第4話

『水曜の午後はいつも店にいますから』


 からかわないで。と怒った私に彼が言った二つ目の言葉がそれだった。


 急ぎ足のせいか、あっという間に家まで着いた。


 慌てて開けた玄関の扉。

 借りたままの傘が視界の隅に飛び込んだ。



「……水曜日」



 萌の幼稚園は毎水曜日が、午前保育だ。


『預かりは18時までありますからご利用くださいね』


 確か園長はそう説明していた。


「だから水曜の午後……」



 な、何考えてるの、私。


 からかわれてるのよ。という私と、傘は返さなきゃ。という私を一人繰り返す。


 シンとしている部屋の中。

 出るときに回していった洗濯機から水の音だけが聞こえている。


 そのせいなのか、思い出してしまう。


 雨粒がスローモーションで落ちたあの日の感覚。


 濡れた前髪から覗く彼の眼差し。


 理性が飛んでしまいそうで怖い。


『好きです』


 さっきから彼の言葉が耳にこだまして離れない。


 なぜかわからない。


 なぜかわからないのだけど、何にも手がつかないほど彼の言葉に捕らわれ続けた。



 ***


「晩飯ないのかよ!」


 帰ってくるなりそう言い放ち、コンビニに出掛けていった。


 今朝はいらないって言ったじゃない。


 彼が玄関で言った一言がまだ耳に残っている。


『家のことくらいちゃんとやれよ』


 萌が寝ていて良かった。


 久しぶりに泣いてしまいそうだったから。


 家のことくらいって何。


 遅く帰ってきて、急に食事を欲しがって。

 今朝いらないって言ったから用意しなかったのよ。


 いつも分からないながらも用意する彼の分は、次の日の私のお昼になっている。


 それにきっと気がついたから今日は連絡してくれたんだと、少し嬉しいとさえ思っていた私が間違いだった。


 戻ってきた彼はお弁当を食べたあと、ゴミもコップもビールの缶も箸までも、そのままにして寝室へと消えた。



 当たり前のようにそれを片付けた私。

 照明を落とした部屋に一人きり。

 昼間と違い、何も音のない世界。

 なぜか急に目頭が熱くなった。


 慌ててお風呂場へと急ぐ。


 娘とすでに入っていたがシャワーをひねった。


 流れ落ちる水の音が泣き声を隠してくれるだろう。

 けれど、それでも殺す声。


 隠して、隠して。


 私は、自分を隠してる。それはもう長い間。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る