第3話

 滝沢です。

 滝沢 ゆき、女みたいな名前でしょ?


 そう言って彼は頭をかいた。


「わたしは、さがわ もえ!」


 隣で娘がそう言うと、彼は娘の顔を覗きこんで『可愛い名前だね』と微笑んだ。


 こちらを向いたので慌てて名乗る。


『さっ、佐川です』


 そう言って軽く頭を下げると、彼は私の目をまっすぐに見て、下のお名前は?と聞いた。


「あんな……あんなです。あんずの杏に、奈良の奈で」

「杏奈さん。綺麗な名前ですね」


 少し赤くなったかもしれない。

 異性に下の名前を呼ばれるなんて、あまりに久しぶりだったから。



 佐川さん。

 ママ。

 もえちゃんのママ。

 お前。


 そんな呼び方に慣れてしまっていた。


 私は私の名前を知らない人ばかりに囲まれているんじゃないかと錯覚を起こすほどに。


 外の雨音が強くなって、窓にあたる。

 急に現実に引き戻され、時計を見た。


 慌ててお財布を取り出すと『いらないですよ』と彼は微笑み、娘に『またね』と手を振った。


 借りた傘を返しにくるだろうから『またね』だったのだろうか。家について、玄関に立て掛けたモスグリーンの傘を黙って眺めた。


 ***



『おはようございまーす!』


 次の朝、幼稚園の前に立つ彼を見てびっくりした。

 黒のサロンではなく、キャラクターがついた青いエプロンをかけ園児たちにハイタッチしている。


 転園した初日。


 早速再会した彼は、昨日と変わらない笑顔で私の方を見る。

 ただ……雨色の中見た彼と、今、朝日に照らされる彼とが違う人のように見えて、私は正直戸惑った。


『あー!!レストランのタッキー!!』


 娘がそう叫びながら彼に近づく。

 タッキーとは滝沢だからか。驚きながらも後を追うと、彼は娘の前に屈んで『レストランのタッキーは内緒にしててね?』と顔の前で両手を合わせた。


 そして彼は立ち上がり、回りに人がいないことを確認すると簡単に話し始めた。


 彼の本職はこの幼稚園の栄養士だということ。あのお店は祖父母の店で、お店の定休日には借りて料理の練習をしてること。

 転園の手続きに来た私たちを覚えていたから、昨日も私が誰かわかっていたこと。


 そして――――


「信じないかもしれないけれど」


 同じくらいの女の子に誘われて、私の手を急に離し駆け出した娘。


「もえっ!」


 そう娘の名前を呼びながら、彼の横に立った時それは間違いなく聞こえた。


『好きです』


 そう言った彼の声が。

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