第16話

「おい、今の何だ」


 低くて冷たい夫の声が薄暗くなった路地を割った。

 少し前の私の言動が失敗だったことだけ分かる。


 咄嗟に出した私の声が、3人の間にある張りつめた空気を裂いた。


「あ!先生ごめんなさい。ママ友と話す時の呼び方が出ちゃった」


 ベラベラと喋る私はいつになく饒舌だ。

 ただこのままこの場をやり過ごし、早く雪を帰してあげたかった。


「なぁ……お前が離婚切り出したの、こいつがいるからか?」


 静かに問いかける孝太の眼光が怖い。

 この人の、怒りまでのスイッチが甘いことを急に思い出した。

 萌が私の手をギュッと握り、怯えた顔で後ろに隠れた。


 二人を守らなきゃ。


 私の中にはそれしかなかった。


「バッ、バカなこと言わないでよ。先生に失礼でしょ。全く何もないのに!」


 そう強めの口調で笑い飛ばし、私は深々と頭を下げ他人行儀にお礼をする。


 お願い。

 このまま話を合わせて。

 そう願いを込めて、見上げた彼の瞳。

 すると、彼はゆっくりと瞬きをした。


 だから。


 私の気持ちが充分、伝わっているのだと安堵した。


 夫はその様子から急に冷静になったのか、自分を責めたのか、

「すみません。何も関係がない方に失礼な言い方をしてしまって」

 と恥ずかしそうに謝罪した。



 これでいい。

 このままで。



 そう、思ったのに。



「ごめんね、杏奈さん」



 彼がそう言って私に優しく微笑んだ。

 頭を少し下げていた夫は、弾かれるように彼を見る。

 そしてすぐに、あっという間に顔が硬直していった。


 彼は視線を夫へ送ると強い眼差しで言葉を発した。


「何も関係ないと言えません。彼女を好きだっていう気持ちがありますから」


 そして、


「嘘つけないよ。この気持ちだけは」


 そう言ってまた私にふんわりと笑う彼は、知らない『男の人』の表情で、その瞳には強い強い覚悟が映っていた。


 隣に立つ夫のことを忘れてしまいそうになるほど、その言葉は私を占領した。


「佐川さん、僕は二人を……杏奈さんと萌ちゃんをあなたよりもずっと大事に出来る」

「ちょっ…」

「理解してください」

「ちょっと待てって!」


 シンとした空間に夫の声が響いた。

 日は陰り夜が空を飲み込み始めていた。


 明らかにイライラし始めた夫は雪から目を逸らし、私の方を向き強く私の右腕を掴んだ。


「杏奈っ!!」


 怒りに満ちた夫の声。

 私を睨み付けるその表情は愛を微塵も感じない。


 分かってしまう。

 この人はただ単に悔しいんだと。


 妻は自分以外の男から見向きもされない、そんなもんだと思っていた。

 それなのに。

 まるでそう言っているような瞳。


「佐川さん、責めるなら僕を責めてください。勝手に好きになって、勝手にこうお話ししてるんですから」


 雪の目は揺るぎがない。

 優しくて強い。

 私を思いやる彼の言葉に泣いてしまいそうだった。


「黙れっ!俺をバカにしてんのか!おいっ、杏奈っ!」


「パパやめてよっ!」


 腕の痛みに顔を歪めた私に気付いて萌が涙声をあげた。


 同時に、夫の腕を掴み彼が言う。


「二人をこれ以上傷付けるのは許さない」


 ギリギリとその手に力を込める彼に、夫が一瞬怯んだのがわかった。


 すぐさま手を振りほどき萌を強く抱きしめる。


 雪はとても心配そうに私の右腕を確認すると、すぐに私たちを隠すように孝太の前に立った。


 孝太との間に、真っ直ぐな線がひかれたような構図だった。


 きれいになんか別れられない。


「ごめんね、孝太。あなたと真鍋さんみたいな関係じゃない。本当に違う。でも、ごめん」


 私を見つめる孝太と、胸に抱いた萌にちゃんと聞こえるように私は言った。


 私も覚悟を決めたのだ。


「もうずっと私の愛はこっち側にしかないの」

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