第2話『辛くって・苦しくって』

 俺に対する執拗ないじめの背後には魔女が潜んでいる?

 そんなこと、信じることなんてできなかった。いや、正確に言えばそんなことなんてどうでも良かった。魔女が背後にいたからといって、俺の受けたいじめが変わるわけではないのだから。

 暴力は特になかった。けれど、無視され、冷たい視線を向けられ、時には罵詈雑言を浴びせられたりして、精神的に参ってしまった。

 思い出すだけで、細い針で刺されるかのように胸がチクチク痛む。

「やめてくれよ。不快になっているのが分かっているなら、この件については話さないでくれるか?」

「でも、魔女のせいで結弦さんは――」

「そんなのどうだっていいだろ! 魔女がいたことが分かっても、俺の受けたことが変わるわけじゃないんだ!」

 思わずエリュに声を荒げてしまった。そのせいでエリュが怯えてしまっている。

 仮に魔女が背後にいたことが分かっても、俺の心に刻まれた傷が癒えるわけがない。魔女の存在を消せば俺に対する虐めがなくなるのか? そんなわけないだろ。虐めの原動力は人の心から湧き上がっているんだから。

「……悔しくないの?」

 そう言うエリュの目つきは、さっきとは違って鋭くなっていた。まさか、陽が沈んで夜のモードになったのか?

「結弦。黙ってないで答えなさいよ」

「……悔しい、けれど……」

「けれど、何なの?」

「……もう、いいじゃないか。俺はこうして不登校になってるんだから。虐めるってことは俺のことを学校から排除したいんだろ。だったら、俺はもう学校に行く気は無いしこれで全て解決じゃないか。魔女が生徒の誰かに入り込んでいても、それはエリュだけでも十分にできるだろ? 分かってるんだぞ、本当は自分だけでできるって」

 俺がそう言うと、エリュは俺の顔を見て嘲笑った。俺のことを挑発しているように。

「やっぱりそう言うと思った。結弦、あなたは典型的ないじめられっ子の引き籠もりね。いじめた人間が目の前にいるわけでもないのに逃げ腰になってる」

「当たり前だろ。あんな酷いいじめに遭ったんだから……」

「だったら尚更悔しいとは思わないの?」

「悔しいさ。でも、俺が今更何をしようとしたって……」

「結弦がそんな人間だからこんな風になっちゃったんじゃないの? 今のあなたを見てたら、あたしだっていじめたくなるわよ。だって、鬱憤晴らしに丁度良いもの!」

 あははっ、とエリュは高らかに笑い声を上げる。

 まるで、学校で受けたいじめを再現されているかのようだ。その所為で全身が震え、息苦しく、冷や汗が出る。今のエリュがこれまで俺を虐めてきた奴等と重なって見えてしまい、今すぐにもここから逃げ出したい気分だ。

「やめろ……」

「聞こえないわね。言いたいことがあるならはっきりと言いなさいよ!」

「やめろって言ってるだろ!」

 心の中にあった恐ろしさは、何時しか怒りへと変わっていて、気付けば俺はエリュの両肩を強く掴んでいた。

「学校で酷いいじめに遭って、それでこんな風になっている自分が悔しいって思ってるんだよ! だけど、どうすればいいのか全然分からないんだよ! それ以前に、いじめに向き合うことが怖くてたまらないんだ……」

 虐められてから初めて俺は本音を吐き出した。だからか、今までの我慢が解放されたかのように涙が流れ、留まるところを知らない。

 悔しいに決まっているさ。酷いいじめに遭ったことに。不登校になり、自殺まで考えてしまった自分に。だけど、それに対してどうすればいいのか全く分からない。

「……ちゃんとはっきり言えるじゃない」

 揺らぐ視界の中、エリュが微笑んでいるのが分かった。俺は腕で涙を拭う。

「悪かったわね。結弦に本音を言って欲しかったから、酷い言葉を言っちゃって。本当はそんなこと思ってないから」

「……いや、本当に俺がこんな人間だから虐められたんだと思う」

「虐めなんてね、全て加害者が悪いのよ。だからこそ、虐められた被害者側としては悔しく思うの。まるで、全てこっちが悪いように虐めてくるから……」

「でも、俺は……」

 高校入学してからのことで、俺が虐められそうな原因に心当たりがあった。そのことについてエリュに正直に話す。

「複数人の女子を振ったことと、実力試験がクラストップ……それじゃ虐められても仕方ないわね」

「……やっぱり、虐められても仕方ないのか……」

 女子とは話すことでやっとなのに、出会って間もない女子と付き合うなんて到底考えられなかった。本当に申し訳なくて、丁寧に断ったんだけど……それでも告白してきた女の子を傷つけてしまったんだな。

「あれは受けるべくして受けたことだったのか……」

「そんなわけないでしょ。結弦は告白してきた女の子を傷つけるために断ったわけじゃないんでしょ?」

「そうだけど……」

「だったら、堂々と胸を張りなさい。結弦が誠実だってことはあたしが分かってる。それに、実力試験の順位だってそんなの結果についてきた数字でしかないんだから。もしそれが虐めの原因なら、器が相当ちっちゃい人間がやってるわね」

 吸血鬼が人間のことについて言うと結構重く感じる。

 エリュは俺の手を包み込むようにして掴む。

「結弦。あたしと一緒に立ち向かってみない? 結弦を虐めた人に魔女が確実に入っているかは分からないけれど」

「でも、赤峰高校の生徒の誰かに入り込んだのは確かなんだよな」

「うん。それは絶対よ」

 エリュの真剣な表情からして、エリュは俺を必要としているのが分かる。

 正直、今も学校に行くだけでも嫌だし、立ち向かうことはとても怖い。逃げ出したい気持ちだってこれっぽっちも薄れていない。

「……エリュ。俺を虐めた生徒に魔女が入り込んでいなくても。エリュは俺と一緒にいてくれるのか?」

 エリュと一緒なら、勇気を出せそうな自分もいる。だから、エリュに一緒にいてくれるかどうか確かめたくなってしまったのだ。

 俺がそんなことを訊くと、エリュはふっ、と声を漏らして笑った。

「当たり前じゃない。結弦は何も間違っていないもの。あたしは結弦の味方よ。それに、この世界で生きるには結弦の血が必要だしね」

「そういえばそうだったな」

「……それにあたしも悔しいのよ。このまま結弦が何もしなかったら、虐めた方の考えが正しいって認めるのと同じなんじゃないかって。魔女に操られて結弦がこんな目に遭ったなら尚更悔しいの。だから、一緒に立ち向かおう?」

「……ああ」

 悔しがってくれることがとても嬉しかった。慰めてくれるよりも、悔しい思いを共有してくれる方が心を軽くしてくれるとは思わなかった。

 エリュとなら大丈夫だろう。だから、俺は二つ返事で立ち向かうに決めた。このままじゃ俺だって悔しいから。

 気付けば午後七時を回っており、外もすっかりと暗くなっていた。

「満腹だからか、眠くなってきたな。軽くシャワーでも浴びてから寝るか」

「お風呂は沸かしてあるわよ。先に入る?」

「いや、エリュから入ってきていいよ。皿とか片付けたいし」

「……分かった。じゃあ、先に入ってくるわ」

「うん。ゆっくり入っておいで」

 吸血鬼といっても女の子に変わりないんだし。お風呂は先に入らせないと。

 エリュは嬉しそうな表情をしたままリビングを出て行った。人間世界のお風呂が楽しみなのかな? シャンプーは浴室にある俺のもので大丈夫なのかとか、下着や寝間着は用意してあるのだろうかとか気になることは色々とあるけど、まあ、そこら辺は深く考えないようにしよう。

 俺は食事に使った食器をキッチンに持って行って洗い始める。小学生の時に母親が亡くなり、父親も残業で帰りが遅い日が多かったため、家事をすることには慣れている。

 今住んでいるこの家には高校入学を機に引っ越してきた。タイミングが重なり、この四月から父親が海外の大学で教鞭を執ることになったため、俺はマンションの最上階にある1LDKのこの家で一人暮らしをしている。

 ある程度の生活費は父親が仕送りしてくれるし、家事にも慣れているから一人暮らしも大丈夫かと思った。けれど、そんな一人暮らしが仇となったのか、いじめに遭ったときには妙に寂しさを覚えた。もし、今も父親と一緒に住んでいたら俺は引き籠もったり、自殺まで考えたりせずに高校生活を送れていたのだろうか。

「どうだろうな……」

 父親は気さくで俺にとっても話しかけやすい存在だけれど、一緒に住んでいても何も言わずに自分一人で抱え込んでしまいそうだ。それで、さっきのエリュのように、本音を引き出されたかもしれない。

 食器を洗い終え、特にすべきことはなかったので、気分転換のためにバルコニーに出て豊栖とよす市の夜景を楽しむ。と言っても、十二階なので遠くにある建物の明かりが見えるだけだけど。

 四月の下旬だが、夜になるとまだまだ空気は冷たい。風が吹いたら肌寒く感じる。ずっと自分の部屋に引き籠もっていた俺にとっては、むしろこのくらいが爽やかに感じられ丁度良かった。

「今も魔女は誰かの人の中に入っているんだよな……」

 エリュの推測通り、俺を虐めた人間の中に悪魔が入り込んでいるのかな。もし、そのことで誰かを傷つけているのであれば、許すことは出来ない。

「はぁ、気持ち良かった。結弦、お風呂空いたわよ」

 振り返ると、そこには黒いネグリジェを着ているエリュがいた。今の姿を見ても、俺と同い年ぐらいの可愛い人間の女の子にしか見えない。魔女もエリュのように、人間の女の子のような容姿なのかな。

「ど、どうしたの? あたしのことをじっと見て」

「あっ、いや……よく似合ってるなと思って」

「……ありがと」

「そのネグリジェもさっき着ていた服も黒かったけど、それって吸血世界でのトレンドなのか?」

「そうね。吸血鬼ってもちろん血ありきの存在だから、どうしても黒を基調とした服装になっちゃうの。血が付いても黒なら目立たないでしょ」

「なるほど」

 意外とちゃんとした理由があった。白系統だと血が付いたらどうしても目立ってしまうから、吸血鬼には合わないのかもしれない。

「あたしは黒が好きだから、それでも全然構わないけどね。でも、人間世界にいる間は白っぽい服も着てみたいかな。明るくて爽やかだから」

「そうか。まあ、白いと日光も跳ね返して涼しいから良いと思うぞ。ところで、エリュはどのくらいこの世界にいる予定なんだ?」

 俺が訊くと、エリュは複雑そうな表情を浮かべた。

「……それについては分からないわ。魔女の動き方にもよるし。でも、人間世界にいる間は結弦の血を定期的に摂取しないといけないから、ここに住むことになるわ。それでもいい?」

「ああ。一人で住むには広いって思ってたくらいだから、気にしなくて良いよ」

 と言っても、一人っ子の俺にとって、女の子と二人きりで住むのは緊張するけれど。

「じゃあ、俺も風呂に入ってくるよ」

「うん」

 俺は風呂場に行きながら、一緒に住む上で考えるべきある悩みに直面する。エリュにどこで寝てもらおうかと。さっきは何故かベッドの上で寝てたけど、これからも同じ部屋で寝るのはまずいだろう。

 なかなか答えを出すことができず、風呂場の中でずっとそのことばかり考えてしまうのであった。

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