第5話

 広い青空に、綿菓子のように大きく積み上がった雲が一つ浮かんでいる。

 夏らしい、ぎらぎらと眩しい朝だ。


 かなり薄着をしている隼人でも参ってしまう日差しなのに、プシュケは天然の毛皮を身に纏っているにもかかわらず、リードの先にいる隼人を元気に引っ張っていた。散歩が大好きなのだ。

 まぁ、そうだよな、と隼人は思う。広いとは言い難い庭で、一日中繋がれてるんだから。自由に動けるのは散歩のときくらいだもんな。


 プシュケとの散歩コースは決まっている。ただ、今日はあの交差点を通りたくなくて、迂回しようと住宅街の普段は通らない道を歩いていた。散歩コースは終始歩道のある道なのだが、この道は歩道と車道が白いラインで区切られているだけで、あまり広くはない。幸いにも車が来ることはなかったが、隼人は次の曲がり角で大通りに出ることにした。

 プシュケが電柱の下で縄張りを主張しているのを待っているとき、少し向こうの住宅の門柱前に、隼人は何かが落ちているのを見つけた。

 プシュケと共に傍まで寄ってみると、それは折り畳み式の黒い携帯電話だった。

 スマートフォンじゃないケータイか。珍しいな。

 隼人はその携帯電話を拾い上げてポケットに入れた。もう少し行けば交番がある。そこでお巡りさんに預ければいいか。


 曲がり角を曲がると、隼人がほぼ毎日高校への通学路としても使っている大通りへと繋がった。そのまま歩いて行くと、まもなく交差点へと到着する。信号は赤だ。

 交差点の付近に街路樹がなく、涼めるような木陰は見当たらない。目の前の道をたくさんの車が往来していくのみだ。

 腕で額の汗を拭ったとき、隼人はすぐ目の前に白い蝶が飛んでいることに気づいた。

 モンシロチョウか。そういえば、今朝の夢にも出てきたっけな。ちょうど、この交差点で信号を待ってるときだったような気がする。

 蝶はひらりひらりと舞いながら、プシュケの目の前を通過し、交差点の中へと入った。

 蝶に気付いたプシュケが、突如追いかけるように走り出す。当然、隼人はリードごと引っ張られた。

「ちょっ、プシュケ! 待て!」

 信号がちょうど青になったのが幸いだ。隼人はプシュケに引き摺られるようにして走り出した。

 そう長い距離でもなかったし、全力疾走というほどでもなかったのだが、楽しそうに蝶を追いかけるプシュケに振り回され、隼人は普通に走るよりも疲れてしまっていた。だから、交番の前にいた男の存在に気が付かなかった。何を思ったのか、プシュケがその男に跳び付くことなど、当然、止められるわけがない。

「あっ!」

 隼人がそう声を上げたときには、プシュケは男の頭めがけてダイブしていた。

「うわぁっ!!」

 男はそう叫んで歩道に倒れた。

「すみませんっ!」

 謝罪して頭を下げた隼人は、すぐに違和感に気が付いた。

 倒れた男は、帽子を被り、Tシャツにジーパンというラフなスタイルの、若くもないが中年でもないといった年齢の男性だった。そこまではいい。プシュケが男の胸の上に乗っかった状態で尻尾を振っているが、それもまぁ、置いておくとして。

 おかしいのは、男のジーパンのポケットから飛び出した財布だ。五つもある。用途ごとに財布を分ける人もいるとは聞くが、五つというのは多すぎないだろうか。その上、女性が好むデザインのものも含まれていた。

「どうしたの?」

 外の騒ぎを聞きつけて、交番からお巡りさんが出てきた。そして隼人がプシュケに乗られたままの倒れた男と隼人を見、歩道に散らばった財布を見、即座に行動──すなわち、逃げようとした男を確保──した。

「お急ぎのところ申し訳ありませんが、少々話を聞かせてもらえますか?」

 お巡りさんが笑顔で男に向かって言う。

 男はお巡りさんを振り切って逃げようとしているが、やはり訓練しているお巡りさんというのはいろいろと心得ているようで、男の抵抗を易々と封じていた。男は腕を背中で捻じられたあたりでようやく諦めたらしい。おとなしくなった。

 男を逃がさないように手一杯のお巡りさんの代わりに、隼人は歩道に散らばった財布を集め、交番の中にあるデスクへと置いた。

「ありがとう。気が利くんだね」

「いえ……」

「それと、君の犬だけど、は多分お手柄だよ。その財布、五つとも盗難届が出てるものに特徴がそっくり。道路を歩いててひったくられたって聞いてるんだ。それに、この人、被害者から犯人の特徴を聞いて描かれた似顔絵にも似てるんだよね」

 お巡りさんが微笑んだ。男が逃れようともがくが、男の腕を掴むお巡りさんはびくともしない。

 まだ犯人と断定できなくとも、逃げようとした時点でひったくり事件と何らかのかかわりがあると踏んでいるのだろう。

 プシュケが嬉しそうに隼人の足に身体をこすりつけ、そしてジャンプして隼人のポケット鼻でつついた。

「あ、そうだ」隼人はポケットから黒い携帯電話を取り出した。「これ、さっき拾ったんです。本当は、これを届けに来たんですけど……」

 お巡りさんが驚いて目を見開き、そして声を出して笑った。

「そうだったんだ。じゃあ偶然のお手柄だったんだね。ありがとう。遺失物届けが出てないか調べておくよ。そこに置いておいてくれるかな」

 お巡りさんに言われて隼人は財布の隣に携帯電話も置いた。そして頭を下げ、交番を出た。


 プシュケは自分が何をしたのか全くわかっていない様子で、男に跳び付く前と同じく忙しなく縄張りを主張し続けながら機嫌よく歩いている。

「お前、ホント元気だな。オレなんか、暑くてそんな元気出ねぇよ」

 隼人はプシュケに向かって言ってみたが、当然、返事はなかった。

 それでも、散歩コースの半分を過ぎた。あとは家へと戻るだけだ。家に帰ったら、まずはアイスを食べよう、と隼人は決意しつつ額の汗を腕で拭う。

 ちょうどそのとき日が陰った。

 おや、と思い空を仰ぐと、分厚い灰色の雲が空の半分を覆っていた。ちょっと急いだ方がいいだろうな。

 そんなことを思いながら歩いていると、向かいからやってきた老婦に声を掛けられた。

「ちょっといいかねぇ?」

「あ、はい……」

 突然のことに驚きつつも隼人が首肯すると、老婦は安心したようににっこりと微笑んだ。そして眉をハの字にする。

「この辺りにあるはずの高校を探してるんだけど」

 そうして老婦が告げた高校は、隼人が通っている高校の名前だった。どうやら、この老婦の娘夫婦が高校の近くに住んでいるらしい。今日が孫の誕生日だそうで、顔を見に、そしてお祝いをしにやってきたのだそうだ。娘夫婦は最近引っ越したらしく、この辺りを老婦が訪れるのは初めてだという。

 隼人は高校への道順をできるだけわかりやすいように教えた。老婦が何故か隼人にとって見覚えのあるバッグから、紙と鉛筆を取り出してメモしようとしたので、それを借りて一応地図も描いた。

「あら、上手。親切にありがとうね。駅でタクシーに乗ろうと思って駅員さんに聞いてみたら、そこなら歩いた方が早いって道を教えてくれたんだけど、迷っちゃってねぇ。君みたいな優しい子がいてくれて助かったわぁ」

 老婦が何度も礼を言うので、正直、隼人は閉口してしまった。もちろん照れもあるのだが。

 絵についてだけは、陸太よりも隼人の方が上手い。むしろ得意な分野だ。だから地図を描くくらい、隼人にとってはたいしたことではなかったから。

「ワンちゃんもいい子で待っててくれてありがとうね。それじゃあね。雨降りそうだから君も気を付けてね」

 老婦はそう言いながら隼人の高校のある方角へと去って行った。その後姿を追いかけるように、蝶がひらりひらりと舞って行くのが見えた。


 隼人は空を見上げた。老婦の言う通り、いつの間にかどんよりとした雲が空全体に広がっている。もう、いつ降り出してもおかしくないくらいだ。

 もう少し持つかと思っていたが、もうあまり余裕がなさそうだ。

 隼人は眉間に皺を寄せ、リードをぎゅっと握り直した。

「プシュケ、急ぐぞ」

 隼人はプシュケと共に走り出した。しかし、ものの数分で雨が降り始めてしまった。すぐに本降りになる。

 隼人は通りがかったコンビニの軒下に飛び込んだ。既にかなり濡れている。プシュケもいるし、店内には入れなかった。ただ、濡れていても寒いとか冷たいとか感じることはない。夏だな、と隼人は思った。さっきの老婦は無事に娘夫婦の家に着けただろうか。

 軒下から空を仰ぐ。西の空は明るいから、すぐに止むだろう。そんな雨の降り方も夏らしい。

 隼人はしゃがみ込み、プシュケの頭を撫でた。

「ちょっとここで雨宿りしような」

 プシュケは隼人の言葉がわかっているのか「いいよ、気にしないで」とでも言うように鼻を隼人の腕に擦り付けて来る。

 しばらくして、中年の男が黒い折り畳み式の携帯電話で話しながらコンビニから出てきた。

「──だから、今朝、ケータイ落としちまったんだよ。──あ? あぁ、うん、届けてくれた人がいたらしくて。おぉ、ホントだな。助かった。……うん、集荷? 正午? あぁ、大丈夫、時間も十分あるしな」

 男は話ながら空を見上げ、傘もささずに駐車場の隅に停められている宅配業者のトラックの方へと小走りで駆けていく。

 隼人はなんと表現したらいいのかよくわからない気持ちになって、隣にいるプシュケをぼんやりと見た。プシュケは嬉しそうに尻尾を振りながら隼人を見返し「わん!」と一声鳴く。

 我に返って、隼人は立ち上がった。いつの間にか、雨は止んでいる。

 隼人はコンビニの軒から出た。

「わん、わん!」

 プシュケが蝶を見つけて走り始める。

「うわっ、こら、プシュケ! 待て!」

 リードを引っ張られた隼人がそれを追いかける。


 空には、虹が架かっていた。

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