第3話
青々としたまさしく碧天と呼ぶに相応しい空に、白く山のように大きな雲が構えている。まるでその雲へと導く橋であるかのような虹が、見事なアーチを描いていた。これがマンガやアニメだったとしたら、まさに今から新しい物語が始まりそうな、そんな光景。
先程まで降っていた雨が嘘のようだ。
隼人は、屋上に佇んでいた。鉄パイプでできた手すりに両腕をかけ、その上に顎を乗せて。
味も素っ気もないコンクリートで固められただけの病院の屋上には、隼人の他に誰もいない。何をするわけでもなく、隼人はぼんやりと視線を遠くに投げ、ただ息をしていた。
この景色も、今の隼人には何も訴えかけて来ない。
雨の中倒れていたのは、やはり隼人の母、聡子と市民プールで出逢った少女だった。
二人とも意識不明の重体で、手術は成功したがどうなるかはまだ分からない、と医師と話した父親から聞いた。
聡子はプシュケの散歩中だったらしい。横断歩道を渡っているときに、あの暴走したトラックが突っ込んだそうだ。そして、ハンドルを切った先に、運悪くいたのがあの少女だった、と一部始終を目撃した人が言っていた。
プシュケは、天に召された。もう、いないのだ。どこを探しても。あの人懐っこい表情も、遊ぼうよと甘えて来る姿も、もう二度と見ることはできないのだ。
もしかしたら母も……
止んでいた蝉たちが、また一斉に鳴き始めた。隼人の嗚咽を隠すかのように。
しばらくして少し落ち着いた頃、ふと、目の前を何かがゆっくりと横切ったのに隼人は気が付いた。ひらひらと舞う、黒い小さなもの。
あれは……クロアゲハ?
この町は緑が多いから、蝶が飛んでいることくらい別段珍しいものでもなんでもない。しかし、隼人はそれをなんとなく目で追った。
蝶は、上下に左右に揺れながら、屋上と屋内とを繋ぐ扉の方へと飛んでいく。そして、その裏に回り、隼人の立っている位置からは見えなくなる。
隼人は目を見開いて立ち尽くした。この光景に既視感を覚えていたから。
──これ、知ってる。この後は、確か。
そのとき扉が開き、屋上に幼い少女が入って来た。なんとなく見覚えのある少女だ。五、六歳だろうか。目が大きく、とても愛らしい顔だちだ。黒いストレートな髪を鎖骨の高さで切り揃えている。真っ黒なワンピースに身を包み、そこから伸びる手足はまるで太陽など知らぬかのように白かった。そして、なぜか裸足だった。
少女は何かを探すように屋上を見回し、隼人に目を留めると真っ直ぐにやって来る。そして驚きで目を見開く隼人が見つめる目の前で、少女は止まった。
「行こう?」
笑顔でそう言いながら細い手を差し出した少女は、前髪を蝶の飾りが付いたヘアピンで留めていた。
「行くって、どこへ?」
尋ねた隼人の声は掠れていたが、少女は気にする様子もなく当たり前のように答えた。
「あそこ」
少女が指差す先には、綺麗に輝く虹がある。
そう、やっぱりオレは、この光景を、出来事を、知ってる。
隼人は首肯した。
少女はにっこりと笑顔を浮かべ、隼人の手を取り跳躍する。
刹那、荒々しい風が吹いた。その信じられない程の勢いに、目を開けていられない、立っていることすらできない。
まるで意思を持っているかのような風が、隼人を狙って下から吹き上げる。隼人は全身の力を抜き、その風に身を任せた。その途端、隼人の身体は強い力に煽られた。
背中から風が自分の身体をすごい勢いで押し上げているのがわかる。
上へ、上へ。
強い勢いの中、隼人は薄く目を開けた。自分を包む青い空が眩しい。上っても上っても、まだ空の終わりは遥か先だ。
唐突に、風が止んだ。上昇が止まる。
水の中を漂っているのに似ていて、それでいて全く違う感覚。つい最近も体験した気がする浮遊感。
繋がれた左手の先を見れば、少女の笑顔があった。そして少女の足の先、遥か向こうには、さっきまで自分が立っていた屋上が見える。
少女が下方を指さした。そこにあったのは、七色に輝く巨大な帯状の淡い光。さらにその下には、町が透けて見えている。
そう、あれは、虹だ。
隼人が確信したのと同時に、今度は落下が始まった。どんどん加速されていく。
目を開けていられず、思わずきつく閉じる。
「今度こそ、間違えないで」
隼人の耳に、少女の声が聞こえてきた。
虹色のモノを通り抜ける瞬間、二人の身体は強い光に包まれた──
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