第九幕・ブランケットの氷解

問題編・よくある『消える凶器』について

1――降雪の病院へ(前)

   1.




「あぅ~。まだお昼過ぎだってのに、雪が積もると寒~い。お兄ちゃん抱いて! 肌と肌であっためて!」




 季節は一月下旬。


 私たちの住む実ヶ丘みのりがおか市にも雪が降ったわ。今年は積雪も多くて、気温も低め。暖冬なんて嘘っぱちよね。


 こういうときこそ家族水入らず、いとしのお兄ちゃんにぎゅ~って温めて欲しいなぁ。


「ナミダお兄ちゃん、ただいま~」


 私は土間を駆け上がるなり、鞄を自室に置くのももどかしくお兄ちゃんの部屋へ一直線に向かったわ。ドアを押し開ければ、お兄ちゃんの香りが充満する個室に踏み込める。


 す~は~、深呼吸。


 うん、お兄ちゃんエキス補給完了。今日も空気がおいしいわっ。


「ルイ、お帰り。早かったじゃないか。深呼吸したのは息が乱れてたせいかい? あるある、寒いと早足になりがちだからね、よくある」


 部屋の奥から、お兄ちゃんの美声が返って来た。


 あ~、とろけるような甘い声。


 もうこれだけで私の耳が孕んじゃうよ~。


 ――私、ルイ。


 湯島ゆしまルイ


 高校二年生の一六歳(誕生日はまだ来てない)。


 こう見えても、市内有数の進学校・私立朔間さくま学園高等部に在学してるのよ。ふふん。


 そんでもって、お兄ちゃんはナミダ。


 湯島ナミダ


 私と同じ一六歳で、二卵性双生児。


 お兄ちゃんは私に似てて、女顔の美少年。


 体つきも華奢きゃしゃで、物腰が柔らかいの。穏やかな双眸と、耳が隠れる程度のつややかな黒髪。服装は襟付きのポロシャツにカーディガンを引っかけて、ボトムはスラックス。シンプルだけどスマートな普段着ね。


 私自身も細くて小柄だけど、お兄ちゃんも男子の平均より低め。でも私の身長には釣り合ってるわ。むしろお兄ちゃん以上の長身って威圧感があって怖いし。いつだってお兄ちゃんが私のベストよ。


「ああ、今日は土曜日か。あるある、半日で学校が終わるの、よくある」


 お兄ちゃんは安楽椅子に腰かけて、本を読んでる最中だった。


 ちらりと顔を傾けて、壁にかけたカレンダーを視野に入れる。


 私はコートを脱いで放っぽりつつ、両手を広げてお兄ちゃんの胸へ飛び込んだわ。


「そ~なのっ。だから急いで帰って来ちゃった! お兄ちゃんが居ない学校なんて長居する価値がないもんねっ」


「っとと。いきなり抱き着くなって。読書中なのに」


「えへへ~。お兄ちゃんの胸板、あったまる~」


 ふぁ~、極楽とはこのことね。


 私はお兄ちゃんにしがみ付いたまま離れない。このまま時が止まれば最高なのにな~。


「お兄ちゃんは寒くなかった? ま~交通事故で左足首を失って以降、高校も家で学べる通信制に転学したから、部屋から出てないだろうけど」


「そうだね、室内は暖房が効いてるから快適だよ。ちなみに寒いときは、赤や黄色と言った暖色系の服を着ると、心理的に温まるよ」


「ふぇ? そ~なの?」


「本に書いてあるんだ。あるある」


 お兄ちゃん、読んでた書物をポンと叩いたわ。


 私もしぶしぶ顔を上げて、お兄ちゃんの指先を目で追う。


『心理学のすべて――犯罪心理から色彩心理まで』


 っていう題字が見えたわ。


 色彩心理?


「色がもたらす影響力について書かれてるんだ。例えば同じ室温でも、赤い壁紙の部屋は暑がる人が続出し、青い壁紙の部屋は肌寒さを訴える人が多いらしい」


「色のイメージで体感温度が左右されるってこと?」


「ご名答。いかに人の心理があやふやで、環境にもろいかが示唆されてる」


「その本、お母さんの部屋から持って来たの?」


 私、ほっぺを膨らましちゃった。


 お兄ちゃんってば、可愛い妹の部屋には夜這いにすら来ないくせに、お母さんの部屋は喜々として物色するなんてどういう了見なのっ?


「母さんは精神科医だからね」また本を開くお兄ちゃん。「早逝した父さんも同業者だった。だから家中、心理学の入門書だらけさ。毎日家に居ると暇だから、つい読書してしまうんだよ。ありがちありがち」


「む~。心理学なんてどうでもいいの~! 寒いときは二人で温め合おうよ~。雪山で遭難したときとかも、人肌で密着するのが一番暖を取れるって言うでしょ~?」


「それ古典的なラブシーンによくあるパターンだよね。どこから影響を受けたんだい」


「ど、どこでもないもん~。私が自発的に考え付いたんだよぉ」


「そうかな? 普遍的無意識ふへんてきむいしきで人類全員に共有されてそうなほど、よく見かけるよ」


「ふへんてき……何?」


 私、首を傾げちゃった。


 お兄ちゃん、ときどき本の影響で難しい用語を呟くのよね。


「心理学の大家たいかにフロイトやユングが居るけど、この二人こそが『無意識』という概念を発見した。普遍的無意識はそのさらに深層、心の奥底に広がる精神の源泉さ」


 お兄ちゃん、私の腰まで届く黒髪を優しく指で梳かしながら教えてくれたわ。


 えへへ、お兄ちゃんに髪の毛を撫でられるの好き~。お兄ちゃんにしか触らせないようにしてるからね。散髪も自分でやってるのよ、私。


「あ~、以前も聞いたことあったような……?」


「あらゆる人類の知識や記憶、感情、思考が蓄積される『心理の貯蔵庫』さ。人が宿した情念は全て普遍的無意識に保管され、概念として共有されるんだ」


「そんなことってあるんだ~?」


「あるよ、あるある。例えば人間の本能や常識は、見ず知らずの他人でもほぼ共通してるだろう? 以心伝心と言って、考えが他人と共有してたり、秘蔵のアイデアが偶然にも他人とカブってたり……不思議だと思わないかい?」


「確かに、教えてないことが伝わってるのって不思議~」


「それらはひとえに、僕たちの心が『普遍的無意識』でシェアされてるからなんだ。精神が無意識へ接続されると、他人の思考が筒抜けになって共感現象が起こるんだよ」


「え~、まゆつば~」


「と、ユングは言ってたよ。専門書の中でね」


 あっお兄ちゃん、ごまかしたな~?


 私はお兄ちゃんの体から離れて、唇を尖らせちゃった。


 そろそろ体も温まったし、次の要件を切り出そっかな~。


「それよりお兄ちゃん、今日は土曜日よ~。午後から左足のリハビリに行く予定よね?」


「ああ、そうだったっけ」


 お兄ちゃんは安楽椅子から身を乗り出したわ。


 組んでた足もほどいて、視線を落とすの。


 自分の左足へ。


 その先端へ。


 私もお兄ちゃんの左足へ目を寄越す。




 ――義足が装着されてる。




 お兄ちゃんは今、義足で歩く訓練を受けてる。リハビリと定期検診、あとは通信制学科の登校日くらいしか、お兄ちゃんは外出しない。


(あの事故で、お兄ちゃんは義足生活を余儀なくされたわ)唇を噛みしめる私。(トラック運転手から山ほど賠償金をせしめて、お兄ちゃんは何十年か遊んで暮らせる貯金があるけど……どんなにお金を積まれても、お兄ちゃんの健脚は戻って来ない)


「義足でも訓練を積めば、日常生活くらいは出来るようになるさ。パラリンピック選手なんて常人より運動量が多いからね、あるある」


 お兄ちゃんは努めて元気にのたまうけど、私はそのつど胸が締め付けられちゃう。胸ちっちゃいけど。


「私、お兄ちゃんのリハビリに付いてくよっ。私がお兄ちゃんの世話をするの! 私がお兄ちゃんの足代わりになる! それが私の償い。だから何でも言ってね!」


「ルイはブラコンだなぁ。ブラザー・コンプレックス。正式な心理学用語ではないけど、概念自体はフロイトが提唱してた言葉だね」


「私、ブラコンで満足だもん」


 私はお兄ちゃんの手を取って、ゆっくりと引き起こしたわ。


 義足で起立したお兄ちゃんは、現状でも散歩くらいならこなせる。飛んだり跳ねたりは難しいけど、これからリハビリを続ければ、きっと出来るようになるはず。


「さ~お兄ちゃん、実ヶ丘市民病院へ行こ~っ」


「あの病院、精神科が母さんの職場なんだよなぁ」


「うん。だからリハビリの合間に、お母さんにも挨拶しようね! お母さん忙しいから、ほとんど家を空けっ放しだし~……」


 さ、病院にお出かけよ。そこで予想外の波乱に巻き込まれるなんて、このときは想像も出来なかったわ……。



   *



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る