第3話『びくびく』

 風呂から上がると、時刻は午後八時を回っていた。普段ならまだ眠くないけれど、ここ数日間は変則的な生活を送っていたため結構眠い。

 俺はエリュの待っているリビングに行く。エリュはテレビで天気予報を見ていた。

「明日も晴れるのね……はあっ」

 夏場ならまだしも、四月のこの時期に晴れることに深くため息をつく人はあまりいない。これが吸血鬼ならでは、か。

「やっぱり晴れると嫌なのか?」

「うん。日光とニンニクは吸血鬼の天敵だから」

 そういえば、ニンニクが嫌いなのも有名な話だ。ということは、餃子とかニンニクを使ったパスタ料理は食えないのか。結構美味しいだけどな。

「曇りや雨ならいいんだけれど……」

「じゃあ、エリュの好きな時期は梅雨か」

 って、こんな吸血鬼あるあるのようなことを話している場合じゃない。エリュにどこで寝てもらうかっていう本題に入らないと。

「エリュ、相談したいことがあるんだ」

「なあに?」

「エリュがどこで寝るかなんだけど、やっぱり同じ部屋で寝るのはまずいから別々の部屋で――」

「いや。結弦と一緒に寝る」

 素直にうん、ってくれると思ったんだけどな。まさかの否定。

「ど、どうして?」

「……よ、夜中に血を吸わなきゃいけない場合があるかもしれないから」

 エリュは俺から目を逸らしながらそう言う。

「あ、あたしが人間世界からいなくなってもいいと思ってるの?」

「そんなことは思ってないさ。それに、俺の寝ているときでも、俺の所に来て血を吸ってくれていいから。元々そのつもりだよ」

「で、でも……寝ている間に結弦の部屋に入るのは気が引けるっていうか」

「それなら逆でもいいんだよ。エリュが俺の部屋に寝て、俺はリビングで布団を敷いて寝ても良いし」

「それじゃ、結弦に申し訳ないわよ! この家は結弦の家なんだし……」

 ああ言えばこう言う、という感じで別々の所で寝るという俺の案を受け入れてくれる気は全くないみたいだ。むしろ、ここまで否定されると、

「……お前、まさか一人で寝るのが怖いのか?」

 俺がそう指摘すると、エリュはぴくっ、と体を震わせた。これは決定的だな。

「そ、そんなわけないわよ!」

「口ではそう言うけど見てみろ。両脚が震えてるぞ」

「こ、これは外の空気が寒いからで……」

「だったら……」

 エリュが自分の足元に気を取られている隙に、俺は扉の近くにまで行き、リビングの電気を消す。

「きゃああっ!」

 暗くなった瞬間、エリュは悲鳴を上げてドタバタとリビング内を駆け回り、俺に抱きついてくる。

 このままだと、お隣さんや下に住んでいる人に迷惑なので電気を付ける。

「ばかっ! 何で電気を消すのよ! 結弦のいじわる!」

「ご、ごめん……」

 まさかここまで怖がるとは思わなかった。吸血鬼って日光が嫌いなんだし、暗い方がむしろ好みだと思っていた。

 今思うと、俺を虐めていた人達の中にはこんな心境を持っている人もいるかもしれない。面白半分にやっただけなのに、まさか不登校になるとは思わなかったって。

「ごめんな、エリュ。じゃあ、俺の部屋で一緒に寝ようか。布団を敷けるスペースもあるし。エリュは布団とベッド、どっちがいい?」

「……ベッド」

「じゃあ、俺は布団だな。そうなるとシーツとか取り替えないと……」

「別にそのままでいいわよ。一度寝たし」

 まあ、エリュがそう言うなら、取り替えなくて良いか。

 その後、俺は来客用にと用意しておいた布団を押し入れから引っ張り出し、俺のベッドの横に敷いた。

 エリュは俺のベッドでさっそく横になっている。緊張しているからか、エリュの頬は赤くなっていた。

「やっぱり布団にする?」

「別にいいわよ。このベッド、結構寝やすかったし」

「……そうか。じゃあ、電気消すぞ」

「ちょ、ちょっと待って! それじゃ真っ暗になっちゃうじゃない!」

「ベッドに備え付けのランプがあるし、カーテンを開ければ少しは光が入ってくるから」

「そ、それを早く言いなさいよ。じゃあ、消して良いわ」

 本当に真っ暗なのが怖いんだな。

 エリュがベッドに付いているランプを点けたのを確認してから、俺は部屋の電気を消した。

 ベッドのランプから放たれる暖色系の光だけなので、何とも言えない感じだ。ネグリジェ姿のエリュがいつにも増して艶やかに見えた。

「ここからの眺めも結構良いわね……」

「角にある家の特権だな。俺も気に入ってるよ」

 父親曰く、一人で住むのに丁度いい部屋がここしかなかったらしいけど、俺にとってここは正解だった。気に入った環境の中で住めているのだから、ここに選んでくれた父親に感謝である。

 でも、まさか引っ越してから一ヶ月も経たないうちに、女の子と住み始めて、一緒の部屋で寝ることになるとは思わなかった。しかも、その女の子が吸血鬼だなんて。今でも夢物語なんじゃ無いかと思ってしまうことがある。

「どうしたの? 結弦」

「な、何でもないさ。俺はもう寝るよ。夜中ではエリュが血を吸えるように、袖は捲っておくから。じゃあ、おやすみ」

「うん、おやすみ」

 俺は布団の上で横になり、エリュが血を吸いやすいように腕を出した状態にしておく。そして、ゆっくりと目を閉じる。

 後はこのまま眠気に身を任せて眠るだけだ。

 素直に眠気に負ければいいんだ。

 眠気に……。



 ……負けなかった。

 俺が勝つべきものは緊張感だ。エリュがベッドで寝ていると思うと緊張して眠るどころか、眠気が吹き飛んでしまう。その証拠に、時計の針の動く音がうるさく思えてきた。

 どうする? どうすればいい?

 頭まで布団を被るのも考えたが、エリュが首筋を噛んで血を摂取する可能性もある。だから、むやみに布団を被ることはできない。

 そんなことを考えていると、ベッドの方から物音がする。

「あうぅ……」

 エリュの呻き声が聞こえる。もしかしたら、エリュも眠れていないのかな。

「結弦……」

 次の瞬間、俺の体に重みがかかる。

 まさか、昨日と同じように首筋を噛んで血を吸おうとしているのか? それなら俺の上に跨がるのが一番吸いやすい姿勢だろうけど、乗られている身としては少し辛いものがある。

 首筋を噛むだろうから、当然、噛まれる前にはその付近にエリュの温かい吐息がかかるはずだ。

 しかし、今回は違う。

 確かにエリュの温かな吐息はかかっている。けれど、その吐息は俺の顔にかかっているのだ。正確に言えば俺の口元。

「結弦……結弦……」

 こいつ、俺に何をしようとしているんだ?

 エリュの吐息がかかる度に、顔がくすぐったくなる。こんな状況では寝るに寝られないので、狸寝入りを止めることにする。

「お前、何をやろうとしてるんだ」

 目を開けると、視界がエリュによって埋め尽くされていた。

「ゆ、結弦! 起きてたの?」

「昨日みたいにエリュに跨がれて、顔に息をかけられて、俺の名前を呟かれたら誰だって起きるわ。お前、何をしようとしてたんだ?」

「え、えっと……血を吸おうとしてただけよ!」

「だったら、昨日みたいに首筋から吸っていいから」

 エリュが噛みやすいように、俺は首筋周りを露出させる。

 しかし、エリュはなかなか噛もうとせず、俺のことをちらちらと見ているだけだ。

「血を吸わないなら、他に何があるんだ?」

 俺の口元に息がかかっていたことから、首筋を噛んで血を吸おうとしていたのは嘘であると分かる。エリュは何がしたいんだろう?

「……い、一緒に……」

「えっ?」

「結弦も一緒にベッドで寝て欲しいの!」

 エリュはまるで一世一代の告白をするかのような表情でそう言った。

「結弦が布団で寝るのが申し訳ない気分になって。それに、昨日……結弦と一緒にベッドで寝たときに居心地が良かったし……だ、だから一緒にベッドで寝なさいよ!」

「……そのために俺の上に跨がってたのか?」

「そ、そうよ!」

「普通に声をかけてくれても良かったのに……」

 上に跨がって起こすなんて、まるで日曜の朝に父親を起こす子供のようだ。俺も昔、父親に日曜朝に同じようなことをやった記憶がある。

 もう少し素直になってくれてもいいんだけどな。夜のエリュは。

「分かったよ。俺が入れるように、エリュは少し壁側に寄ってくれ」

「うん……」

 俺のベッドはセミダブルなので、二人入っても窮屈ではない。しかし、エリュと体が触れてしまうことは避けられない。

「エリュ、本当に良いのか?」

「……うん。こっちの方が落ち着く」

「そうか。エリュが落ち着けるなら俺はいいけれど」

 俺はますます緊張して眠れなさそうだけど。

 エリュの髪から香る甘い香りは、家にあるシャンプーの香りじゃないな。女性の吸血鬼が御用達のシャンプーなのだろうか。

「ねえ、結弦」

「なんだ?」

「……ありがとう。我が儘、聞いてくれて」

 至近距離で見せられたエリュの微笑みはとても可愛らしく思えた。

「エリュが一番落ち着いて寝られるなら、それに越したことはないよ」

 それが例え、俺と一緒に寝ることであろうとも。

「……結弦が女の子に告白される理由が分かった気がする」

「……そうかい」

 いったい、何を感じてそう言ってくれているのか。俺には分からなかった。

「ぐっすり眠れそうか?」

「うん」

「じゃあ、明かりも消すぞ」

「うん。おやすみ、結弦」

「おやすみ、エリュ」

 ベッドの明かりを消すと、エリュはゆっくりと目を閉じて、程なくして寝息が聞こえ始めた。結構、寂しがり屋さんなんだな。俺の寝間着の袖をぎゅっと掴んでるし。

「俺も寝るか」

 エリュと体が触れているけれど、不思議とさっきよりも緊張していなかった。

 そして、俺も眠りにつくのであった。

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