第8話

 毎週水曜日は特別な日になった。

 私たちは二人で並んでキッチンに立ち、二人で並んでお昼を食べる。二人で並んで片付けて、二人並んでココアを飲んだ。


 彼の淹れる甘いココアを飲んで思い出した。私は甘いのが好きだった。ブラックのコーヒーなんて飲めなかった。

 けれどあの人と結婚して、あの人の好きなブラックのコーヒーを淹れるようになって。いつのまにか私も飲めるようになった。

 ホッとくつろぐため、というよりは自分にスイッチを入れるため。


 そんな感じ。


 温かい飲み物を飲んで、のんびりする、その心地よさを私はしばらく忘れていたんだ。



 ガシャン!!



「あ!ご、ごめんなさい!」


 思わず手が滑って欠けたカップ。


「杏奈さん、血!」


 右手の人差し指を少しだけ切ってしまったようで、ゆっくりと真っ赤な血が滲み出した。

 彼はすぐに絆創膏を持ってきて、大丈夫?と聞いた。

 ごめんなさい。と謝る私の横で、気にしないで、と笑い、欠けたそれを片付ける彼。

 申し訳ない気持ちのまま絆創膏の紙を剥がした。


 紙袋に入れられて捨てられたカップ。

 私はそれを少し目で追っていた。


 毎週、あのカップだった。


 初めて会った日も。

 彼に想いを伝えた日も。


 想い出の品が一つ無くなってしまった。


「貼るよ」


 手こずっていると勘違いした彼が私の手から絆創膏を取り上げた。


 そして彼は、よし!と、にっこり笑ったあと私の手をギュッと握り締め言った。


「今度、杏奈さんだけのカップ用意するね」


 また私の心を読み取った?

 そう話すと、彼は。


「なぜかわかる」


 と、嬉しそうに言った。


 肉体関係なんか持っていない。

 触れ合うのも、手と手だけ。

 けれど、私は思う。

 それでもこの気持ちは愛だと。


 昨晩、あの人の携帯の画面が光って知らない子からのラインのメッセージが私を攻撃した。


『今日は楽しかった』


 ハートマークが満載のメッセージ。

 誰かとそういう関係を持ったことを知らされた。裏切られた悲しさと、あの人への失望。そして嫌悪感。


 彼への気持ちが増えたのはそのせいもあるかもしれない。

 そんな打算的な私もいたのかもしれない。

 そんな私に、もしかしたら彼は、気がついているかもしれない。


 それでも。


「来週はなに食べたい?」


 そう優しく微笑む彼に、気持ちはどんどん奪われた。


 彼といるときは幸せ。

 この気持ちは本当だった。


 ドアを開けると空の向こうに怪しげな黒い雲。

 雨が降るのかもしれないと思った。

 私が帰ったあとに、降らないで欲しいと思う。

 雨の中、彼を一人にしたくなかったから。


 けれど、その気持ちとは裏腹に青い空をどんどん食い潰す黒い闇。

 なぜか、言い表せない不安が込み上げてきて、大きくなるそれに飲み込まれてしまいそうになる。


 少し震えていたかもしれない。


「大丈夫だよ」


 彼はそう言ったけれど。

 私の心はざわついていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る