《諦めないで……探し……て、この世界の矛、》


あの声だ、弱々しく微かに頭の中に響く声、が、次の瞬間


──バシッ


飛んでいた蝶々が、手で横薙に払われた。

俺の目の前で、メロンちゃんの手によって。


「な、何を!?」


無惨にも壁に叩きつけられ、蝶々は力なくフロアの床に落ちてピクリともしなくなった。


「虫ですよ?仮にも飲食店なのですから……何か問題でも?」


俺はゴクリと唾を呑み込んだ。

言い放つメロンちゃんの瞳が、とても非情で冷たいものに感じたからだ。


「いや……で、でも」


床に転がる蝶々の死骸。

俯きそれを見る。


──ピクリ


「足が……!」


死んだ……そう思っていた蝶々の足が僅かに、痙攣するように動いたのを俺は見逃さなかった。


生きてる……。


──諦めないで


再び脳裏に過ぎる女の声。


両の手に再び力を込めた。

心の中でか細く灯っていた蝋燭の火が、大きく揺らめいた気がした。


顔上げ、もう一度メロンちゃんの顔を見る。

射すくめるような目、だが今はそれにたじろぐ事はなかった。


「人形は……あったよね?」


「またですか……しつこ、」


「人形はどこにあるの?」


言いかけるメロンちゃんに俺は再度言葉を投げ掛ける。


「いい加減にしてください……!」


そう言われ俺の体は一瞬強張る感覚に襲われた。


……堪えろ。


自分にそう言い聞かす。

眩暈がする。

冷や汗が額を伝ってポタリと床に落ちた。


存在しない人形、砕け散った窓ガラス、喋る蝶々。

どう考えても成立しない話ばかり。

なのになぜ俺は幻を追いかけている?


……俺は、狂っているのか……?


だんだんと自分が怖くなってきた。


考えれば考えるほど記憶は激しく交差し、頭の中がめちゃくちゃに掻き回されるような感覚に陥ってきた。


──見つけて、あの女の矛盾を……


女が……蝶々が言った言葉……。


鍵、矛盾?

何だ矛盾って……あの女、メロンちゃが持っている鍵……駄目だ、いくら考えても矛盾しているのは俺の方だ。

メロンちゃんはいつも通り店に来たんだ。

いつも通りメロンソーダを頼んで、いつも通りの席でノートPCで作業して、そんなメロンちゃんに俺は……俺は……。


その瞬間、俺の記憶に何かが触れるような気がした。

それはほんの小さな綻び。


だが、その綻びが俺を現実へと引き戻すきっかけになるには、十分過ぎる答えだった。


「あ、あの!?」


瞬間、俺はそう口にしていた。


「なんですか……また同じ事を、」


少し怒ったような口調でそう言いかけたメロンちゃんの言葉を、俺は遮るようにして口を開いた。


「何で……何であの時、返事を返したの?」


「返事?何の事?いい加減にしないと、」


俺はメロンちゃんの言葉を無視して話を続けた。


「俺は今まで一度もメ、メロンちゃんなんて呼んだ事はない!なのに何で、何であの時俺がメロンちゃんって呼んだ時「何か?」って、返事を返したんだ!?」


メロンちゃんの表情が変わった。

張り詰めたガラスのように強張りピクリとも動かない。


その瞬間、俺は肌が粟立つほどの悪寒を感じた。

ざらつく肌が、冷たい冷気に晒されているかのようだった。

蒸し暑い七月の上旬だというのに、真冬のような寒さ。

明らかに店内の空気がおかしい。


ここに居たくない。

今すぐここから逃げ出したい、素直にそう感じつつも、俺はなんとかその場に踏み止まった。


メロンちゃんは未だ何も答えない。

不気味な沈黙に息が詰まりそうだった。

その無表情の顔からは何も読み取れず、さっきから不気味さだけが増すばかり……。


目の前に居るメロンちゃんは、本当にメロンちゃんなのか?

それとも、俺の知らない……得体の知れない何か……。


俺の想像力を、全身に絡みつくような恐怖が支配しようとしていた。


メロンちゃんの背後から、無音の闇が迫ってきそうな感じだ。

静かに迫るその闇に、今にも呑み込まれそうな……。


だが次の瞬間、


──ガシャンッ!!


「な、なんだ!?」


突如窓ガラスが割れた、一枚、二枚、三枚、立て続けに店の窓という窓のガラスが次々に割れていく。


「う、嘘だろおい!!」


店内にはいつの間にか、あの時の人形の断末魔まで響きだした。


怖い、怖い怖い怖いっ!


目を瞑って耳を強く塞ぐ。

歯を食いしばり頭を無我夢中で何度も強く振った。


が突然、


──トントン


不意に誰かに肩を叩かれた。


「えっ?」


反射的に振り向くとそこには、


「店員さん?」


聞き覚えのある声。


「うわぁぁっ!」


思わず目を見開き声を上げた。


声の主は、


「どうしたんですか、店員さん?」


そう、声の主はメロンちゃんだった。

俺の目の前には先程の不機嫌そうなメロンちゃんではなく来店したばかりの、あの気だるそうな彼女の姿がそこにあったのだ。


「あっ!」


ハッとして辺りを見渡す。


窓は割れていない。


メロンちゃんの席には……。


「居た……」


人形だ。


「その人形が、どうかしましたか?」


メロンちゃんはそう言うと、ソファーに座らせた人形を抱き抱えて俺に見せてきた。

が、何やらメロンちゃんの様子がおかしい。

抱き抱えた人形をまじまじと見つめながら、突然曇った表情で。


「空っぽ……入ってない……何で……?」


誰に言うわけでもなく放心した顔で呟くようにして、今度は抱きかかえた人形を、まるで興味がなくなったかのようにソファーに投げ捨てた。


入ってない?


──カランコロン


聞きなれた乾いた鈴の音、それと同時に店の扉が開いた。


こんな時に来客?思わず入口に目をやると、そこには一人の少女が立っていた。


見慣れない少女。

長い黒髪にゴシックパンクのような服装。

目立つ格好だが、それよりも一目見て彼女の美貌の方が際立っているのが分かる。


少女は店に入るなり、さも当たり前のようにこちらに向かって来た。

視線を俺とメロンちゃんに合わせずんずんと迫ってくる。


「えっええっ?」


明らかに客としては様子が変だ。


その勢いにたじろいでいると、少女はメロンちゃんの目の前に立ち塞がり、険しい表情を浮かべ睨めつけた。

そして投げ捨てられた人形を急に指さして言った。


「よくもあんなのに私を閉じ込めたわね!」


閉じ込める?この子何を言って……いや待て、それよりこの声……あの蝶々の声にそっくりじゃないか?


思わず俺は少女の顔を覗き込んだ。

少女は俺に怪訝そうな顔を向けるも、再びメロンちゃんを睨みつける。


「はぁ……」


メロンちゃんは軽くため息をつきながら、少女に肩をすくませて見せた。


「咄嗟に依代があったから良かったけど、あれがなかったらどうなってたか分かってんの!?」


なおも少女はメロンちゃんに食ってかかる。


「依代……なるほど、僅かに量が少ないと感じたのは、その僅かをあの蝶々に……」


まくし立てる少女に、メロンちゃんは眉一つ動かさずに答えた。

そして俺に向き直ると、


「そう……そういう事ですか……。店員さんの仕業ですね?よく人形の幽世から抜け出せましたね、ビックリです」


気だるそうな顔で言うメロンちゃん。

それがびっくりした顔かと思わず言いたくなる。


だいたい何だ幽世って、何の話だ?


だが困惑する俺を他所に、メロンちゃんは突然そそくさと帰り支度を始めだした。


おいおい逃げるつもりか?


「ちょっ、人の話聞いてるの!?」


全くだとその声に同意した時だった。

少女は強引にメロンちゃんの前に割り込むと、大きく右手を宙に泳がせた。


やばい、咄嗟に判断した俺は少女のか細い白い手を掴む。


──ガシッ


「ちょっと、何で止めるの!?」


少女が俺を睨みつける。


改めてその顔を見つめ返すと、ふと、何か不思議な感じがした。

初めて会ったはずなのに、初めての気がしないのだ。


いや、そうじゃない。

どことなく誰かに似ているような気がする。


「いや暴力反対というか……それよりもあの、も、もしかして……」


俺が躊躇いがちに言いかけた時だ、


「あ、お姉ちゃん!まだ話し終わってないんだからね!」


いつの間にか荷物をまとめ店を出て行くメロンちゃんの後姿に、少女は怒りの丈をぶつけるように怒鳴った。


「お、お姉ちゃんって、や、やっぱりか……」


まさかとは思ったが、そのまさかだった。


メロンちゃんには妹がいたのだ。


「ちょっと……いい加減離してくんない?」


少女は握られた自分の腕を見て言った。


「あ、ああ……ごめん」


慌てて手を離すと、少女は右手を撫でるようにして踵を返し、フンと鼻を鳴らして店の出入り口へと歩き出した。


「あっ……」


呼び止めようとしたがやめた。

聞きたい事は山ほどあるが、まだ頭の生理が追いつかない。

正直今は早くこの状況から早く開放されたい、その一心だった。


人形の幽世、メロンちゃんの妹……分からない事だらけすぎて……。


店内に居た他の客達も、完全に置いてきぼりを食らった顔で事の終始を見守っている。


俺はただ唖然としたまま、少女の後姿を見送る事しかできなかった。


すると、


突然少女は扉の前寸前で立ち止まると、何かを思い出したかのように、こちらを振り向き再び俺の前に戻ってきた。


その顔には、さっきまでの険しい顔はない。


「助けてくれて……ありがとう」


「た、助けて?」


少女を救った覚えはない。


だがこの声、蝶々の声なら今の俺にも思い出せる。


「貴方、意外とやるじゃん……ただの鈍感と思ってたけど……見直した」


わけが分からない。

俺が彼女に何かしてやったのか?


呆然とした顔で軽く頷くと、少女は軽くため息をついて口を開いた。


「でも、気をつけて」


どこか曇った少女の声。


「な、何?」


「お姉ちゃん、ある人を呪い殺そうとしている人だから……だがら巻き込まれないようにね」


心臓を鷲掴みにされたような気がした。

背中にひんやりとした汗が滲む。


の、呪い……殺す?メロンちゃん……が?

分からない、巻き込まれないようにって、何にだ?


混乱する俺に、少女はあどけない微笑を浮かべ微かに手を振ると、そのまま踵を返し、今度こそ店を出て行った。


店の扉が閉まる瞬間、ガラス扉に何か子供のような小さい人影が映った。


人形……!?


激しく首を振り扉をもう一度見るが、そこにはもう何も映ってはいなかった。


店内に再び客の談笑する声が戻る。


緩やかなジャズピアノが四隅にあるスピーカーからやんわりと流れてくる。


いつもの深夜の喫茶店だ。


「現実……だよな……?」


自分の手の平を見て呟くように言った瞬間、耳元を何かがかすめる様にして飛んで行った。


反射的に振り返る。


蝶々の姿はない。


けれど見えない何かが今、ふわふわと周りを飛び回っている、俺にはそんな気がしてならなかった……。

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