第1話

 隼人は目を覚ました。何度か瞬きした後、横を向いていた身体を仰向けにすると、己の身体を確認する。

 なんともない。

 身体を起こした。Tシャツとトランクスだけの状態でたった今まで眠っていたそこは、見慣れた自分の部屋のベッドの上だ。

 変な夢……。

 隼人は両腕を上げて伸びをした。自然と欠伸も出てくる。

 窓の外が明るい。太陽が既にその威力を主張し始めている。風はなく、窓を開けっ放しにしているのに、カーテンはぴくりとも動く気配がない。その代わりに、うるさいほどの蝉の大合唱が流れ込んで来ていた。

 っつーか、マジ暑いんだけど。今、何時だよ?

 隼人は手元に置いていたスマートフォンを手に取った。ボタンを押すと、スリープモードだったディスプレイが灯り時間が表示される。朝の八時を少し回ったところだった。

 マジで? こんなに朝早いのにもうこんなに暑いわけ?

 起き上がる気が失せてしまった。隼人はそのままベッドの上に大の字になると、また目を瞑った。手からスマートフォンが零れ落ちる。

 今日から夏休み。それなのに、いつもの習慣とこの暑さで、早めに起きてしまったらしい。部屋には扇風機すらないから、ただ寝転がっているだけでも汗がじんわりと出てくる。

 暑い。溶けそう……。

 隼人は、もしも身体がロウのように溶けるとしたら、きっとこんな感覚なんだろうな、と思った。

 そのとき、耳元で短い電子音が鳴った。首を回してそちらの方を向く。目をうっすらと開くと、スマートフォンの小さなライトが、点滅しながらメッセージを受信していること隼人に教えていた。

 メッセージを読むことすら面倒臭くなる暑さだ。それでも隼人は再びスマートフォンを手に取った。

『今日の午前中、市民プール行かない?』

 親友の陸太からだ。

 この暑さに、最高の誘惑。部活じゃなくとも泳ぎたい。

『行く。九時に現地集合でいい?』

 そう書いて返信する。すぐにスマートフォンがまた着信音を発した。

『了解』

 隼人は起き上がると準備し始めた。水泳部に所属していることもあり、考えなくても身体が勝手に必要なものをバッグに詰めていく。タオル、水中眼鏡、水泳帽子。水着は先に着て行くことにする。すべて仕度を終えると、隼人は母親がいるはずの一階へと降りて行った。

 低いモーター音が一定のリズムを刻んでいる。洗濯機が動いているらしい。ダイニング・キッチンに入るといい香りが漂って来た。テーブルでは隼人の母、聡子がコーヒーを片手に新聞を読んでいた。

「母さん、おはよう」

 隼人は声をかける。

「あら隼人、おはよう。夏休みなのに早く起きたのね」

「暑くて目が覚めた。アイスある?」

「朝からアイスなんてやめなさい。今パンを焼くから」

 そう言いながら、聡子は立ち上がった。

「いいよ、これ貰うから」

 隼人はキッチンの棚からコーンフレークの入った袋を取り、お皿に盛る。そして牛乳をかけるとキッチンに立ったまま食べ始めた。

「隼人、そんなところで食べるのやめなさい。それと、食べ終わったらでいいんだけど、プシュケの散歩に行ってくれない?」

 聡子が言った。仕方のない子ねぇと思っているのがその表情からよくわかる。

「えー。陸太とプール行く約束してるんだけど」

「その前に行けるでしょう? ほら、プシュケも連れけって言ってるわ」

 隼人は、聡子の指さす方を見た。南にある大きな窓の先に、庭がある。

 窓の向こう側に、三角の大きな耳と長い毛を持ったパピヨン犬が一匹、前足をサッシに掛けて家の中を覗き込んでいた。尾を振りながら、期待の籠った眼差しで隼人の方を見ている。あれは自分のことが話題になっているとわかっている顔だな、と隼人は思った。

「母さんも忙しいのよ。夏休みの間くらい、隼人が行ってくれてもいいじゃない?」

 聡子はそう言いながら、洗面所の方へ行ってしまった。お風呂の脱衣所を兼ねているそこには、洗濯機が置いてある。つい今しがた洗濯完了のブザーが鳴ったから、干しに行ったのだろう。

「無理。すぐ行くって言っちゃったもん」

 隼人もそう言いながら空になった器に水を張ると、歯を磨くために聡子を追いかけるように洗面所に入った。

「まったくもう……。『毎日散歩するから飼いたい』って言ったのは、何処の誰なんだか」

 隣からわざとらしい聡子の呟く声が聞こえてきた。身に覚えがありすぎる。

「夕方には散歩行くから」

「はいはい、期待してるわ」

 そんな言い方しなくってもいいじゃん。

 隼人は信用ないなぁと思いつつ、歯を磨き、顔を洗い、簡単に寝癖を直す。そして、昼頃に帰ると聡子に告げて玄関のドアを開けた。

「せっかく陸太君に会うなら、プールだけじゃなくて勉強も教えてもらえばいいのに」

 母の言葉に、隼人は苦笑いするしかない。それでも聡子は、いってらっしゃい、気をつけてね、と笑顔で送り出してくれた。

 門の内側に停めていた自転車に跨り、籠にプールバックを放り込む。顔を上げると少し遠くでプシュケが「ねぇ散歩は?」とでも言うような表情で隼人を見ていた。

 ごめん、プシュケ。夕方には必ず連れて行くから許してくれよな。

 隼人は心の中でそう言いながら、ペダルを思いっきり踏み込んだ。


 陸太は、隼人のクラスメイトである。同じ中学出身で、その頃から仲がよかった。同じ高校に進学してからも、ほとんど一日中一緒に過ごしている。

 ただ、クラスメイトたちは、隼人と陸太が常に一緒にいるのを不思議がっている。と言うのも、性格もタイプも全然違う上に、陸太は、学年で一、二を争うほどの優等生だからだ。それに対して、隼人は至って普通の普通。中の中である。聡子が勉強を教えてもらえと言うのも、もっともな話なのだ。

 実は隼人自身もたまに不思議に思うことがある。なんで陸太と気が合うんだろう? 多分、陸太の性格がいいからだろうとは思っているのだが。

 気が合うというだけあって、部活は二人揃って水泳部に所属している。種目まで同じ──とはいかず、隼人はバタフライで陸太はクロール。未だ二年生だから学校代表の選手というわけにはいかないが、世界史担当の教員にして水泳部の顧問、水野先生の指導の下、お互いにフォームの悪いところを指摘し合ったり、いいところを褒め合ったりして切磋琢磨している。

 普通なら今日から夏休みの部活が始まるのだが、顧問の水野先生に法事があるとかで今日は休みだ。もちろん学校のプールは使えない。

 代わりに陸太が選んだ市営プールは、隼人たちの通う高校の近くにあり、自転車を普通に漕いで二十分ほどで着く距離にある。待ち合わせの時間まであと三十分。余裕だ。

 いつも通学路として使っている道。

 見上げると、広い青空に、綿菓子のように大きく積み上がった雲が一つ浮かんでいた。


 それにしても暑い。前に進むことによって身体に受ける風を心地よく感じる。

 今日のプールはめちゃくちゃ気持ちいいだろうな。

 そんなことを思っている内に、住宅団地を抜け、大きな交差点に差し掛かった。信号は赤だ。隼人はブレーキをかけて足を着いた。その途端に一気に汗が噴き出してくる。

 交差点の付近に街路樹はなく、涼めるような木陰が見当たらない。目の前の道をたくさんの車が往来していくのみ。

 腕で額の汗を拭ったとき、隼人はすぐ目の前に白い蝶が飛んでいることに気づいた。

 モンシロチョウか。そういえば、今朝の夢にも出てきたっけな。

 蝶はひらりひらりと舞いながら、歩道に植えられた茂みの方へと去って行く。見送った後再び前を見ると、ちょうど信号が青に変わっていた。隼人はまた、自転車を漕ぎ始めた。


 大きな道に沿ってしばらく走ると交番が見えてくる。

 ほとんど毎日通っているため、ここのお巡りさんとも普通に挨拶する間柄になっていた。ちょくちょく異動で人が変わるのだが、今の担当は、人柄のいい若い男の人だ。背が高いのに身体が細く、制服に着られているという感じがする。話しやすいこともあり、ここを通る老若男女皆に好かれていた。

 お巡りさんがいるかどうか確認しようと思って目を走らせたとき、隼人はその交番前に男が立っているのに気がついた。指名手配犯や交通安全を謳ったポスターの貼ってある掲示板の前だ。帽子を被り、Tシャツにジーパンというラフなスタイルのその男は『ひったくり多発! 注意!!』と書かれたポスターを眺めていた。何がおかしいのか、薄く笑顔を浮かべている。

 交番の前を通り過ぎようというとき、中から中年の男とお巡りさんが出てきた。

「じゃあ、見つかったらお勤めの会社に連絡が入るようにしておきますので」

「ホント頼むわ。俺、ケータイないと仕事にならねぇんだよ。まだ配達がたくさん残ってるしよ」

 中年の男は苛立ちを隠そうともしないでそう言い残し、立ち去っていく。その頭の上から煙が見えた。煙草だろう。

 隼人はお巡りさんの前で自転車を止めた。そして「おはようございます」と声をかけ、尋ねた。

「事件?」

「いや、違うよ。携帯電話を落としちゃったらしいんだ。そうだ。もし見つけたら交番ここに届けてくれるかい?」

 お巡りさんは少し困った顔で答えた。

「いいよ。見つけたらね」

 ポスターを見ていた男はいつの間にかいなくなっていた。隼人はお巡りさんに手を振って自転車を漕ぎ始めた。

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