3――フィレモンの職員室へ(前)
3.
お母さんってば、保健室に並び立つ校長を一瞥すると、不機嫌そうに吐露したわ。
「……校長先生……校内の案内、ありがとうございました……もう用はないので、とっとと視界から消え失せて下さい……あなたの存在を認識したくないので」
「はっはっは、これはまた随分と嫌われたものですな。憎き湯島家だからこそ、校長のワタシ自らが出迎えたというのに」
「……余計なお世話です……半年前、うちの息子が通信制学科へ転学するとき……どれほどあなたや水野家に手続きを邪魔されたことか……!」
あ~、それね。
お兄ちゃんも毒づいてたけど、この校長ってば拝金主義者で、大口の寄付金を学校に納めてる水野霙の肩を持ってたのよね。腹立つのも当然だわっ。
「……結局、水野から裁判で勝ち取った賠償金を崩して、あなたに裏金を積んで、雨宮教頭の計らいもあって……ようやく転学できたわけですけど……」
「はっはっは、そんな、公然と裏金発言するなんて、冗談が過ぎますなぁ」
こ、この校長、しらじらしいっ。
グーでパンチを叩き込みたいわっ。
お母さん、こいつを視界から外してる。もはや話す価値すらないって判断したみたい。
私も、こいつと同じ場所の空気、吸いたくない。本当に瀬川先生の血縁なの? こんなクズと血を分けた家族だなんて、私だったら耐えられないわ。ニーソの足で踏み付けてやりたい。なじってやりたい。すり潰してやりたい。
お兄ちゃんを苦しめる奴は、塵芥と化して宇宙から消滅すれば良いのだわ。
「まぁまぁ溜衣子さん、ここは矛を納めて。ね?」
泉水おば……姉さんが、お母さんの機嫌を取ってる。
事件の捜査をしに来たのに、お母さんの世話までするなんて、申し訳ないなぁ。
「それよりほら、泪ちゃんを迎えに来たんでしょ?」
「……まぁね……この子ったら、厄介事に巻き込まれやすいから……いつも大変よ」
ええ~、私ってそんな風に見られてたの?
あうあう。いつも良かれと思って動いてるだけなのに~。
「湯島泪ちゃんのお母様ですね、父さ……校長が無礼をいたしました」
代わりにお辞儀したのは、他でもない瀬川先生だったわ。
面と向かって謝り倒したものだから、校長が居心地悪そうに渋面をかたどってる。
「……あなたに謝られても意図が掴めないのだけど……?」
「いえ、父さ……校長の不始末ですから。禍根を残しているのも事実です」
「こらこら、澪」
校長が止めに入ったわ。
手を引っ張るけど、あいにく瀬川先生は動かない。んん? 縁故採用するくらい仲良しだったんじゃないの?
「父さ……校長はこんな人となりですが、身内や味方には優しいんです」
「……コネで採用する程度には、お優しい御仁のようですね……?」
「痛切な皮肉ですね。しかし、その通りです。わたしは一度、カウンセラーとして失敗していますから、再就職できたのは父さ……校長のおかげです」
「……失敗?」
お母さんが首を傾げたわ。
え、何それ。私も気になる。と思ったら、お兄ちゃんもスマホの向こうから『もっと寄って』なんて注文を呟いてる。お兄ちゃんが私以外の女性の話を聞きたがるなんて、ちょっとイラつく~。
「かつてわたしは、小さな医院でカウンセラーをしていました。が、一人の相談者を対処しきれず、ますます心を病ませ、自殺に追いやってしまったのです」
「……ああ……」ちょっと同情するお母さん。「……引き留められなかったんですね?」
うわぁ~、そんなことってあるのね。
心を癒すはずなのに、ますます悪化しちゃう悪循環。
心理学と言っても、所詮は症例の統計を取ってパターン化して、データに基づいて患者を立ち直らせるものだから、パターンに当てはまらない例外だってある。
親身に相談者の面倒を見るほど、想いが届かなかった負い目を引きずっちゃうのね。怖いよぉ~。
「……なるほど……あなたは『白雪姫コンプレックス』ね……」
「えっ」
お母さんがおもむろに発した用語、瀬川先生が面食らってた。
脇で聞いてた泉水おば……姉さんや三船さんも、私と顔を見合わせたわ。いや、私に目配せされても判んないけどね。あうあう。
「……白雪姫コンプレックスは……童話の『白雪姫』になぞらえた心理学用語よ……」
またか~。以前も『カイン・コンプレックス』と『ファザー・コンプレックス』の事件に巻き込まれたっけ。
かく言う私自身も『ブラザー・コンプレックス』だしね。あ、別にこれは治す気ないけど。一生私はお兄ちゃんのペットで良いもん。飼い殺し上等だもん。
「……童話の白雪姫は……日本では隠されがちだけど……リンゴに毒を盛った王妃が、白雪姫の実母なのよ……それにちなんで、母親が子供を死へ追いやる異常心理は『白雪姫コンプレックス』と呼ばれるようになった……」
「そう、ですね。私は相談者を、我が子のように親身に接したつもりだったけど、死なせてしまった。そして今回も……偉大なグレート・マザーにはなれませんでした」
(グレート・マザー?)
私はまたしても首を傾げちゃう。
次から次へと知らない用語が飛び出すわね。さすが専門家の会話……早く帰りたいんだけどな~。お兄ちゃんに会いたいよぉ。頭も体も撫で回されたいよぉ。
『グレート・マザーは、心理学の属性の一つだよ』
スマホからお兄ちゃんが解説したわ。
きゃ~、考えたそばからお兄ちゃんがこっそり語りかけるなんて、やっぱり私たちは赤い糸で結ばれてるんだわ。濡れるっ。
『いわば慈愛の母、博愛精神だね。太母のごとき保護欲求が、グレート・マザーなのさ』
「はぅ~。腰がビクンビクン痙攣する~」
『何してるんだ? ……ともかく、患者を大事に思う瀬川先生らしい心構えではある。あいにく、結果は伴ってないけど』
グレート・マザーでありたいがゆえに、逆に子供を追い詰めて死なせたなんて、残酷にもほどがあるわ。私なら耐えらんない。
瀬川先生は噛みしめるように呟く。
「グレート・マザーになり損ねたわたしを拾った父は、さしずめ賢人フィレモンでした」
「……フィレモンですって……? この
お母さん、あからさまに唇を尖らせてる。おっとりした顔で毒づくの、落差ありすぎ。
しかも校長本人、まだ同席してるのに。
『フィレモンは、仁徳と高配を司る心理属性だよ。賢者、賢人の象徴だね』
お兄ちゃんの豆知識が心地良いな~。
えへへ~、お兄ちゃんのおかげで話に着いて行けてるよ。お兄ちゃんに腰砕け。
「はっはっは、フィレモンだなんて、褒めても何も出んぞ?」
いけ好かない校長が笑ってる。
うるさい黙れ。瀬川先生以外、誰もそんなこと思ってないから。
「湯島さんの心証はともかく、ワタシは校長として粉骨砕身しているのですぞ! 宇水雫に関しても、保健室登校でカウンセリングを受けるよう取り計らったのだから! それともあなたは、ワタシが生徒を
校長の奴、偉そうに胸を張ってる。
『信じられないけど、校長も金が絡まなければ、公明正大なフィレモンなのかな。あるあ……ないか』
自分で否定しちゃったよ、お兄ちゃん。
認めたくないわよね。お兄ちゃんにとっては大悪人だもん。
「……グレート・マザーにフィレモン……さらに言えば、演劇の仮面というペルソナまでそろっているのね……」
お母さんが指折り数えてるわ。
「え? 今来たばかりのお母さんが、ペルソナのことも知ってるの?」
「……ここへ来るときに、泉水ちゃんから連絡をもらったからね……ついでに状況も伺ったのよ……」
「あ~、そうだったのね」
私は目ざとくおば……姉さんに視線を投げたわ。
そしたら、おば……姉さんったら、素知らぬ顔で口笛なんか吹き始めるの。身内にこっそり事情を話すなんて本当はいけないんだけど、気持ちは判る。
「……宇水雫さんは……仮面をかぶって本心を隠し、役になりきって自殺した……あるいは、これから殺されることを忘れるために、役へ没頭させられた……」
「えっ」
殺され――?
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