第2話
『転勤になったから』
最後の段ボールを開けた時、あの日の彼のその言葉を思い出した。
最後の段ボール――もう必要なくなったそれらを捨てられないのは、きっと未練があるからだった。
ここに越してくる直前まで、私は仕事をしていた。大学を卒業してから、この年までずっと続けていた仕事。
お給料が特別良かった訳じゃない。
楽な仕事だった訳じゃない。
結婚して、妊娠して、出産して。
大変だったけれど、それでも辞めなかったのは、やっぱりその仕事が好きだったから。
そんなに大きな会社ではなかったけれど、地域に密着したフリーペーパーを作る部署にいた私。新しくオープンしたお店や、美味しいと噂の飲食店、おしゃれな雑貨屋さん、他にも、お花見、果物狩り……など、色々な場所を巡り色々な人に出会った。
段ボールの中に入っている沢山のノートやパンフレットは、私の宝物だった。
『仕事すぐ辞められるよな?』と軽く言った彼。
『それ捨てないのかよ』と軽く言った彼。
何だったんだろうと思わざるをえない。
「ママー!パパ今日も遅いの?」
娘に声をかけられ、我に返った。
「そうだねー。忙しいみたい」
引っ越してきてから一週間。
すぐ次の日から出社だった彼。
慣れない場所で疲れてくるだろうと、食卓に毎日彼の好物を並べたけれど、歓迎会が何日続くのか、最近ずっと帰りが12時を越えていた。
「お外に食べに行こうか」
近くに、子連れでも大丈夫そうな洋食屋さんがあったことを思い出す。
空は少しどんよりしていたが、天気予報に傘マークはなかったし、お財布と携帯だけバックに押し込み外に出た。
歩いて15分。
お店の前に着いてガッカリした。
店の扉にかかった『定休日』の文字と……降りだした雨。
「お腹すいたー!」
娘が愚図りはじめたが、雨はどんどんひどくなる。例え抱きかかえて走っても、ずぶ濡れになるだろうと思った。
『少し雨宿りさせてもらおうね』と店の軒先を借り、あめ玉でも入っていないか鞄を探ったが、こんなときほど何も出てこなかった。
娘を庇う袖が濡れる。
少しずつ、水を纏う体。
……仕方ない。走って帰ろう。
そう思い、娘の体に私の上着を羽織らせた。
ちょうどその時――
――雨が止んだ。
と思った。
「今日、うち定休日ですよ?」
そう言って、私たちの上に傘を傾げたその人。
傘から覗く温かな眼差しと透き通った白い肌、深い髪の黒色。
こんなに綺麗な男の子を私は見たことがないと思った。
見るからに私より年下の彼は、私に傘を渡すと、少しかがんで、お腹すいた?と娘に聞く。
雨に濡れた彼の背中に気付き、慌てて傘をたむけると、柔らかく微笑む。
雨は、相変わらず何本も斜線を引いていたがそれはそれは静かで、音すらまるで聞こえない。
時間の進み方が狂ったのか、瞬きする彼の睫毛も驚くほどゆっくりと動いた……ような気がした。
「どうぞ」
そう言って店の鍵を開けた彼は、扉の奥へ私たちを誘う。
カランカランとドアにかかったベルが乾いた音を鳴らした。
カントリー調の可愛らしい店内の、そんなに広くないであろうオープンキッチンの中に入った彼は、黒いサロンを身にまとい、あっという間にオムライスを2つ作った。
借りたタオルで頭を拭きながら、ボーッと眺め続けた彼の姿。
……見とれていた。
間違いない。
私は……彼に見とれていた。
***
『美味しい!』と騒ぐ娘に微笑みかけたあと、私の前に立ち『お口に合いますか?』と笑った彼。
そして彼は「滝沢です」と言った。
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