第4話(7)


 午後の授業が始まる前に、柚季は学校をでてソプラノの姿を探しまわったが、結局見つけることはできなかった。

「あーっ・・どこにいるの?」

 時間が経つたび、不安がより濃いものになっていく。

 もしかして・・・シイカがソプラノのことをそそのかして、天界に連れて行ってしまったのだろうか。

 一応、ソプラノに話しかけないでとは言ってあるが、正直、それだけでは不安だった。

「・・・──」

(家周辺は探したし・・・あと、ソプラノがいそうなところはっ・・・)

 分からない。けど、もしかしたら桜川病院の方へ戻ってるかも。

(まだヒビキとの待ち合わせには早いけどっ・・・行ってみよう)

 そう考えた柚季は、荷物は一端、家に置いてきて桜川病院へとむかった。



 電車を降りて、柚季は桜川病院までやってきた。

 午後になったからか、午前中よりは人が少ない気がした。

 ソプラノが入院している病室に向かおうとした時、柚季は思わず歩みをとめる。

 病院内にある売店・・他の客に混じり、見知った顔が一人。

「シイカ!何やってるの?」

「おおっ柚季ー」

 シイカは売店のものらしき菓子パンを口にくわえ、こちらに振り返った。

「ここの売店、けっこう品揃えいいんだなー」

 そんなことを呟きながら、柚季の方へ歩み寄ってくる。

 柚季はそれに苛立ちがこみあげ、思わず大声で

「・・・そんなことして場合じゃないし!ソプラノは?どこっ?」

「あいつならさっき会ったぞ。ここら辺探せばまだいるかもなー」

「!・・・ほんとに?って言うか、ソプラノに余計なこと言ってないよね?」

「おー言ってねー、言ってねぇ」

 そしてシイカは、残りのパンを全て口に入れる。

「・・・」

 その時、近くを通りがかった人と目があった。

 次に柚季は、周囲の視線がこちらに注がれていることに気付く。

「普通の地上人には、オレの姿見えねーから、あまり大声出さねー方がいいぞ?」

 シイカは面白そうにそう言って、柚季の肩をポンポンと叩く。

「っ・・・分かってるから」

 会話することに夢中になって、すっかりその事実は頭の隅の方にあった。

 顏が赤くなるのを感じる。

「はたから見たら、空気と話している変な奴になるからな。ま、それでも面白くてありだと思うけどなぁ」

 満面の笑みでそう言うシイカに言い返したくなったが、柚季はそれをぐっとこらえた。

「・・・ソプラノのこと探しにいくから、シイカも一緒に来て」

 これ以上、シイカにうろちょろされるのも嫌なので、柚季は念のため、そう言った。



 そして、時間はあっと言う間に過ぎ・・・もうすぐでヒビキとの待ち合わせの時刻。

 この時刻になるまでに病院内を探しまわったり、スタッフの人にソプラノを見なかったか聞いたり、外にでて周辺を探したりしたが、結局彼女を見つけることはできなかった。

 柚季は、病院がある通りで取りあえず立ち止まると

「ほんと、どこにいるんだろ・・

 もしかして、シイカ、天界に連れってたりしてないよね?」

 今まで退屈そうにしながらも、柚季についてきたシイカは珍しく真剣みのある表情を浮かべる。

「オレはしてねーぞ」

「・・・」

「・・・」

「どうしよ、もう待ち合わせの時間だしっ・・」

「なんなら、早く行った方がいいんじゃねーか?もしかしたら、ソプラノも来るかもしれねぇだろ」

「?・・・どうしてソプラノが来るの?

 ソプラノ、わたしとヒビキが待ち合わせしてること知らないし」

 シイカはそれに、にこやかな表情を少しだけ緩めると「・・・さぁな」と呟いた。

「?取りあえず、行ってくるから!」

 シイカの言葉が気にならないわけではなかったが、もう時間がない。

 柚季はこの場から駆け出すと、ヒビキとの待ち合わせのファミレスへ向かった。


「・・・チャンスじゃねーのか?」

 柚季が去った後、空からフワリと降りてきたソプラノに向かってシイカはそう言った。

「分かってる」

 ソプラノはポツリとそう返すと、服のポケットから白の錠剤が数個入ったビンを取り出す。そして、その中から一錠てのひらに落とすと、口の中へ含んだ。

「ん?それ、まだ飲むのかー?」

「・・多分、こっちの方がやりやすいから」

 ソプラノはシイカの方は見ずにそう返すと、鎌を握りしめこの場を後にした。



 柚季はヒビキとの待ち合わせのファミレスに来ていた。

(ちゃんと来てくれるかな)

 出入口付近で、彼の姿を探す。

 ケータイで今の時刻を確認すると、待ち合わせ時刻を数分過ぎていた。

「・・・」

(もしかしたら、中にいるかも・・・)

 店内に入ろうとした時、駐輪場に一台の車が入ってきた。

 ・・・その車を運転するのは、ヒビキだった。

「!・・・よかった」

 柚季はほっと胸をなでおろす。

 ・・・少し待つと、車から降りたヒビキがこちらに駆け寄ってきて

「ごめんごめん待たせちゃったかな」

「大丈夫ですっわたしも今来たところですから」

「ならよかった」

「・・・」

「・・・」

 そして、ヒビキの表情は少しずつしぼんでいく。

「・・・姉ちゃんは来てないんだな?」

「!・・」

 ヒビキの口から発せらせた思わぬ言葉に、柚季は息をのむ。

「信じてくれるんですか?」

「・・・──本当に信じがたい話だよな・・でも、やっぱり本当のことなんだと思う」

 ヒビキはしっかりとした口調で、そう言った。

 柚季はその言葉に、少なからずほっとした。

 ・・・信じてもらえなければ、何も始まらない。

「いろいろ考えたけど・・あの子は、姉ちゃんとあてはまることが多すぎた」

「当たり前です。あの子はソプラノで間違いないですから」

「・・そう・・だよな」

 その時、冷たい風が吹き抜ける。

 ヒビキはこの場の空気を和らげるように

「あ~寒い!中入ろうか?」

 柚季にとっては、中まで移動する時間ももどかしかった。

「もう一度ソプラノに会う気はありますか?」

「──・・・」

 それに、ヒビキの表情が陰る。

「・・・きっと姉ちゃんは、オレのこと怒ってるよな?」

「!・・」

「こんなオレともう一度会ったって・・姉ちゃんに嫌な思い、させるだけかもしれない・・約束も守れなかったし・・」

「っ──・・会いたいの!?会いたくないの?どっち・・!?」

 柚季は気付いたら、そう叫ぶように言っていた。

 だってヒビキからききたいのは、そんな言葉ではない。

「オレは・・」

 その時、隣から誰かが立っている気配がした。

 はっとして振り向くと、そこには・・・

「ソプラノっ・・・!」

 無の表情を浮かべた彼女が、そこに立っている。

「・・姉ちゃん」

 ヒビキはそんなソプラノを見下ろし、どこか怯えた表情を浮かべた。

 柚季はソプラノが手に持つものに、目が釘付けになる。

「ソプラノっ・・それって・・・」

 それには見覚えがある。

 シイカの使っていた背の高い大きな鎌。魂を肉体から引き離す道具。

 一瞬にして、血の気がひいた。

「私まだ、ヒビキと一緒にいたいから」

 ソプラノはそう呟くと、ヒビキに向かって鎌を振り上げる。

「!!ダメっっ」

 柚季はほぼ反射的に、ヒビキの前に飛び込んだ。

 ・・・どうしてこんなことになってしまったのだろう。意味が分からない。

 けれど、どんな理由があろうともソプラノにこんなことやらせてはいけない。

「邪魔。どいて」

 ソプラノの声は、怒っているのか、それとも悲しんでいるのか・・よく分からなかった。

 まるで、境界にいるソプラノに戻ってしまったようだ。

「ちょっと待って!どうしてこんなことっ・・」

 柚季がそう言っている間にも、ソプラノは素早くヒビキの方へ回り込み、鎌を振り上げた。

「!逃げて!!」

 柚季はとっさにヒビキの腕を掴むと、駆け出した。

 ・・・ヒビキも一緒になって走り出す。

 ファミレスの敷地内から、歩道に飛び出すと必死に足を動かした。

「っ──・・」

(どうしてこんなことにっ・・・)

 少しの間一緒にいなかっただけで、ソプラノは大きく心変わりしてしまったようだ。

 どうにかして、止めなくては。

 そんなことを考えていると、突然、ヒビキの足がとまった。

「!?・・どうしたんですかっ?逃げないと」

「・・・これでいいんだ」

 ヒビキはその言葉と同時に、柚季の手を振り払う。

「──・・・え?」

 そして、すぐに踵を返すと、柚季から離れていく。

 柚季が困惑していると、すぐにソプラノがヒビキの前に現れた。

「!!」

 ヒビキはその場に立ち尽くしているだけで、何もしない。

(このままじゃっ・・)

 ソプラノは鎌を振り上げ、勢いよく振り下ろした。

「ダメーーーっ!!!」

 そう叫ぶと同時に、柚季の全身にバチリと電気のようなものが帯びる。

「!?」

 それは柚季の体から勢いよく伸びると、ソプラノの手から鎌を弾き落とした。

「っ──・・・?」

(これって・・すずの・・・)

 今までにない事態に、柚季は混乱する。

 間違いなく、これ、はすずの力だ。

 この力が使える時は、すずに体を乗っ取られた時だけだったのに。

 ・・・今はしっかりと自分の意志で、体を動かせる状態だ。

 ソプラノは柚季を一瞥したが、再び地面に落ちた鎌に手を伸ばす。

「!」

(もうこうなったら、やってみるしかないっ)

 柚季は鎌の方へ、掌を向ける。

 するとそこから、電気の筋のようなものが現れ、鎌をより遠くへ弾いた。

 信じられないと思いつつも、この隙にに柚季はヒビキの方へ駆け寄った。

「今のうちにっ」

 柚季がそう声をかけても、ヒビキは唇を固く結んだまま動こうとしてくれなかった。

「っ・・・──どうして・・」

「・・・」

 その時、鎌を手に持ったソプラノがこちらに戻ってきた。

 ヒビキは臆する様子なく、ソプラノのことを見据える。

「殺していいよ。オレ、姉ちゃんとなら天国にだって行けるから」

 ヒビキは何の迷いも感じられない声で、そう言った。

「!!・・・」

 柚季はもう、何も言えなかった。

 ソプラノはその言葉にも、何も表情を動かさず立ち尽くしている。

 ・・・そして、鎌を振り上げた。

「っ──・・・」

 もうダメかと思ったが、その波崎はヒビキに当たる寸前で停止していた。

「?・・」

 柚季がソプラノの顏を見ると、その目にはうっすらと涙が溜まっていることが分かった。

「・・・ソプラノ?」

 ソプラノは鎌を地面に落とすと、すぐに踵を返し走り出す。

 ・・・その涙を見て、柚季は言わずにはいられなかった。

「っ・・・どうして一緒に生きようって言ってあげらないのっ!?」

 そう叫ぶと、柚季は駆け出した。

(ソプラノっ・・・待って・・・──!)

 まだ、天界にはいかないで。生きることのできるチャンスを手放さないで。



 ヒビキは、走り去っていく女子高生をただ息が詰まる思いで見ていた。

(オレは何てことを言ったんだ・・・)

 自分は、ただ、約束を守ろうとすることに必死だった。

 ソプラノが殺してくれれば、約束を守ったことになると思っていた。そして、今まで抱えてきた黒い感情から逃れられると思っていた。

(そんなの、自己満足じゃないかっ・・・)

 ソプラノの魂がこの地上にあることに初めて気付いて。

 ・・・──少し考えれば、分かることなのに。ソプラノの立場になって考えてみれば、分かることだったのに。

 あの女子高生の一言で、気付くことになるなんて。



 柚季は、ソプラノに追いつくため、夜道を必死になって走っていた。

 ・・・ソプラノがヒビキを殺さなかったことにはほっとしたが、嫌な予感しかしなかった。

 きっと、ソプラノはもう・・・

「っ・・・──」

(どうすれば、ソプラノのことを止められる・・?)

 分からない。一体、どうすれば・・。

 柚季は、少しずつ歩調を緩める。

 必死になって走ったため、息が上がって苦しい。

 大きく肩で息をしながら、柚季は立ち止まった。

「・・・──」

 ソプラノのために何もできない自分が、腹立たしくて仕方なかった。

 ・・・思わず、泣きそうになる。

「っ・・」

 とその時、眼帯で覆われた左目に鈍い痛みがはしった。

 はっとすると同時に、柚季の唇は勝手に動いていた。

「ゆず。何もできないなんてことはないわ」

(!・・・すずっ)

 すずは、柚季の声を使いそう言って笑みを作る。

「私とはじめて会った時の、強気なゆずはどこいったの?こんなことで弱気になるなんて、ほんと期待外れだわぁ」

(・・・──)

「・・・今まで生きてきたゆず、になら分かるでしょう?

 私やあの子より、ゆずは地上でながく生きてきたんだから」

(っ・・・分からないっ)

「・・・心の中で思っていることを口にすればいいだけよ。何も考えずにね」

(?・・)

「・・・」

 とその時、柚季の体に自由が戻った。

 ・・・まさか、すずがでてくるなんて思っていなかった。

 相変わらずの柚季をバカにしたような口ぶりは気に食わないが・・・そこまで言われると、何もせずに立っていることなんてできなかった。

 そして柚季は再び走り出す。

『今まで生きてきたゆずになら、分かるでしょう?』

 その言葉が、柚季の頭の中に取り残されていた。

(分からない・・・けど)

 確かに柚季は、ソプラノやすずよりながく生きている。

 だから、もしかしたら・・・分かる何かがあるかもしれない。柚季はそう信じたかった。



 ソプラノはある人物の姿が目に入って、歩みを止めた。

 シイカは、ソプラノが立ち止まるとこちらに歩み寄ってくる。

「さてと・・そろそろ行くか?」

 ソプラノはそれに、コクリと頷いた。

「ん?ヒビキって奴は連れてこなかったのかー?」

「やっぱいい。一人で行く」

 ソプラノはすぐさまそう返した。

 あの時・・ヒビキに殺していいよ、と言われた時、自分の手はどう頑張っても動いてくれなかった。そして、それと同時に理解した。

 自分はヒビキを殺すことなんてできない。

 どんな理屈を並べたって、それで納得しようとしたって・・殺す、ことなんてできるはずなかった。

 ヒビキと一緒にいたい、それはソプラノの本心なのに。

「ソプラノ!!待って!」

 柚季はシイカと一緒にいるソプラノを何とか見つけ出すと、そう叫んだ。

 ・・・病院からあまり離れていない場所で、本当によかった。

「柚季~よかったなぁ。こいつ、天界に行くってよ!これで魔女の条件をクリアできるな」

 柚季が駆け寄ると、シイカはご機嫌な様子でそう言う。

「よくないから!」

 柚季はソプラノの手を取ると、シイカの傍から引き離した。

「・・・何なんだよー」

 そう言うシイカを無視して、柚季はソプラノの前に座り込み、彼女と目を合わせた。

「ソプラノっ・・どうしてヒビキにあんなことしたの?」

「──・・・一緒にいたかったから」

 ソプラノは柚季の視線から逃れるように、目を伏せる。

「っ・・・なら、どうして生きないの?ソプラノにはちゃんと・・帰れる体が・・」

 柚季はソプラノに手を伸ばす・・が、触れようとする手を弾き返されてしまった。

「!・・」

「その言葉、そんな軽々しく口にしないで」

 ソプラノは柚季のことを軽蔑するような目で見た。

「・・・ソプラノ」

 ソプラノはすっと目を細めると、

「・・・──私が死ぬことは運命だった。それだけのことだから」

 そして、柚季に目を向けるとシイカの方へ歩みよっていく。

「っ──・・・!」

(運命・・?)

 そんな言葉だけで片付けるなんて、おかしい。

 ・・・じゃぁ、優歌がしぬことも運命だったの?

 琴音が大切な友達をなくすことも?

 それらはみな最初から決まっていることだったの・・・?

(──・・・違う)

 柚季は今でも後悔していた。

 あの時、もっと強くシイカのことを止めていれば、優歌の魂を持っていかれなくて済んだかもしれない。

 この世界に奇跡という言葉があるのならば、その奇跡を自分で起こせたかもしれない。

 ・・・そうだったら、琴音に苦しい思いをさせなくて済んだかもしれない。

 運命と割り切ってしまえば、楽になれることはもちろん知っているけど。

「・・・っわたしは運命なんか信じない!!」

 柚季は立ち上がり、大声で叫ぶ。すると、ソプラノの歩みが止まった。

「どうしてそうやって決めつけるの!?

 運命だって決めつけて、何もかも諦めるぐらいだったら、わたしはずっと悩んで迷ってた方がいいから!!」

 柚季は無我夢中だった。

 そして気付く。この言葉は、ソプラノに伝えたい言葉でもあるけど、自分にも言い聞かせたい言葉だ。

「──・・・」

 ソプラノは柚季に背を向けたまま、立ち尽くしていた。

 柚季はソプラノの方へ駆け寄る。

「ソプラノっ・・だからっ・・」

「う``・・・うぅ・・」

「!」

 ソプラノは、その目から絶え間なく涙を流し、掌に顏を埋めた。

「・・う``-・・・」

「ソプラノ・・」

「だっ・・て、生きること・・すごく怖いっ・・」

 ソプラノは、泣きじゃくりながら確かにそう言った。

「う・・ぅ・・私、どうやって生きていけばいいかなんて・・分からないっヒビキみたく、ちゃんと居場所を見つけられるかもっ・・分からない・・私、すごくっ・・怖いっ」

「!──・・」

 柚季はソプラノの言葉に、はっとする。

 だって、それは・・・

「じゃぁ、わたしと同じじゃん」

「──・・?」

 柚季の言葉に、ソプラノは少し顏を上げた。

「わたしも不安で怖いことばっかだよ。

 ・・・来週のテスト、赤点とらないか不安だし、ちゃんと大学行けるか不安だし、社会にでたらちゃんと仕事こなせるか不安だし・・・もちろん、これから自分がどう生きていくかなんて、これっぽっちも分からないし」

 柚季は少しだけ微笑んだ。

「・・・柚季も・・?」

 ソプラノは目の淵に涙をため、柚季を見る。

「うんっ・・っていうか、どうやって生きていけばいいかなんて、しっかり分かってる人、そうそういないと思う」

「・・・そう・・なの・・?」

 柚季は頷く。

「うん、未来なんて分からないことだらけだよ」

「──・・・」

「・・だから、他人同士でも家族や友達になれるのかも。みんな怖くて不安なのは一緒だしね・・?

 だから、別に大丈夫だと思う!怖くてもっ」

 柚季は苦笑した。

 ・・・きっと不安なくして生きられる人は、それを誰よりも多く乗り越えてきた人だけなのかもしれない。

「・・・」

 ソプラノは唇を結んだまま、目のふちの涙を手で拭う。

 もしかしたら、呆れられるかもしれない・・そう思っていた柚季は、その姿を見て少しだけ安心できた。

「・・今でもヒビキ、私のこと家族だって思ってくれてるのかな・・新しい家族だけで十分なんじゃないかな・・」

「・・─じゃぁ、ヒビキにもう一回会って確かめてみようよ!・・・ね?」

 ソプラノは不安げな表情のままだったが・・・やがて一回だけ、コクリと頷いた。

 柚季がほっとしたのもつかの間、

「んなこときかなくても分かるだろー?」

「!」

 シイカは呆れ顔で柚季を見る。

「・・・シイカは黙ってて」

 柚季はソプラノのと共にこの場から離れようとするが、その前にシイカはいった。

「ヒビキって奴は、ソプラノは大切な家族だ!って言うに決まってるだろー?この状況で、それ以外のこと言える奴、そーそーいねぇって!」

「っ・・!何も知らないのに、適当なこと言わないでよ!!」

 柚季はシイカの言葉に、今までになく怒りがつのった。

 それとは対照的に、シイカはにっと笑う。

 ・・・まるで、柚季の反応を楽しんでいるかのようだ。

 シイカは、柚季とソプラノの方に歩みよってくると言葉を続けた。

「別に適当じゃねーぞ!ヒビキの性格と状況から考えれば、分かることだからな」

「──・・・」

「問題は、10年後、20年後・・・だぞ。

 地上人にとっての10年は、長いだろー?もちろん、その間に裏切られる・・なんてこともあるわけだ」

「っ!!」

 気付いたら柚季は、シイカの頬を思いっきり平手打ちしていた。

 初めて見るシイカの驚いたような表情が目に入ったが、気にならなかった。

「シイカが信じなかったとしても、わたしは信じてるから!!」

「──・・・いってぇなぁ」

「行こう、ソプラノ」

 柚季はソプラノの手を取る。そして、駆け出した。

 まだ苛立ちがおさまらない。許せない。

(・・どうしてあんなこと言うのっ・・)

 ソプラノがシイカに何をした?・・・なにもしていない。

(それなのに、どうして)

「・・柚季、ありがとう」

 ソプラノの呟くような声が、きこえた・・気がした。


 2人の走り去っていく姿を眺めがら、シイカは呟いた。

「・・少なくともオレの場合はそうだったけどなー」



 シイカが追ってこないことを確認すると、柚季は歩調を緩めた。

「・・・ほんと、シイカってサイテー」

 柚季がそう呟くと、ソプラノは隣を歩き

「柚季は・・すず様のだした条件をクリアーしなくていいの?

 私が天界に行かなくちゃ、クリアーはできない」

「・・・それはそうなんだけど、ソプラノの命も大事だし」

 突然のソプラノの言葉に戸惑いつつも、柚季はそう言葉を並べた。

「それに、理由を話せばすずも分かってくれるって・・・また別の条件にしてもらえばいいことだしね?」

「──・・・」

 とその時、周囲の雑音に混じり、何かの音が微かにきこえてきた。

 ・・・確かに聞こえる。

「!・・・──」

(この音って・・・)

 柚季は息をのむ。

 いや、これは音ではなくて・・・──

(誰か、歌ってる・・?)

 しかも、この歌、どこかで。

「ヒビキ・・・?」

 そう呟いたのはソプラノだった。

 そして彼女は、歩調を早めると走り出す。

「ソプラノっ!」

 柚季はその言葉で、確信した。

 きこえてくるこの歌は、柚季が初めて大人のソプラノに会いに病院へ行ったとき、ヒビキが歌っていたものだ。


 ソプラノの後を追いかけると、彼女が立ち止まったのは人気のない公園だった。

 ソプラノの隣に立つと、柚季の目にある光景が飛び込んでくる。

 夜の闇に包まれた公園・・・そこにポツリと立っている外灯の下に立っているのは、ヒビキだった。

 ヒビキはこちらに気付く様子なく、ただ空に向かって歌をうたっている。

 その表情は、真剣そのものだ。

「っ・・・ヒビキ!!」

 ソプラノは、そう叫ぶと走り出す。

「!・・姉ちゃん」

 ヒビキはソプラノの姿に気付くと、歌をうたうことを止めこちらに振り返った。

 そして、駆け寄ってきたソプラノの前にしゃがみ込む。

「ヒビキ、その歌・・」

 ソプラノの言葉をきく様子なく、ヒビキは彼女のことを強く抱きしめていた。

「うぅ・・よかった・・姉ちゃん、天国に行っちゃうんじゃないかって・・すごく心配でっ・・でも、探しても見つからなくて・・」

「・・・」

 ヒビキは涙で顏をぐちゃぐちゃにしながら、言葉を続ける。

「オレの歌聞こえたら、もしかしたら戻ってきてくれるかもしれないって思ったんだっ・・・──本当によかった・・」

「──・・」

 ソプラノはそれにも何も言わず、その小さな掌をヒビキの背中にまわす。

「姉ちゃん、あんなこと言って本当にご・・」

「音程ずれてる」

「!」

 ヒビキは、その言葉に驚いたらしくソプラノから離れると、彼女の顏を見た。

 ソプラノは、

「・・・あと、もっとおなか使って、のどの奥から声ださないと響かない」

「・・・──姉ちゃん」

 ソプラノは、瞳を細め微笑んだ。

 すると、彼女の体が淡い光を帯びはじめる。

「!?」

 見る見るうちにその光は強くなると、ソプラノの姿は光によって完全に見えなくなり・・・そして、空気に溶けるように消え失せた。

「・・・姉ちゃん!?」

 ヒビキはさきほどまでソプラノがいた空間を、まじまじと見つめた。

 ・・・そこには光の余韻がわずかに残っているだけ。

 柚季はこの事態に戸惑いつつも、考える。

(もしかしてっ・・・)

 そして、駆け出した。



 柚季はソプラノが入院している病室まで、息を切らしながらやってきた。

「・・・」

 息を整えながら、ゆっくりとソプラノが横たわっているベッドへ歩み寄る。

「ソプラノ!」

 柚季は静かに目を閉じている大人のソプラノへそう声をかけた。

 ・・──すると、ソプラノはゆっくりとその目を開いた。

「・・・・・柚季?」

 ソプラノの声は、深みのある落ち着いた声だ。

「ソプラノっ・・・よかった!!」

 女の子の姿から、大人の姿になったソプラノは、もちろん容姿の印象もだいぶ違う。

 けれど、その違和感よりも安心感と嬉しさで柚季の心は一杯だった。

 ソプラノは柚季の方へ顏を向けると、

「私・・・生きてる」

「うん!ソプラノは生きてるよ!」

 柚季は、力強くそう返した。

 ソプラノはそれに少しだけ微笑む。

「・・・懐かしい・・布団の温かい感じとか・・お腹がすいてる感じとか・・それと、空気を吸い込める感じとか・・・」

「うんっ・・」

「──・・・」

 すると、ソプラノは布団から手をだし柚季の手を握った。

「柚季・・ありがと。ヒビキのこと信じるって言ってくれて・・──だから、私も・・」

「・・・──」

「・・・すず様。私が天界に行くという二つ目のヒントを、柚季がクリアーしたことにしてもらってもいいですか・・?」

「!・・・」

 その途端、柚季の体の自由は奪われた。

「・・ソプラノがそう言うなら、もちろんそうするわ」

 すずは、柚季の声を使ってそう言った。

 そして、眼帯を外すとその赤の瞳でソプラノを見据え、彼女が握っている柚季の手の上に、もう片方の手を重ねる。

「っ・・ありがとうございます」

「ソプラノ、その姿、とてもきれいよ・・・」

 すずは微笑む。

「う``・・・ぅ・・すず様・・私、すず様にたくさんお世話になったのに、こんな形になってしまいごめんなさい・・何も恩返しすることができてくて、ごめんなさい」

 ソプラノは涙で頬を濡らしていく。

「何言ってるの、謝ることなんかじゃないわぁ」

「・・・うぅ・・」

「相変わらず泣き虫ね、あなたは。その姿に泣き虫なんて似合わないわよー・・」

「う``ぅ・・分かってます・・」

 ソプラノはそう言いつつ、頬に流れている涙を掌で拭った。

「・・・」

「・・・」

「──・・・すず様・・本当にこれでよかったんでしょうか・・?」

 ソプラノは弱々しい表情で、すずを見る。

「・・・分からないわ」

 すずはポツリとそう言った。

「──・・」

「けれど・・・」

「生きているってことは、たくさんの可能性に満ちているってことじゃないかしら?

 それをよいものにできるかは、あなたの心次第で決まってくるはずよ・・・きっとね」

「っ・・・──はいっ・・」

 ソプラノは目の淵に涙をためたまま、ゆっくりと頷いた。

 とその時、部屋の外から誰かが走ってくるような足音がきこえてくる。

「!・・・」

 ・・・すると、柚季の体は自由を取り戻した。

「姉ちゃんっ・・・」

 ヒビキは息を切らしながら部屋に入ってくる。

 柚季はソプラノから手を離すと、その場から距離をとり、二人の様子を見守った。

 ヒビキはソプラノの手を両方の手でしっかりと掴むと、

「よかった・・う``ぅ・・本当によかった・・・」

 ソプラノは穏やかに微笑んだ。

「ヒビキの泣き側、懐かしい・・あの頃と何も変わってない・・」

「う``ぅ・・そうだよ、姉ちゃん・・確かにオレ、声も低くなって体もでかくなったけどっ・・中身は何も変われない・・

 バカみたいにずっと歌うたってるし・・・すぐ泣くし・・医者に姉ちゃんのこと諦めろって言われても、バカみたいにずっとお見舞いきてさ・・」

「──・・・」

「っ・・・でも、本当によかった・・・よかった・・!!」

 柚季は二人の様子を見て、穏やか・・だけど、どこかせつない気持ちになる。

 ソプラノは境界ですずとすごすよりも、ヒビキのいる地上で生きることを選んだのだ。

 すずはそのことについて何も言わなかったけれど・・・本当はどう思っているのだろう。

「・・・」

 柚季は二人だけにしてあげようと思い、病室内から出ようと歩き出す・・外にでたとき、ソプラノが歌を口ずさむのがきこえた。

 それにヒビキも声を重ねる。

♪忙しく暮らす日々に迷い込み 思いやりが無意味に思えても 二度となくしてから気付くことのないように・・・

こんな僕を愛してくれる君に

言葉じゃ足りたいけど ありがとう ♪

 2人のか細い歌声は、静まり返った病室をそっと満たしていく。そして、柚季の心の中にも、それは染み込んできた。

 ・・・ソプラノは今、幸せだ。

 ヒビキと会えて、歌を歌えて。

(・・・私はそれで十分よ)

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