第2話
隼人は、腕を下から背中に回し上げ水面に飛び出した。息を継ぎ手を肩の上に回す。また水の中に潜る。身体をしならせ水を切って前に進む。バタフライ。隼人の最も得意とする泳法だ。
手がコースの終わりに届いたところで、隼人は勢いよく水の中から顔を上げた。舞い散った水飛沫が、日の光を反射して輝いた。
水の中が気持ちいい。プールに着いてから今まで、実はもうかなりの時間が経っているのだが、楽しくてあっという間だった。
プールに着いた時にはあんなに晴れていた空なのに、いつの間にか雲が広がっている。まだ持ちそうではあるが、午後には雨が降って来るかもしれない。傘なんて持ってきていないから、できれば降り出す前に帰り着きたいな、と隼人は思った。まぁ、今既にずぶ濡れなんだけど。
隼人はプールの端に沿うように立ち、水中眼鏡を額まで押し上げる。そして振り返ると自分の後ろを追って来る親友の姿を眺めた。ゆったりと、腕を左右交互に回し脚を上下に動かしながら向かって来る。全く無駄のないフォームのクロール。そのまま陸太は隼人の目の前まで来ると足を着いた。
「やっぱり、陸太のクロールって綺麗だよな」
隼人は言った。
「そうか? 俺はバタフライできるやつの方がすごいと思うけどな」
陸太はそう言うと、折り返して今度はバタフライで泳ぎ始めた。
確かに、きちんと泳げてはいるが、自分と比べると速いとは言えない。隼人はそれを見て少し眉を上げ、水中眼鏡を掛けるとクロールで陸太の後を追いかけた。腕と脚を意識して動かさないと、なかなかスピードが上がらない。それでもそのままプールの端まで泳ぎ切った。
「やっぱりすごいよ、隼人。俺、バタフライだと全然ダメだ。疲れるだけで前に進まないもん」
陸太はそう言いながら、首を回した。慣れない動きをしたせいで、感覚がおかしくなっているのかもしれない。隼人も、脚にいつもと違うだるさを感じながら口を開いた。
「ときどき思うんだよな。なんであのときオレはクロールじゃなくてバタフライを泳ぎたいって思ったんだろうって」
「水泳始めたきっかけ?」
「そんな感じ。まだオレがすごい小さかった頃、テレビで夏季オリンピックのバタフライ決勝を見たんだよ。それで、オレもあんな風に泳ぎたいって思ったんだよな。でも、もしもそのとき見たのが自由形だったら、オレはクロールを選んでたのかもなぁ……」
「水野がよく言ってるじゃん。『歴史にもしもはありえない』って」
「『だから、そのレースそのレースを全力を出し切れ。もしもあのときって思わなくていいように』」
隼人が水野先生の口真似を引き継いだ。そして二人で笑う。部活の試合前にいつも、水野先生は生徒に対してこう激励しているのだ。
「まぁ、もし仮に『もしも』隼人がクロールを選んでたとしたら、もしかしたら俺がバタフライをやってたのかもしれないよ?」
「なんだそれ?」
「カオス理論によるとね、通常は見逃してしまうほどの小さな差が、やがてはとんでもなく大きな差に繋がることがあるらしいんだ。もしも隼人が小さい頃に憧れたのがクロールだったら、みたいな感じだね」
急になんだか難しいことを饒舌に話し始めた陸太を、隼人は感心して眺めた。陸太は隼人が聞いていることを確認するように、隼人に笑いかけながら先を続けた。
「だけど、自然科学においては、時間には修復機能みたいなのがあってね。もしもどこかで何かが変わっちゃったとしても、大きな流れは変わらない。誤差として、起こるはずだったことに似たことが、別のところで起こるんだ。で、結果はだいたい同じなる」
「……よくわかんねぇ」
隼人は海水を飲んだみたいな気分になった。今、相当変な顔になっているだろう自覚がある。
「例えば、の話だけど」陸太は相変わらずにこにこと笑っている。「コロンブスが子供の時に病気か事故かで死んじゃったとする。そうすると当然、アメリカ大陸発見っていう歴史はなくなっちゃうよね?」
「あぁ」
「でも、当時は大航海時代だろ? 時代の流れっていうのがあって、コロンブスがいなくても、やっぱり別の誰かが同じようにヨーロッパから西を目指して航海すると思うんだ。だから、時期は多少ずれるかもしれないけど、アメリカ大陸はどちらにせよ発見される──みたいな感じ」
陸太が何を言ってるのか、隼人にもようやくぼんやりとわかってきた。
「もしかしたら、コロンブスだって、誰かの代わりなのかもしれないしね。
だから、その理論で言うと、もし隼人が幼い頃にクロールに憧れて大きくなったときにクロールを選んでたとしても、別の誰かがクロールの代わりにバタフライを選んだりするかもしれないってこと。例えば俺とかね」
「陸太ってすげぇこと考えてんだな。オレ、そんなこと考えたこともねぇや」
「そうでもないよ。この考え方って、起点と終点をどこに置くかによって全然違ってきてさ。地球規模とか宇宙規模とかで考えると、俺たちがいくら足掻いたってどうせ大きな流れの中では本当にささいな誤差でしかないんだよ。実際、そういう視点で物事を捉えるときに使われる考え方だし。
だからさ、まぁ、自分の満足するように生きるのが一番なんだろうね。失敗したって気が付いて、未だ再トライできるチャンスがあるなら、やり直せばいいんだし。どう転んでも、宇宙規模で考えたらそう大差ないんだからさ」
そこへ高校の方から十二時を告げるチャイムが聞こえて来た。そういえば、お腹も空いてきている。
「そろそろ帰るか」
陸太は午後から塾の夏期講習に行くことになっているらしい。頭のいいヤツはやっぱり努力してるんだな、と隼人は感心した。
自分も家に帰ったら少しは勉強しよう。夏休みの宿題もたくさん出されているし。
身支度を終え、二人で市民プールを出て駐輪場へ向かう。十メートルほど先を、同じく帰り掛けらしい髪の長い同年代の少女が歩いていた。
隼人は陸太といつものように雑談しながら歩いていたが、少女のバッグから何かが落ちたのが視界に入った。少女自身も陸太も気が付いていない。
「ちょ、ごめん」
隼人は陸太にそう声を掛けると、小走りに落ちた物の側まで行く。それはスマートフォンだった。手帳型のカバーに紫色の蝶の飾りがあしらわれている。
拾い上げて少女のいるだろう方向に顔を上げると、少女は未だ気付かずに自分の自転車へと向かっていた。
「あの!」
隼人は声を掛けながら、急いで少女の方へ走り寄った。
少女が振り返る。黒く長い髪が靡いて広がり、甘い香りが隼人の鼻腔をくすぐった。隼人の思考が一瞬止まる。
少女は不思議そうに首を傾げて隼人を覗いた。隼人と同年代だとは思うが、整った目鼻立ちがやや大人びて見え、思わず見惚れた。今更ながら羞恥心を覚え、隼人は言葉に詰まってしまった。
「何か?」
少女の訝しげな声に、隼人はようやく喉から音を絞り出す。
「あ、これ……。落ちたのが見えたから」
そう伝えてスマートフォンを差し出した。
少女は隼人の手に乗った自分のスマートフォンを見て、驚いたように目を見開きつつも受け取る。そして表情をふわりと綻ばせた。
「ありがとうございます」
少女はそう言い、礼儀正しく頭を下げる。
「あ、そんな、いいよ。ホント、たまたま見えただけだし」
少女はそれでも「助かりました」と言い、自分の自転車に跨ると隼人に会釈しつつ去って行く。
隼人が少女を見送っていると、いつの間にか背後に来ていた陸太にポンと肩を叩かれた。
「いいことしたじゃん」
「ん? あぁ」
「可愛い子だったね。連絡先くらい聞いておけばよかったのに」
「なっ……、バカ言ってんなよ!」
じゃれ合いつつ、隼人と陸太も自分の自転車を引っ張り出して跨る。
「それじゃあね」
「雨降りそうだから、塾の帰り気を付けろよ」
「ありがと」
陸太の塾は、隼人の家とは逆方向だ。市民プールを出た二人は、それぞれの方角に向かってペダルを漕ぎ始めた。
喉が渇いていたこともあって、隼人は帰路の途中でコンビニに寄った。ついでに、とマンガ雑誌を立ち読みしてしまったのだが、それがいけなかったのだろう。コンビニを出て幾許も行かない内に、ぽつりと隼人の額に冷たいものが落ちてきた。雨が降って来たのだ。
「やっべ」
隼人は呟き、ペダルをより一層強く踏み込んだ。
初めはぽつりぽつりとまばらだった雨が、ものの数分で本降りとなる。隼人は全力で車道の隅を駆けた。
だが、運がないときは、本当にツイてないものだ。
大通りを走っているとき、後ろから隼人を追い抜いて行った大型の乗用車にバッシャァ……! と大きく水を引っ掛けられてしまった。車は隼人のことなど気が付かなかったようで、あっという間に去ってしまう。
綺麗とは言い難い水を被ってしまった隼人は、さすがに自転車を止めて顔を拭った。
「てめぇ! どこ見て走ってやがる!」
被害者は隼人一人ではなかったようで、歩道では帽子を被ったTシャツにジーパンといういでたちの男が、車の走り去った方角へ向かって口汚く罵倒していた。隼人にとって何故か見覚えのあるその男の腕には、同じく何故か年配の女性が好みそうなバッグが抱えられていた。
不思議には思ったが、男が悪態をつきながら走り去ったので隼人も家路へと急いだ。
しかし、そんな隼人を嘲笑うかのように、目の前で大きな交差点の信号が赤になった。仕方なく止まった隼人は、交差点にある小さな店舗の軒先で老婦が雨宿りしていることに気が付いた。
老婦は携帯電話で誰かと話している。
「──そう、そうなの。電話はね、ちょうど使ってたから無事だったんだけど。そこを狙われたんだろうね。バッグをね──うん、うん。大丈夫、怪我はないよ。でも、急いで警察と銀行に連絡しなきゃ。そう……うん、お願いね。ありがとうね。場所? 場所は……」
信号が青になった。
隼人は再び、自転車を漕ぎ始めた。
ようやく住宅街へ入る手前の最後の交差点へと差し掛かった。
信号が青になっているのが見えたため、スピードを上げてそのまま渡ろうとしたとき、右側から大きなエンジン音が聞こえてきて急ブレーキをかけた。それでも間に合わないと察した隼人は、半分転ぶようにしてなんとか交差点へ差し掛かる直前に止まる。その直後、目の前を猛スピードで宅配業者のトラックが横切って行った。
「あっぶねー……」
あのまま飛び出していたらと考えてぞくりとし、次に全身の毛穴が開いたような感覚に陥る。どくどくと心臓が早鐘を打った。
無事だったことに安堵する。
そして我に返ると立ち上がり、改めて自分の状態を見て溜め息をついた。
水も被ったし、今も地面に付いたせいで手足に泥が付いている。そして既に全身がずぶ濡れだ。今更急いで帰る必要もないか、と開き直り、隼人は自転車を起こして落ちてしまっていたバッグを籠に放り込んだ。
そのときだった。
キキ──ッ! ガシャン!!
先程の暴走トラックが走り去った方向から、明らかに何かが起こった音が聞こえて来る。
嫌な予感がして、隼人は自転車に跨るとその音のした場所へと急いだ。
二分も経たない内に着いたはずだが、既に何人かの野次馬が集まっていた。傘を持った人も持っていない人もいる。
彼らの視線の先には、歩道と車道を分かつガードレールを突き破って、その向こうにあった家屋の塀に激突している先程の暴走トラックがいた。
その手前には壊れた自転車と赤く染まった水たまりの上に倒れている少女。少女の傍らに落ちている蝶の飾り付のスマートフォン・カバーは、ついさっき見たばかりのものと同じだった。
そして横断歩道の辺りには、見覚えのあるリードの付いた同じく見覚えのある色の毛をした犬、さらにその脇に倒れている女性は──
「母さんっ!?」
隼人は自転車を放り出し、転がるようにして駆け出した。
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