第17話
あのあとすぐに、私たちは離婚した。
彼のいない時間に部屋を片付け、部屋を引き払う手続きまで私がした。
たくさんの物を処分した。
懐かしいものが沢山出てきて、そのたびに手が止まり寂しいと思ったのは嘘じゃない。
彼に頼まれたから萌の写真を何枚か小さなアルバムに差して彼の段ボールに入れた。
『杏奈。もう一度……』
そう言いかけてすぐ、彼は、何でもない。と電話を切った。
『もう一度やり直せないか』
おそらくそう言おうとしたのだろう。
私もその言葉が何度か浮かんだから。
でも、私たちはお互いに知っていた。
もう無理なのだと。
愛が残っているからやり直そうと思うんじゃない。
この何年か過ごした時間が綺麗に見えてくるから。
楽しかった思い出や、萌が生まれた感動や、そんな幸せな光景ばかり思い出されるから。
けれど、割れたコップに水は溜まらないのだ。また誤魔化して注いでももっとヒビが入るだけ。
「萌っ!」
幼稚園にお迎えに行くと萌は思いきり走ってきて私にしがみついた。
あの日から、萌の様子が少し違ってしまったことだけが気がかりだった。
「萌、今日の晩御飯なに食べたい?」
なんでもいい。
またそう返ってくるだろうと分かっていた。私は、それでも、萌の些細な願いを聞きたかった。
「……い」
ボソッと話す娘に驚き、思わずしゃがみこむ。
「……タッキーのオムライスが食べたい」
そっか。
それだけなのに思わず泣いてしまった私。
萌はニッコリ笑って、帰ろ?と言った。
あの日から、彼のお祖父さんのお店の2階でお世話になっている。
『自分の実家に帰ってきたと思ってね』
園長から聞いたのだろう。
春乃さん――そう、彼のお祖母さんは彼によく似た優しい瞳でゆっくり微笑んだ。
「萌ちゃん!明日どっか遊びに行こうか!」
雪は萌の変化を自分のせいだと思っているようだった。
無理強いせず、ただ真摯に娘に向き合う彼は本当にいい人だと思った。
「観覧車に乗ってみたい」
オムライスのケチャップを舐めながら、萌が嬉しそうに答えた。
「パパはね、高いところが苦手だから、萌乗ったことないの!」
そう一生懸命話した萌は、すぐに、あっ!という顔をして少し寂しげに下を向いた。
父親を失った寂しさと、私や雪に対する気遣いをこんな小さな体に抱えている。
私は何て言っていいのか分からず、言葉を飲み込んでしまった。
すると、声色ひとつ変えずに雪が言う。
「僕も苦手だから、萌ちゃん、二人でチャレンジしてみよっか?」
萌を覗きこむ彼。
ニコニコと穏やかに笑う彼に、娘はつられるようにニッコリ笑った。
「ママも一緒だから三人ね!」
そう言って私を見る萌の可愛らしさに、ぎゅっと胸が締め付けられた。
涙を目頭までで堪えて私は笑う。
涙が溢れないように大袈裟に笑い、そっと隠れて拭った。
***
「今なら泣いてもいいよ」
少し灯りを落とした2階の寝室。
萌の寝顔を横に見ながら彼が私に言った。
白いマグカップから浮かぶ甘い香りに私はまた涙腺が緩む。
彼は、よしよし、と私の頭を少し撫でて何も言わずに後ろから抱き締めた。
「ゆっくり頑張ろう」
「萌ちゃんのことを一番に考えて」
「僕が支えになるから」
初めて彼に抱き締められて、堪えていたものが溢れだした。
傷だらけの私を、冷たくなった私を、彼が綿で大切に大切に包んでいるようだった。
甘えてしまっていいだろうか。
このまま、萌や、彼や、彼の家族に。
「大丈夫だよ」
私の心の声が聞こえたのか彼が囁く。
何度も何度も繰り返す。
『大丈夫だよ』
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