ある日、どこかで
長月マコト
プロローグ
青々としたまさしく碧天と呼ぶに相応しい空に、白く山のように大きな雲が構えている。まるでその雲へと導く橋であるかのような虹が、見事なアーチを描いていた。これがマンガやアニメだったとしたら、まさに今から新しい物語が始まりそうな、そんな光景だ。
隼人は、屋上に佇んでいた。鉄パイプでできた手すりに両腕をかけ、その上に顎を乗せて。高校の制服なのだろう、着ている半袖の白いワイシャツのせいで、小麦色を遥かに通り越した色の肌が異常に目立つ。
味も素っ気もないコンクリートで固められただけの屋上には、隼人の他に誰もいない。何をするわけでもなく、隼人はこの見事な空と、眼下に広がる彼が生まれてから十七年間過ごしている見慣れた町を眺めていた。
雨上がりということもあり気温はまだ暑いというほどでもないが、それでも真夏の日差しは強い。
止んでいた蝉たちが、さっきまた一斉に鳴き始めた。隼人にとって、蝉の声は大敵だ。うるさいと言うよりも、とにかく体感温度が増すのだ。より一層、夏だということを実感させられるのである。
ただ、隼人は、何かがいつもと違うような気がしていた。それは、普段よりもずっと高い位置から眺めているせいなのか、それとも、雨上がりの空に掛かる虹のせいなのか……。
そこまで考えて、隼人は一つ溜め息をついた。
そんなわけないよな。いつもと同じ、なんにもない町だ。
人生を変えてしまうような事件が身近に起きるわけでもなく、テレビの天気予報ではピンポイントな情報を聞くことができるわけでもない。欲しいものが何でも手に入る大都市というわけでもなく、自分のような年頃の人間が遊ぶのに困るほど田舎というわけでもない。
本当に、普通の、どこにでもある町だ。
そのとき、ふと、目の前を何かがゆっくりと横切ったのに隼人は気が付いた。ひらひらと舞う、白い小さなもの。
モンシロチョウだ。
緑の多い町だから、蝶が飛んでいることくらい普通だ。別段珍しいものでもなんでもない。しかし、隼人はそれをなんとなく目で追った。
蝶は、上下に左右に揺れながら、屋上と屋内とを繋ぐ扉の方へと飛んでいく。そして、その裏に回り、隼人の立っている位置からは見えなくなった。
「行っちまった」
隼人は呟き、また景色を見ようと振り返ろうとした。
そのとき扉が開き、屋上に幼い少女が入って来た。隼人が見たことのない少女だ。五、六歳だろうか。目が大きく、とても愛らしい顔立ちだ。黒いストレートな髪を鎖骨の高さで切り揃えている。隼人よりも少し幼いくらいだろうか。真っ白なワンピースに身を包み、そこから伸びる手足は健康的に日焼けしていた。そして、なぜか裸足だった。
少女は何かを探すように屋上を見回し、隼人に目を留めると真っ直ぐにやって来る。そして驚いて目を見開く隼人が見つめる目の前で、少女は止まった。
「探したよ。行こう?」
笑顔でそう言いながら細い手を差し出した少女は、前髪を蝶の飾りが付いたヘアピンで留めていた。
「行くって、どこへ?」
隼人が尋ねると少女は事もなげに言った。
「あそこ」
少女が指差す先には、七色に輝く虹がある。
この子、何言ってるんだ?
隼人が口をぽかんと開いたまま呆気に取られていると、ふっと日差しが柔らかくなった。雲の端が太陽を隠し始めたのだ。光源を失い、虹が薄っすらと消えかけていく。
「早く、時間がない」
それを見て少女は焦った声で言うと、隼人の返事も待たずに手を取り跳躍する。
刹那、荒々しい風が吹いた。その信じられない程の勢いに、目を開けていられない、立っていることすらできない。
まるで意思を持っているかのような風が、倒れないようにと踏ん張る隼人を狙って下から吹き上げる。ついに隼人の足が屋上から離れた。その途端、隼人の身体は強い力に煽られた。
背中から何かが自分の身体をすごい勢いで押し上げているのがわかる。
上へ、上へ。勢いが強すぎて目を開けられない。
どこまで行くんだ? って言うか、何が起こってんだ?
オレ、今、飛んでる……よな?
隼人がそう思った途端、唐突に、風が止んだ。身体の上昇が止まる。
水の中を漂っているのに似ていて、それでいて全く違う感覚。
今までに体験したことのない浮遊感に、隼人は恐る恐る目を開いた。
目の前に広がるのは、透明な明るい青。
──空?
隼人は左手に何かを感じた。繋がれたその手の先には、さっきの少女の笑顔。そしてその少女の足の先、遥か向こうに、さっきまで自分が立っていたはずの屋上が見えた。
隼人と少女は、何もない宙に浮いていた。
え? 何? どうなってるわけ?
状況をよく飲みこめないまま、隼人は少女の示す下方を見る。
そこにあったのは、七色に輝く巨大な帯状の淡い光。さらにその下には、町が透けて見えている。
あれは、虹……だ。
隼人がそう理解した途端、今度は落下が始まった。どんどん加速されていく。
落ちる! 死ぬ!?
「う、うわぁあああああ──!!」
虹色のモノを通り抜ける瞬間、二人の身体は強い光に包まれた──
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