2――病棟へ(前)
2.
『病院オブザデッド その二』
――あたしがママに取り押さえられ、ゾンビに襲われた次の瞬間、横から新しい人影が闖入したわ。
誰? なんて戸惑う間もなく、その人はママを突き飛ばし、あたしを解放してくれた。
返す手であたしの腕を掴むと、一目散に遁走する。
え、待って。あたし今、意識が朦朧としてて、うまく走れないのに。
「これを飲みなさい」
もう片方の手で、錠剤のようなものを渡されたわ。何これ、薬……?
ぼやけた視界の中、あたしは先導する人の背中をいぶかる。
ナース帽と白衣。
この人も看護師さん?
とにかくこのままじゃ体が持たないと判断したあたしは、駄目で元々、錠剤を口内に放り込んだ。水なんてないから、生唾で無理やり嚥下したわ。
――ふわり、と体が軽くなった。
だるさも、意志薄弱も、嘘みたいに冴え渡るの。
「対ゾンビの鎮静剤よ」
ナースステーションの扉を見付けた看護師さんが、その中へ身を隠す。あたしも追いすがるように室内へ飛び込むと、中から鍵をかけて、ひとまずの安息を確保したわ。
「飲み薬で即効性があるんですか」
「細かいことは気にしないの。わたしはここの師長よ、看護師たちのリーダー。院内の点滴袋や注射針、体温計など、ナースが用いる医療器具を管理しているわ」
「師長さんですか」じっと見つめるあたし。「点滴がゾンビ化の感染源なんですか?」
「わたしの管理と言っても、四六時中見ているわけではないし、休みの日は他のナースに任せているわ。その隙に、何者かが点滴に『毒』を流し込んだのね」
「毒って、じゃあそれに触れた者がゾンビ化を?」
「ええ――幸い、空気感染はしないみたい。ゾンビに接触しない限りは平気」
「あたし、思い切り噛み付かれたんですけど」
「鎮静剤が効いている間に、打開策を考えるのよ――病院を脱出するのが最重要課題ね」
「電話は駄目なんですか?」
「電線が切られているのか、なぜか通じないの。ケータイも電波障害、パソコンもネットが繋がらない。病院が外界から隔離されているみたい」
「そんなのって……」
見捨てられたみたいで、あたしは悪寒が走る。
仮に脱出できたとしても、外部の人間はあたしたちを助けてくれるかしら?
「それよりもお嬢ちゃん、さっきあなたを取り押さえていたご年配の女性は誰?」
「あたしのママです」きゅっと唇を噛みしめるあたし。「あたし、もともと病気でも何でもないんです。でも、ママが無理やり病気ということにして、嘘の病状を訴えたり、妙な薬品を飲ませたりして、あたしを何度も検査入院させてたんです」
「え。それって――」
「
あたしは自分の両肩を抱きすくめたわ。
ミュンヒハウゼン症候群は、要するに仮病を装って周囲を心配させ、いたわってもらったり、お見舞いをもらったり、通勤通学をサボったりして『利得』をたまわろうとする心理なんだけど――。
――母親が仕組む『代理によるミュンヒハウゼン症候群』の場合、自分ではなく子供を病気に仕立て上げ、それを看病する献身的な母親像を演じることで、周囲の同情や利得を受けるっていう、やっかいな犯罪心理なのよ。
師長さんが首をかしげる。
「代理……って、通常は幼少の男児に対して行なわれやすい虐待心理だったような?」
「れ、例外もあるんですよ。始まりは、うちで飼ってたペットの犬でした。何度も動物病院で検査させた挙句、病気の苦しみから救うという名目で、安楽死を処方したんです」
「動物を心配する飼い主、という演技のために、ペットの病気を捏造したのね」
「はい……あたしは反対したんですけど、動物病院で筋弛緩剤を投与し、安楽死させてしまいました。そして、次の標的はあたしになったんです」
「ペットでは飽き足らず、実の娘まで?」
「ママは持病の肩こりや腰痛を押してまで『あたしの看病をする母親像』を演じました。そうやって周りから同情され、チヤホヤされたかったんです。あたしは嘘の症状で入退院を繰り返し、医者もそのつど、あたしの体を調べました。症状を確かめるために……もちろん、結果は健康体」
「医者は基本、保護者の申告に従って動くからね……」
「ママは、あたしを病院に閉じ込めて、虚構の病理に冒さないと気が済まないんです」
「ああ、だからあなたを取り押さえようと――――うぐぐっ!」
「! 師長さんっ?」
「ぐ――うう――しまった、わたしの鎮静剤が切れそう――わたしの分、あなたに、飲ませてしまったから――わたしはもう駄目――あなただけでも、逃げなさい!」
「嘘でしょ? 自分の薬を分けるなんて、そこまで他人に尽くさなくても」
「それが、ナースの勤めだもの――困っている患者を救うのが、職務だから――っ」
「師長さん……!」
「早く、逃げて――!」
信じたくなかった。
せっかく味方が出来たと思ったのに。
患者のために身を挺するナースの鑑が、一転してあたしに牙を剥こうとしてる。
師長の肌がただれて、ゾンビよろしく変色し始めた。目の色が濁り、髪の毛も抜け落ちて、呼吸も乱れてる。まずい……!
あたしはここを離れるしかなかった。
でも、これからどうすれば良いの?
誰か助けて。
誰か――。
*
「また湯島さん家のお子さんかぁ。年が明けてからまだ一週間なのに、よく会うねぇ」
紫一色の
実ヶ丘署の強行犯係に出向してるキャリア組の刑事さんよ。若いうちは現場を学ぶために捜査チームへ配属されてるんだって。とはいえ仮にも階級は『警部』、地位だけは高いから、いきなり捜査主任の大役を担ってる。
「私も好きで会ってるわけじゃないですよぅ」
私は下唇を突き出したわ。
何が悲しくて事件現場にそうそう居合わせなきゃなんないのよ。
すっかり日が暮れた頃、いい加減お腹もすいたし家に帰りたいんだけど、私たちは一向に解放される気配がないの。
薬臭い病室に拘束されたまま、貴重な一日を潰しちゃった……がっかり。お兄ちゃんと離れ離れで過ごすなんて厄日だわ。スマホ越しに声は聴けるけど。
「今日は、殺人未遂という形で通報したようだねぇ」
三船さんは手帳を開いて、状況を逐一メモしてる。
四〇四号室には捜査員と鑑識課が立ち入ってて、外の廊下も警官が往来してる。奥にはナースステーションや医局も窺えるわ。
そこにも警察が詰めかけて、物品を押収してる。
医者や看護師の何名かは聞き込みを受けてた。まだ営業時間なのに、警察の捜査にも協力しなきゃいけないなんて、大変そう。ただでさえ病院って多忙だろうに。
「いやぁ! お手柄ですね! 湯島ルイちゃんでしたっけ!」
傍らに寄って来た
相変わらずやかましい声。中肉中背の凡庸な外見を補うように、声だけは無駄にハキハキしてるのよね。
「君のおかげで、点滴の異物混入に気付いて、命を救えたからね! 昼過ぎに鑑識へ持って行かせたら、ついさっき異物の正体が判明したよ! じゃじゃーん!」
「いいから早く言いなよ」
三船さんが肘でつつく。
浜里さんは咄嗟に居住まいを正すと、こほんと咳払いしたわ。
「筋弛緩剤サクシニルコリン! これが点滴に入っていたそうだよ!」
え~と……名前を言われても判んない。
浜里さんは私たちの反応に大きく頷いて、さらに言葉を繋ぐ。
「筋弛緩剤は脳からの信号を遮断して、筋肉の動きをゆるめるんだ! でも量が不適切だと、心肺機能までもが弱まって、心不全や呼吸困難を引き起こす! 怖い!」
『あるある。サクシニルコリンって、精神科の電気けいれん療法にも使用される薬品だなぁ。よくあるよ』
「……そうなの、お兄ちゃん?」
小声でスマホに囁くあたし。やっぱりお兄ちゃんは全知全能ね。
『動物を殺処分するときにも使う薬さ。点滴袋には注射針ほどの穴が空いてたから、何者かが注入したのは間違いない。悲しいけど、よくある事件だ』
「お兄ちゃんの洞察眼は世界一ね! ……って、よくあるの?」
『病院での薬物投与による不審死は、世界各地で起こってるポピュラーな事件だよ』
お兄ちゃん、声を押し殺すように吐き捨てたわ。
そ、そうなんだ……病気を治す施設なのに、そんなひどい人が居るなんて、寂しいな。
『俗に、死の天使と呼ばれる犯罪心理だ。ありがちありがち』
「死の天使?」
『白衣の天使であるナースが一転して、異物混入するんだよ。患者を苦しめてストレス解消したり、生殺与奪の優越感に浸ったり。表向きは献身的な看護師を演じつつ、患者を救えなかった悲劇のヒロインを自作自演したり。この手の犯罪は非常に多い』
うわ、怖すぎ。
ていうか歪みすぎ。
ナースの闇、深すぎない?
『入院患者の不審死や、介護施設での虐待などは、年々増加傾向にあるニュースなのさ』
弱者をいたわる職業柄、嗜虐心にも目覚めやすいのかな?
「……その心理は女性に多く見られるわね……」
「! お母さん!」
後ろから聞き慣れた
同病院に勤める精神科医、湯島
ひょっとして今の会話、聞いてたの? ずっと忙しかったみたいだけど、事件の一報を聞いて顔を出したのかな?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます