「二杯の珈琲」
俺は昔、24時間営業の喫茶店でバイトしてたんだが、その店では本当にいろんな事があったんだ。
数え切れないくらいの……その中でも特に、店の常連客でもある、通称メロンちゃん(メロンソーダばかり頼む彼女に対し、バイト仲間達が勝手につけたあだ名)という女の子が絡むと、本当に怖い体験をする事が多々あった。
今からその一部を話したいと思う。良ければ最後まで付き合ってくれ。
その日は一日中暇だった。
客といえば、いつもの常連客のメロンちゃんと、窓側の席に座る二組の老夫婦だけ。
窓を行き交う通行人を目で追いながら、俺は口元に手を当てた。
「ふあ~ぁ、さて、補充でもするか」
欠伸をしながらそう言って、俺は備え付けの紙ナプキンなどを手に取り、各テーブルを周った。
手前側から順に、補充していく。
ズレたテーブルや椅子を直し、ゴミが落ちていないかをチェックする。
やがて窓側に着いた頃。
「店員さん、」
不意にかけられた声に、俺は振り向いた。
窓側の席に座っていた老夫婦だ。70代くらい、背筋のピンとした、穏やかそうな老人だ。
「あ、はい、ご注文でしょうか?」
そう言って俺は、ポケットからオーダー機を取り出そうとした。
「あ、いや、まだ珈琲飲んでるから。それより店員さん。店員さんはこの店は長いのかな?」
何だ注文じゃないのか。俺はオーダ機をポケットにしまい、老人に向き直った。
「長くはないです。やっと半年過ぎたくらいですから」
「そうか~いや、僕ね。若い頃にはよくこの店に来てたんだよ」
「は、はあ」
老人の昔話。まあ、暇だし別に問題は無い。忙しい日はごめんこうむるが。
「若い頃はお金もなくてね。よくここでデートしたもんだよ。珈琲一杯で何時間も居座ってね。店の中に流れる曲を聞きながら、誰の歌か当てっこしたり、はは」
老人がそう言って笑うと、正面に座っていたお婆さんも目を細めるようにして、釣られて笑った。
しわくちゃな顔だが、どこか品のある、優しい笑みのお婆さんだった。
「するとね、よくここの店長が珈琲のおかわりを入れてくれたんだよ」
老人が言う。
ん?そんなサービスうちにはないぞ?
「珈琲一杯で過ごす私たちに気を使ってくれたんだろうね。うちには珈琲だけならたくさんあるから、ゆっくりして行って下さいねって。嬉しかったな~」
老人の言葉に、お婆さんがコクリと頷いた。
「店長が……」
いつもどこか抜けてて、のほほんとしている店長だが、なるほど、中々良いとこもあるんだなと、素直に思った。
「この席に座って、窓の外を眺めるのが好きだった。今背広を着た男の人はどこに行くんだろう、あの泣きそうな女の子は、彼氏と喧嘩でもしたのだろうか?なんて、通りすがる人達の物語を勝手に紡いでは、その思いに浸ったりしてね」
どこか物悲しい目で、老人は窓の外に目を這わせている。
この窓の外にも、俺の知らない風景が広がっていたのだろうか?
その時代に生きた人々、その時代にしかない景色。この老夫婦はきっと、数え切れないほどのそれらを、ここで、この席で見てきたのだろう。
俺は老夫婦に静かに頭だけ下げると、そっとその場を離れた。
あの二人の特別の時間を、何だか俺なんかが邪魔しちゃいけないような気がして。
補充を終わらせカウンターまで戻ると、俺はどこからともなく、視線を感じた。
厨房にいる相方ではないのは確か。だとすると残りは……
カウンター斜め向かい側、この店の一番死角にある席。そこは、深夜の常連客、通称メロンちゃん(メロンソーダばかりを頼む為、バイト仲間の間で勝手に名づけたあだ名)の特等席。
振り向くと、やはりだ。大きな眼鏡から覗き込む瞳が、俺の方をじっと見つめている。
相変わらずの無表情。せっかくの美人が台無しですよと、いつか本人に言ってやりたい。
「えと……何か?」
気になり声を掛けてみた。すると待っていましたと言わんばかりに、メロンちゃんは口を開く。
「何を、話してたんですか?」
「何をって?」
さっきの老夫婦の事だろうか?
「ああ、もしかして窓側のお客さんとの?」
俺がそう言うと、メロンちゃんは返事もせず俺を見ている。
なんなんだ一体。
「えと、あの二人、昔ここの常連客だったみたいで、」
そう言い掛けた時だった。
「いやあ、先ほどは邪魔してすまなかったね。年寄りの与太話につきあわせちゃって」
さっきの老人だった。どうやらお帰りのようだ。
俺は急いでレジに移動した。その際、老人の方にふと目をやった時だった。
あれ?
「お連れの方は?」
一緒にいたはずのお婆さんがいない。
「ん?僕は一人だよ?」
「えっ?一人……?」
どういう事だ?二人で来ていたじゃないか。
「ああ、はは。すまないね。今日は亡くなった妻の四十九日でね。あれも珈琲が好きだったから、一杯多めに頼んだんだよ。はは、誤解させてしまったかな」
老人はそう言って軽快に笑って見せた。
亡くなった妻?四十九日?
まさか……
背中に僅かな寒気が走った。
そして、そこまで考え、俺はようやく理解した。
メロンちゃんはこの事を俺に伝えたかったのか。
そこに居るはずのないお婆さんの姿を、メロンちゃんも見てしまったから。
「さてと、」
老人はそう言って、どことなく寂しそうな顔でレジに向った。
そんな老人の顔を見て俺は、
「あの……!」
と、何だかいてもたってもいられず、気がつくと無意識に老人を呼び止めていた。
「はい?」
老人が短く返事を返す。
「また……来て下さい。コーヒーならたくさんありますから、お代わり用意して、お待ちしています」
自分でもなぜこんな事を言ったのかは分からない。けれど、なぜかそれ以外の言葉が、その時の俺には見つけられなかった。
「ふふ、ありがとう。本当にありがとう」
そう言って老人は深々と頭を下げた。釣られて俺も深く頭を下げ返す。
顔を上げると、そこにはもう老人の姿はなかった。
「えっ?あれ……」
間の抜けた声が店内に響く。
「な、何で、今の目の前にいた……えっ?ええっ?」
辺りを急いで見渡す。いない。さっきの老人が、まるで煙のように掻き消えた。
「すみません、言葉が足りて無かったです。付け加えるべきでしたね」
メロンちゃんが急に口を開いた。
「誰と……何を、話してたんですか……」
メロンちゃんの冷たく、抑揚の無い声が、俺の頭の中で残響となって響いていく。
「あそこに人なんて、初めからいませんでしたよ」
そう言うと、メロンちゃんは再びノートPCの画面に視線を落とした。
その後の事はよく覚えていない。酷く混乱していたのは確かだ。
あの後はろくに客もこなかった為、俺は嫌がる相方を表に立たせ、厨房で一人ふさぎ込んだまま、朝を向えた。
あの老夫婦の事はその日の朝、店長からの電話で、ようやく理解する事ができた。
店長曰く、昔よく店に来てくれていた常連客がいたらしいのだが、
昨夜、昏睡状態のまま、亡くなったらしい。
奥さんを癌で亡くしたばかりで、かなり塞ぎこんでいたらしく、ここ最近心配していた矢先の事だったとか。
店長は通夜に行く準備をする為、今日は少し出勤が遅れるとの事だった。
次の日、
その日の夜。俺はいつもにように、深夜帯の夜勤についていた。
客は一人、メロンちゃんだけだった。
俺は珈琲を二杯入れると、窓側の席に向った。
「何を、しているんですか?」
声の方に振り向く。メロンちゃんだった。席を離れ、すぐ隣まで来て、俺の顔を見上げている。
「珈琲、お代わり入れるって約束したから……」
そう言って俺は、昨夜老夫婦が座っていたテーブルに、珈琲カップを二つ、そっと置いた。
「何か意味があるのですか?」
相変わらずの無表情な顔で、メロンちゃんが言った。
意味?意味など無い、ただ、
「そうしたいだけ。俺の気が晴れるだけさ……」
そう、理由など無い。理由など要らない
美味しい二杯の珈琲と、大好きな景色がそこにあれば、それでいいじゃないか。
その日メロンちゃんは、昨夜老夫婦が座っていたテーブルに座りなおし、誰もいないはずの席で一人、見えないはずの何かと、外の景色を眺めながら、朝まで過ごした。
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