第15話

「あなた誰?」


 園の近くの喫茶店。

 向かいに座った彼女の存在感に押し潰されないようにテーブルの下で両手に力を込めた。


 綾先生に呼ばれ、向かった園の門。


 ついてきた園長と綾先生に聞こえるように、その人は大声で言った。


『杏奈さん!』


 にこにこと笑い右手を振る彼女を見て綾先生は知り合いだと思ったらしく、園長に引き継ぎをして室内に戻っていった。


『……佐川さん、お知り合い?』


 表情を変えずに園長が小声で私に聞いた。


 いいえ。


 そう返事をした私。

 それで何か察してくれたのだろう、萌ちゃんのことは心配しないで。と私の背中に触れた。


「孝太さんから聞いてない?」


 彼女が呼ぶ、夫の下の名前。


 しばらくその名前で呼んでないな。と妙に冷静な自分もいた。


「真鍋梨華、29、孝太さんと同じ会社の受付にいます」


 髪を毛先まで巻き、爪を綺麗に塗って、店頭に並んだばかりじゃないかと思える秋色のツーピース。

 ジーンズにパーカー姿の私が哀れに思えるほどだった。


「どうして萌の、娘のお迎えに来たんですか」


 怒りを含んだ私の問いに彼女は鼻で笑って言う。


「嫌がらせ」


「え?」


「孝太さん、なかなか離婚してくれないから。イタ電もしたのにあなたも鈍いし。萌ちゃんから落とそうと思って」


 悪びれもせずに笑う彼女に私は愕然とした。


「萌は道具じゃありません!」


 声を荒げた私。

 彼女は少し回りを見渡し、大きな声出すのやめてよ。と嫌そうに言った。


「私、30前に結婚したいの。この年じゃ受付も潮時だし。今さら地味な事務に移動も嫌だし」


「それで?」


「孝太さんタイプなの!ほら、今度、香港に転勤の話があるじゃない?出世コースだし!」


 嬉しそうに話す彼女を見て、どっちが妻か分からないと思った。


 香港?

 転勤?


 彼は私と別れて彼女と香港に行くつもりだったのだろうか。

 いくら夫婦生活が破綻していても、週の半分しか帰ってこなくても、まだパートナーは私だったのに。


 ベラベラ話す彼女に、リモコンを向けて消音ボタンを押したかった。


 そう思ったその時。

 店のドアが開く音と共に店内に入ってくる男性。


「梨華っ」


 そう、私より先に彼女を呼んだ夫、いや、佐川孝太がそこにいた。


「孝太さん」


 急に声色を変えて立ち上がる彼女。

 眉を下げて涙声を作り、彼の腕に手を寄せた。


「杏奈、彼女を呼び出してどうする気だよ!」


 ああ、そういう事か。

 彼女は被害者面して彼をここに呼んだのだ。

 話を進めたくて強行手段に出たのか。


 全てが一本に繋がった。


 私の前に並んで座った二人。

 彼女は急にしおらしくなり私が悪者になったのがすぐに分かった。


 泣くのは嫌だ。

 負けたみたいじゃないか。


 夫の浮気に直面してショックだった?

 いや、違う。

 嫌な女にまんまとやられて悲しいから?

 いや、違う。


 今までの何年かが全部、なにもかも崩れ去るからだ。

 萌に顔向け出来ないと思ったからだ。


 けれど。


『強い想いは切れないのよ』


 園長の言葉が耳元で聞こえたような気がした。


「孝太」


 久々に呼ぶ彼の名。

 これが最後になるだろう。


 でもいいの。



「私たち、離婚しましょう。」



 でも。



「萌はだめ。萌は私が育てます。萌だけは渡さないから」



 私の強い言い方に彼は少し驚いた表情を見せた。


 ***


 引っ越してから二人きりで並んで歩くのは初めてだった。

 離婚を口に出した瞬間から、ずっと胸に刺さっていた大きな大きなトゲがスッと消えてなくなったように思う。


 私はとても穏やかだった。


「香港の話があるの?」

「あぁ」

「そう、体に気を付けてね」

「あぁ」


 彼の2度目の返事が聞こえたその時だった。


「ママー!!パパー!!」


 家の前で待つ娘に呼ばれ、二人して同時に顔を上げる。


「……雪くん」


 萌の隣に立つ雪を見つけて、思わず呼んでしまった彼の名前。

 なぜあの時、『先生』をつけなかったのか、私はすぐに後悔することになった。

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